時を超えたつながり
〜戦争の傷跡〜
<Update 2007.07.05>


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  サラワクのあるマレーシアは、1941年のアジア太平洋戦争の口火を切ったパールハーバーの奇襲と同時に、マレー半島北部に日本軍が上陸し、その後3年強にわたり侵略、統治された歴史を持っています。今でも当時、日本軍から受けた苦しい体験を持つ人や、肉親を殺された人が多く生存されています。特に、マレーシアは人口の約3分の1が「華僑」です。当時満州を攻めていた日本軍は、満州の抗日運動に連動するマレーシアの「華僑」の動きに敏感になっており、ほかの民族に比べ相当ひどい抑圧、弾圧、虐殺を「華僑」に対して行ってきました。その犠牲となった人たち慰め、覚え、後世に伝えていこうという記念碑が、マレーシアの各地にあります。また、博物館には必ずその歴史を伝えるコーナーがあります。学校ではかなりのページ数を割いて当時のことを学んでいます。 

  サラワクで、私が経験したことがあります。
  あるとき、イバンの民家で飲み会がありました。私が日本人だと分かるとそれまで楽しくお酒を飲んでいた男の人が表情を変え、目を赤くしながら私に詰め寄ってきました。「自分のおじいさんが日本軍によって惨殺された。おまえは日本軍がこの地でどんなことをしたのか知っているのか。日本人としてどう感じているのか。」私は体を動かすこともできず、血の気が引き、ただその人の眼を見つめるしかできませんでした。

  日本の学校教育では、アジア太平洋戦争における軍事侵略について、その事実を薄いベールのようなものに包み込み、あいまいにしか伝えていません。受験勉強では、歴史的事実は単に暗記の対象でしかなく、その背後にある人々の顔が見える授業ではありませんでした。事実を教えられないまま、知らないまま、海外旅行、ボランティア、国際協力などでアジアへ出かけていく日本人が大半であるのが現実です。「アジアの中の日本」として私たちがアジアの良き隣人となり、共生社会を作り上げていくためには、その国の文化や政治、経済、社会などを知るだけでは十分とは言えません。過去の事実にしっかりと目を向け、さまざまな国の、さまざまな人々の異なった目で見た日本の姿をできるだけ客観的に知り、整理し、将来の社会を担う子どもたちに提示していくことが大切だと思います。

  「過去に目を閉ざすものは、結局とところ現在にも将来に対しても『盲目』になる」というヴァイツゼッカー元西ドイツ大統領の言葉がありますが、時代の節目にあたって、過去の事実にしっかりと目を向け、傷を心に刻み込むことが、21世紀に同じ過ちを繰り返さないための大切なことなんとちゃうかな、と思っています。


◆ 「アジアのよき隣人となるために」



LEST WE FORGET


マレーシア・サバ州のサンダカンという小さな町にある戦争記念公園にあった扉の文句。英語とマレー語で「(戦争のことは)忘れない<Lest We Foget>」とかかれてあった。アジア・太平洋戦争中、日本軍はここにオーストラリア人、イギリス人合わせて2750人を拘留していた。空港建設のための労働力として酷使し、その後別の場所に移動させたが、生き残ったのはわずか6人だった。
ジョホールバル州庁舎

1941年12月8日、日本軍はマレー半島北部に上陸しアジア・太平洋戦争の口火が切られた。その後、マレー半島を南下し翌年2月14日にシンガポールが陥落した。シンガポールを攻めるためにジョホールバル州庁舎が日本軍の司令室として摂取された。今でもこの建物は現存する。
国立博物館のモザイク壁画

建物はマレーの伝統建築を模しており、正面の壁面を飾るモザイク壁画には、マレーシアの歴史が記されている。1941年の箇所には日の丸を掲げ、軍靴で人びとを踏みにじる様子が描かれている。過去に日本がしてきた事実を忘れまいとする姿勢がみられる。マレーシア各地の博物館では、自分たちの民族の生活、文化、歴史など展示されているが、その中には必ず太平洋戦争のものが展示されている。
ラブアン島連合軍墓地

マレーシアのラブアン島は、占領していた日本軍と、オーストラリア軍を中心とした連合軍との激戦地となった。戦後は一時的に連合軍の軍事法廷が置かれた。ラブアン島の連合軍共同墓地にはオーストラリア、ニュージーランド、イギリスのほか、マレー人、インド人などの兵士約4千人が眠る。
血債の塔(シンガポール

観光地であるオーチャードロードの少し海側にある。日本軍のシンガポール侵略で殺されたり、拷問によって殺された全市民への追悼碑として、市民の寄付によって建てられた。戦後の開発事業などによって発見された多量の遺骨が、慰霊碑の下に埋められている。碑は英語、タミール語、中国語、マレー語の4ヶ国語で記されている。中国語では「日本占領時期死難人民記念碑」と刻まれている。
日本軍による空港建設に従事した老人

アジア太平洋戦争時、3年強にわたってサラワクを占領した日本軍は、サラワク各地に飛行場を建設した。多くの人々がこの労働に借り出され、強制的に労働を強いられたという。この写真の老人から当時の話を聞いた。まず最初に彼は日本軍がつくった学校に強制的に入れられたが、坊主にされ、日本語を強制され、言うことを聞かないとビンタを食らうという状況に我慢できずに逃げ出した。その後日本軍に雇われ、シブという町の飛行場建設に従事した。当時耳にした軍歌や「バカヤロー」ということはを今でも覚えていた。


<今後の掲載予定>


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