芦川淳平の浪曲研究所

芦川淳平の自伝的芸能遍歴
〜僕が出会った素晴らしき人々〜

第三部 芦川淳平おじさん白書


第三部 芦川淳平おじさん白書

若手四人の会「ニューウエーブ4」

 こうして浪曲三昧の大学生活をすごした僕は、四年後就職をしなけりゃというとき、はたと困ってしまいました。今さら銀
行員や営業マンなんかするつもりになれなかったんです。経済学部卒業でもいまだに経済はからっきしですが、それは大
学で浪曲以外まるで勉強しなかった報いです。

 塾の講師でもやりながら、浪曲にかかわって細々生きてゆくかな、と思っていたときに、木津川計さんが「そんな事した
らいかん、行くとこないのやったら、ここへ行くか」といって京町堀の広告プロダクション大阪宣伝研究所へコピーライターと
して世話してくれました。

 広告コピーの書き方を勉強できたことは、それ以後物を書く仕事をする上で実に有益でした。会社には悪いですが
給料もらって勉強できたような物です。でも他人の商品を良いことづくめでごまかしごまかし飾るという広告という仕事自
体、自己主張に強い僕にはどうしても好きになれないものでした。結局一年半で職を辞しました。

 その時またもや木津川さんが「ほんならこっちへ行き」と世話してくれたのが河内八尾のローカル新聞・やお市民新聞
社でした。そういい仕事でもなく給料もせこかったですが、これも物を書く修業と思いしばらくいようか、と思ったら、何と一
年半後社長が中風で倒れてしまい、記者は僕一人だったので続けざるを得なくなりました。でもこれは楽しかったです
ね。好きなように書けばよかったし、仕事が楽でした。

 ですから浪曲にも再び関わりを持つことができたんです。


 これはコピーライター時代ですが、暗くくすぶってる若手浪曲師にコンテンポラリーな活躍の舞台をと言うことで、友人
の山中義明君と一緒に松浦四郎若、京山幸若、天光軒新月、吉田若笠の四人に浪曲ニューウエーブフォーと言う
グループを結成してもらい、一年かんんという期限で毎月一回新ネタの発表会を開きました。新聞にも売り込んで、当
時朝日の田中三蔵さんが大きく取り上げてくれたり、味の素のインスタント珈琲の新聞広告に載ったりしてそれなりの話
題づくりはできました。それで四人が売り出すところまでは行きませんでしたが、一つの経験にはなったと思います。

 八尾へ来て始めたのが、やお文化協会の協力を得て毎年一回八尾で浪曲大会を開き、そのプロデュースを担当さ
せてもらいました。プログラムによって同じ出演者でも公演の魅力を増すことができると言う実験で、忠臣蔵や太閤記と
言った特集はもちろん、今やる人がなくなったかつてのスタンダードナンバーを当代の第一人者が挑戦するという「不滅
の名作集」はNHKのニュースで取り上げてもらったこともあってプリズムホールの2階席まで埋まる大入りになりました。こ
の時幸枝若さんは「父帰る」、駒蔵さんが「吉原百人斬り」、五月一朗さんが「佐渡情話」、小円嬢さんが「壷阪」、
春野百合子さんが「大高源吾」をやりました。この内のいくつかがその後それぞれの演者の持ちネタになっていることは
一つの成果と自負しています。

 十年続けて、お客さんの馴染みも出来たのをやめるのは惜しいと、その後何年間か親友協会が引き継いでやってく
れましたが、残念ながら府の補助金が切れて昨年からは中断しています。

 他にも駒蔵さんの芸術祭参加公演など企画しましたが、それなりに愉快でした。

あかんたれが「おはよう浪曲」の司会

 昭和63年。少し前に社団法人になった親友協会がごたごたしていまして、真山一郎会長から京山幸枝若会長に代
わったとき、幸枝若さんから「ちょっと協会ややこしいときやから、浪曲のこと分かってる人に役員に入ってもらいたいんや。
イマちゃん、監事になってくれへんか」と相談を受けました。評論する立場の人間が内部に入ると、書きたいことを自由に
書けなくなるので、と一旦お断りしたんですが、「今人選で揉めると、又ややこしなるねん。あんたやったら、特定の誰か
とつながってる人やないから、どこからも文句でえへんねん。頼むわ」といわれて、それならば、と引き受けた親友協会の
役員でした。もう13年になるんですね。

 時代は昭和から平成に移ります。幸枝若さんも、その後病気がちになり、平成三年に亡くなりました。
 そこへ、またまた予想外の話が来たんです。朝日放送の「おはよう浪曲」。
 ラジオの方は駒蔵さんが司会をしていて、当初浪曲カレンダーという、その日の歴史上の出来事を一節やるコーナー
がありました。最初は提案者である朝日放送の当時ラジオ局長だった
狛林利男さんが書いていたんですが、忙しくなっ
たということで、ある日
松田隆作ディレクターから、一年分書いてくれと言う話が来ました。これというネタのない日は大
変でしたが、これは勉強になりました。浪曲の台本をちょこちょこと書き始めたのもこの頃からです。

 一方テレビの方は、幸枝若さんが司会をしていました。ところが病気でちょっと無理だということになり、後任を探し始め
たんです。ある日、制作の東通企画の
勢井亮度プロデューサーと久松邦夫ディレクターに梅田の料亭に呼ばれまして
(当時東通企画はお金持ちだったんですね)、司会をやってくれ、といきなり言われたんです。エエ!なんでやねん、と言
うのが率直な感想でした。誰に頼むのがエエか相談したいという話やとばっかり思っていたもんですから、びっくりしまして、
「そんなあほな。何考えてまんねん」とこたえました。

 だいたいぼくは、子供のときは全然平気だったのに、大きくなるに連れだんだんあかんタレになりまして、人前で喋るな
んて一番の苦手だったんです。だから書き手の方を選んだ。その僕に一番苦手な司会をせえとは、このおっさんいったい
何考えてんねん、と思いましたね。

 当時候補者としては、社内で三つの考え方があったそうです。一つは幸枝若さんの後任だから別の浪曲家にと言う考
え。具体的にはラジオで実績のある駒蔵さんが最適でしょう。ところが勢井さんとしては、演者が司会をするということに
幸枝若さんの経験でちょっと疑問を持ってたそうです。司会者が司会者の立場でなくどうしても浪曲師京山幸枝若の
立場になってしまう。たとえば、自分の弟子が出たときなんか、「おい、お前今日は何をやるねん」というような話し方にな
らざるを得ない。これでは、口演者が一段安くなってしまいます。それもあって、浪曲人にはしたくないという考えを持って
いたようです。幸枝若さんの前に司会をしていたのが朝日放送のアナウンサー植田博章さんでしたが、この人は時間に
あわせて自由きままに喋ってくれた、こういう人がないかということになったものの局アナはちゃんと喋り台本を書いてくれな
ければ無理です、と言う結論でこれもダメ。ご承知のようにあの番組は収録時に、口演の残り時間にあわせて即興で
喋らなければなりません。じゃあ漫談ができるようなタレントにという考え方もあって、浜村淳さんの名前が挙がっていまし
た。しかし、勢井さんは、喋りのプロかもしれないが、浪曲のプロではないタレントにとって付けたような司会をさせるのは
嫌だったそうです。喋りは素人でどうなるかわからんけど、浪曲を愛しているしかも浪曲について語れる、そして若い人と
いうことで、「あんたしかない」と、説得されました。実際は、台本書いて与える手間はいらんし、何よりも安上がり、とい
う計算がなかったとも思えないのですが、それにしてもこの決断は勇気の要ることだったと思います。司会となれば一回や
ってやっぱりあかんかったな、ではすまないのですから。少なくともそのシリーズは続けなければならない。それを、人前で
喋ったこともない僕に任せようというのは勇断ですね。

 この勢井さんの引き立てのおかげで、僕は新しい分野を開くことができたんです。なんじゃかんじゃとやってる内に、この
司会も平成三年からもう十年になりました。それ以前の収録分も幸枝若さんが亡くなって司会の個所だけ差し替えま
したから、平成12年までにとった司会の本数は、210本になりました。

 そして、平成九年からはNHKの衛星放送の浪曲の一週間番組がはじまり、以後総合テレビの東西浪曲特選ともど
も、
熊谷富夫プロデューサーの引き立てで解説を担当させていただいています。
 こうしてたどると、自分はいつも誰かが引き立てて新しいことにチャレンジさせてもらってきたんだな、とつくづく思い返すの
です。人間は自分で生きてるように勘違いしがちですが、常に社会から、周囲の人々から生かされているんですね。そ
ういう人に恵まれたことは有難いことだと思っています。

 では自分もいつか人を生かせるようになるだろうか。そうならねば申し訳ないし、僕にとってその手段は、知恵や作品を
提供することしかないのですが、まだまだ修業が足りないな、と自戒する今日このごろです。


作品づくりの道険し

 僕が提供した作品は、プロフィールのところに列挙しましたが、これもその機会を与えてくれた演じ手の皆さんに生かさ
れているに過ぎません。

 中でも思い出深いのは、最初のレコード化作品となった三波春夫さんの「河内ばやし」です。これは、八尾市が市制
40周年を迎え、この年文化会館の柿落しもあるということで、僕は自分の思い入れとして是非これを三波さんに飾っ
て欲しいと思いました。僕が新聞記者をしていてその影響力を利用するようなことは嫌で、それまで全くしませんでした
が、この時ばかりは、かなり強引に地元の有力者の方々に働きかけました。単に三波さんを呼んで歌謡ショーをやるだ
けでは弱い、40周年記念の八尾の歌を作ろう、これを出せば、柿落しも他の歌手じゃなく文句なしに三波さんに落ち
ると言う戦略でした。

 でも金のかかることですから、多くの人に力をもらいました。三波さんには歌を作ってもらうに当たって八尾はこんな町で
すよと言う資料代わりに歌のフレーズをいろいろ提案しましたら、「これは君の作詞でレコードにしよう」と三波さんが言っ
てくれて、「河内ばやし」ができたんです。僕は遥かなる恩人である三波さんにすこしでも恩返しをと云うつもりで企画し
た一連の事業だったのですが、結局は逆に三波さんに引き立ててもらって僕が作詞者になれたわけです。

 幸枝若さんの「左甚五郎」は、「師匠、このごろ浪花節では甚五郎ばっかりやってるのに、歌はいつまでも小鉄だけで
はいかんじゃないですか、甚五郎さんの歌も出したらいい」と提案したら、「そうやな、イマちゃん書いてくれ」と言われて機
会を貰ったような物です。

 浪曲や河内音頭もいくつか書いてそれぞれやってもらってますが、これはなかなかむづかしい。歌と違って口演者に練り
上げてもらわなければ、作品として完成しない物なんですから。作者の責任で言えば演者が練り上げてやりたくなるよう
に書かねばならんということですが、なかなか難しいですね。

 昨平成11年は、中村美律子さんの歌謡浪曲「桂春団治」を書き下ろしましたが、これは楽しい仕事でした。レコー
ディングにも立ち会っていろいろ意見も言いました。作り上げてゆくという面白さを実感したのですが、それでも出来上が
ったテープを聴くと、「しまった。ここはこうすればよかった」という個所がたくさんあるものです。中村さんが舞台で練り上げ
てくれればと願っています。この仕事に僕を推薦してくれたのは中村さんの師匠春野百合子さんです。「これからさき、
浪曲をやろうと思ったら、芦川君は利用しなければならなくなるから、彼に頼みなさい」と言う趣旨でした。中村さんの新
しい一面を引き出したいと意気込んだ僕ですが、やっぱりここでも別の人から引き立てを受けているんです。

 皆さんの期待に答えというか、お役に立てる存在になるよう、もっと努力しなければいけませんね。
(2000.6.20)