第一部 芦川淳平高校白書
●御幼少のみぎり
平凡な地方公務員の家庭に生まれた僕には、周囲に何の芸能的環境も、まして浪曲の臭いなど全くありませんでした。
海軍にいた父親が風呂で教えてくれた歌はもっぱら軍歌。幼稚園で・・金色の民いざやいざ 大和民族いざやいざ 戦わんかな時来たる・・・とか歌って、母親が先生に「ちょっと行きすぎじゃないでしょうか」と怒られました。父親は「あんまり学校で歌うなよ」と言っただけでしたが。
僕が生まれる前の年に亡くなっていましたので、顔も知らないんですが、父方の祖母が、男勝りの人で西部劇だとかチャンバラ映画だとかが大好きだったそうです。後年ボクが芸事に興味を持ち始めたのを見て、おばあさんがいたら喜んだろうな、と言われたもんです。確かに子供の頃から学芸会とかは好きでした。小学校ではその頃流行ったピンキーとキラーズの「恋の季節」をボクがピンキーでバックコーラスを女の子でやる逆さまでやったこともありました。
●浪曲への目覚め
最初の出会いは、中学二年のとき、神戸元町の大畜というレコード屋で買った三波春夫先生の「俵星玄蕃」に大感動してしまったことです。実は父親の誕生日のプレゼントを探していて、これにしようと、おもしろ半分に買ったものなんです。ところが親父は「俺は裕次郎の方がエエ」とか言うもんで、また買いなおして、結局「俵星」は僕のものに。
聞いているうちに、血沸き肉躍るというのか、ワクワクしてきて、ぐっとこみ上げてきて、すっかりはまっちゃいましてね。ボクの眠れる感性の芽がむくむくと起き出したんです。すぐに全部覚えちゃって、別のも聞きたくて、小遣いと相談しながら、次々に三波春夫のレコードを買い漁りました。
やがて高校受験です。中学でも受験をして私学に行った経験のある僕は、高校を受験して、またその後の三年間大学受験のために日を送るのかと思うとブルーな気分になってしまい、大学受験しなくてすむ高校を目指そうとしたのです。そこで狙いをつけたのが関西学院高等部でした。公立との併願で関学と書いたボクに先生は、「お前、関学の高校なんか行ったら大学も関学しか行かれへんぞ。公立行った方がエエのと違うか」と言いましたが、僕はこう答えました。
「いやそれでよろしいねん。神戸高校行って三年間受験勉強しても、二百人関学行くんでッせ。それも通るかとおらんかわからん。受験勉強せんと関学行けたら御の字ですがな。まあ、大学関学やと言えば世間的にもかっこわるいことないし・・・」
何たるバランス感覚、今さらながらようこんな計算したな、と思い出しては苦笑しますが、あんまり汗だくになるのはかっこよくないな、スマートに生きたいな、というボクの人生観を物語っているようです。またそれが、関西学院のムードにマッチしたのか、高校大学の七年間は、今思ってもすばらしき日々でした。
●合格のご褒美は新歌舞伎座
受験番号444番。忘れられない番号ですね。高等部の入試は全然できませんでした。面接もあって、「なぜ関西学院を志望したの?あ、君併願ですね、いやいいです」と言われたので、「いや、通ったらこっちへ来ますねん」と慌てて言い訳したこと覚えてます。
あかんやろな、と思いつつ、発表を見に行ったら、いかなる天運か、444番がありましたんです。急いで公衆電話に駆けつけて、母親の電話で一声「通ってたで。切符頼んでよ」。
なんのことかと思うでしょ。三月の大阪新歌舞伎座は三波春夫特別公演。試験に通ったら行かせてやるという親との約束で、それが第一の目標だったんですね。
三月二十九日の千秋楽。祖父を付き添いに新歌舞伎座へゆきました。芝居茶屋で買った切符ですから、中央の前から3番目の席。芝居は「立花左近」。お目当ての歌謡ショーは、「大忠臣蔵を唄う」を含めてたっぷり一時間半ありました。「太閤おどり」にはじまる曲目。「雪の渡り鳥」「船方さんヨ」「一本刀土俵入り」。インタビューコーナーがあって、長編歌謡浪曲「天龍二俣城」。明治大正はやり唄のコーナーで「東雲節」「まっくろけ」「ストトン節」「金色夜叉」「東京節」。新曲「にっぽん音頭」。そして大忠臣蔵を唄うでは「ああ松の廊下」「頃は元禄十五年」、浪曲「南部坂雪の別れ」、「俵星玄蕃」でクライマックス。フィナーレは「東京五輪音頭」投げ込みの手拭いも貰いました。司会の荒木おさむさんのナレーションまで含めて今もほとんど覚えています。それほど脳裏に焼きついた感動でした。
思えばこれがボクの舞台芸能の世界との初めての対面でした。
もっともそれ以前に、中学の頃、神戸国際会館で「岡八郎ショー」とか歌舞伎座の「伴淳三郎公演」なんかを見に行ってますが華やかさ、豪華さは全然別物でした。
この頃、三波春夫後援会に入って、以後毎年新歌舞伎座、神戸国際会館、大阪サンケイホールなんかに来ると行ってました。後援会春の集いというのが、大阪心斎橋の大成閣であって、おばさんばっかりの中に高校生の僕が行って一人浮いていたのを覚えています。でもこの時の抽選で一等賞の三波春夫賞が当たったんです。ドイツ製の掛時計ですが、今も持っています。
●初舞台は授業中の教室
かくして、三波春夫キチになった僕は出る歌出る歌全部覚えて、一人深みにはまっていましたが、覚えるとそれをやりたくなるものですね。当時はカラオケなんてものはありませんでしたから、アカペラでやってるのを高校二年のとき、クラスメートが聴いて、今度のクラスにおかしな奴がいるぞ、こいつにいっぺん授業中に歌わせて、授業を潰してしまおう、と悪いことを考えたんですね。
二年生の古典の教師は、今も関西学院の高等部にいらっしゃいますが、当時若かった芝川又美先生で、この人は学生時代フォークソングの全盛期にダボーズというグループを作ってレコードも出していた人だったんです。その栄光を胸に秘め、授業にはギターを持ってくるんです。生徒達にはやされて弾き語りで歌ったりするんですが、僕らのクラスでは、悪ガキ共が「先生の歌なんか聴きとうない。うちにおもろいのがおるから、こいつに歌わせる」と、ぼくがやらされまして、はじめて人前でやったのが長編歌謡浪曲の「勝海舟」でした。これが大いにうけまして、古典の授業のたびに、やるんですね。ダから毎回新ネタがいるわけで、これを励みにずいぶん覚えました。
二年C組は、よくそれだけ集まったなと先生がいうほど落ちこぼれやちょっと不良っぽいのが集まったクラスで、面白いのは勉強は全然ダメだけど、遊ぶことになるとクラスが団結してしまう、学園ドラマのようなクラスでした。担任の山本善偉先生が年は取ってましたが学園ドラマに出てくるような熱血教師で、職員会議では我がクラスの素行でずいぶん槍玉に挙げられていたのを受けて立ってくれていたんです。
●クラスが持ち上げた文化祭の異色スター
そうこうしているうちに、その悪ガキ共が考えたのは、文化祭でこの三波春夫もどきを使って遊ぼうということでした。一年目は和風喫茶浪花と言う教室を使った店でのまあ今で言うライブですね。伴奏はギター二本。剣道部の鈴木君と柔道部の武田君。衣装はゆかたに金粉を膠で張りつけて帯は千代紙でキンキラキンにしてやったんです。
これがまた人気でして、文化祭が終わるなり、来年はステージをやろう!それも芝居と歌謡ショウーの二本立てだ、と大胆な計画を立てて、一年前から文化祭一色のクラスになってしまいました。受験のない高等部ならではのことですし、クラブ活動をやっていない生徒にとってはまさにクラスがクラブだったんですね。
芝居は何をやるか?面白いチャンバラが良いというので、「決闘高田の馬場」と決まり、僕が台本を書くことになりました。講談本を調べたり、ちょうど名画館でやっていた阪東妻三郎の映画を見に行って、台詞をテープレコーダーで録音して帰って書き上げたんです。男子校ですから、後の安兵衛の妻になる堀部の娘も男がやります。これが、悪ガキのリーダーというか、クラスのゼネラルプロデューサー井上達朗君の役。糊屋の婆さんと叔父菅野の二役を古典の芝川先生。村上兄弟が立花敏郎君、丹波俊二君、中津川裕見が柔道部の岡本文夫くん。長屋の大工と左官に遠矢保君、D組の武井くん。もちろんボクは主役の安兵衛。衣装や鬘は、息子さんが山本先生の教え子というコネをたどって宝塚の内海重典さんに口を利いてもらって本式のものを借りました。ちなみにボクの鬘は芦屋雁の助さんのものだったそうです。演出は国語の森本先生でした。描き割を作ったり、音響照明とクラスのほとんどが役割を持って作った芝居です。
歌謡ショーの方は、前年のギター二本から、リード(鈴木晶)、ベース(丹波俊二)、フルート(岡本文夫)、キーボード(中西章)、ドラムと揃ってヨウトラドランクスと言う楽団が出来上がり、宝塚市民会館のステージで満員の観客を前に大いに楽しんだ当日でした。僕がその後、今日に至るまで芸能の魅力から離れられないのは、素人芝居でもなんでもいっぺん舞台で脚光を浴びる感動に味をしめてしまったからでしょうね。
ボクは良い気分しか残っていませんが、現実は非情です。この芝居と歌の公演で苦楽を共にした仲間の多く、特に主要な役割を果たしたメンバーが、及第点に足らず大学に行けなくなったのはなんとも哀しいことでした。