芦川淳平の浪曲研究所

芦川淳平の自伝的芸能遍歴
〜僕が出会った素晴らしき人々〜

第二部 芦川淳平青春白書


第二部 芦川淳平青春白書

浪曲研究会創設

 関西学院大学に入ってボクは、まずクラブを探し、古典芸能研究部を訪ねました。歌舞伎、文楽、能、狂言、落語
と言った芸能を研究するクラブでしたが、ひねくれ者のボクは、一年生からどれもイマイチだなとか言ってる異端者でし
た。

 ところがここに運命のいたずらがあったんです。そのころ、桂米朝、小沢昭一といった人々に面白い浪曲師がいると見
いだされてマニアックな人気を博していた
広沢瓢右衛門さんの独演会をクラブのOBが主催して開くことになったんで
す。現役もそれを手伝おうということで、僕がその役を買って出て、瓢右衛門さんに会いました。会って話を聞くためには
浪曲ももっと知っておかねばということでレコードなんかをいろいろ聴きにわか仕込みの知識をつけて、いろいろ教えてもら
いました。

 

 瓢右衛門さんとは以後亡くなるまで十年以上本当に親しくしていただき、浪曲とは何かという精神を学びました。ボク
の浪曲観の基礎は、師に学んだところが今も大きく占めています。

 この瓢右衛門さんとの出会いで浪曲の本格的に興味を持ったボクは、クラブの中に勝手に浪曲研究会と言う会を作
って浪曲の研究誌「浪曲展望」という雑誌を作りました。第一号は瓢右衛門師のことをあれこれ書いたタイプ印刷の六
頁のもの。これを浪曲関係者に全部送りつけたのが、ボクと浪曲界の関わりでした。瓢右衛門さんの紹介で第二号は

梅中軒鴬童さんにインタビューしました。瓢右衛門さんに朝日座に連れていってもらってたくさんの浪曲師に会いました。
大学生が浪曲に興味を持ってくれているということで、概ね歓迎され、この雑誌はボクにとって名刺代わりになったんで
す。

 でも、第一号を送って最初に返事をくれたのは、なんと三波春夫さんでした。僕の青春の憧れのスターが墨痕リンリン
の手紙で、「学生が浪曲を研究するとはうれしい、何か誌面を飾れるような協力をしましょう」と言うものでした。このとき
の大感激は生涯忘れるものではありません。ちなみに同時に送った村田英雄さんからは何の反応もありませんでした。
やっぱりこれがご縁なんですね。村田さんとは現在に至るまで接点はありません。




二人の師匠

 三波さんが誌面飾ってやろうと言ってくれた、これを逃してなるものか、と僕が考えたのは、瓢右衛門さんと三波さんの
対談でした。題して「美声・悪声日本一対談」出演中の梅田コマの稽古場で二人に対面してもらいました。これを三
号四号で掲載しましたが、後に歌舞伎座の三波春夫公演の番付に転載されました。

 三波さんと瓢右衛門さんこのお二人が何処のなんとも分からぬただ生意気なだけの僕を受け入れ、引っ張りだし、導
いてくださったことが僕の今日を作ってくれたとしみじみ思っています。このお二人がなければ僕の浪曲との出会いは、学
生時代の一時的な興味で終わっていたでしょう。

 芸能への興味をふつふつと沸き上がらせてくれた三波春夫さん、浪曲とはこういうものだと、悪口の表現方も含めて学
び取らせてくれた瓢右衛門さん、対照的な芸風でもあり、考え方も立場も大きく違うお二人を共にお近づきに得たこと
が、僕の浪曲を見る目を偏らないものにしてくださったのだとも思っています。即ち、僕にとっては恩人のお二人が自分勝
手に決めた師匠なんです。ですから僕は、この二人だけに自分にとっての師匠という気持ちを持って「先生」と読んでい
ます

 瓢右衛門さんとはお亡くなりになるまで行き来しましたし、皆さんのお力もいただいて追善公演も開催できました。恩
返しにはなりませんが、その時々の自分にできた精いっぱいは果たしたつもりです。

 瓢右衛門師には大学で二度公演してもらいました。一度は独演会。客集めに苦労してのを覚えています。そこで二
度目はあろうことか、大学祭の僕の歌謡ショーの中でやってもらいました。売れてる盛りの瓢右衛門さんを素人の前座
で使ったのには、今思えば冷や汗もんですが、あのうるさい人が気分よくやってくれたのは僕を可愛がってくれたからだった
んですね。この時「谷風の情け相撲」をやってくださいました。三味線は誰だと思いますか、
泉和子さんでした。
 ところでこのとき、僕の舞台衣装はもうゆかたにペンキを塗ったものではありませんでした。なんと宮川左近さんにお借り
したんです。これは、「浪曲展望」の次の号でインタビューした
春野百合子さんの口利きでした。皆さんにホントにお世
話になってるんですね。

雑誌売りの学生生活

 

「浪曲展望」作りはじめて雑誌づくりが楽しくて仕方がなかった僕ですが、印刷するには金が要ります。そのために学生
時代は効率のいいアルバイト塾の講師をずッと続けてきました。こんな先生に教えられた生徒は気の毒で、エピソードも
あるのですがこれは余談になりますのでまた別の機会に。

 でもそれだけではありません。印刷は第二号から「上方芸能」編集部のあゆみ印刷でやってました。木津川計さん
の出会いはこれ以来です。印刷代はなかなか払わないのに、要求だけはうるさい最低の客でしたが、応援してください
ました。卒業後は就職先も木津川編集長に世話してもらったり、今日に至るまでいろいろお世話になっています。

 そして、もう一人の恩人は木馬亭の芝清之さんでした。当時はまだ工務店の社長で芸人たちの良い旦那だった芝さ
んは、最初の号から経済的精神的に支援して下さり、毎号二百冊買ってくださいました。実は創刊2号の鴬童師のイ
ンタビューでちょっとした問題が起きたのです。鴬童さんが「木馬なんて半月だけちょろちょろッとやってるだけで、寄席のう
ちにはいらない」とおっしゃったのをそのまま載せたため、東京の協会で怒る人がいて、こんな本は送り返せ、とやったの
を、芝さんがとりなしてくれて事なきを得たことがあるんです。その後芝さんには、たくさんの人に引き合わせてもらいまし
た。関東の浪曲人はもとより作家の
小菅一夫さんとの出会いも芝さんの引き合わせが最初でした。後年「月刊浪曲」
を芝さんが始められたとき十分なお手伝いも出来ませんでしたが、芝さん亡き後、現在後を引き継いだ
布目英一君
できるだけは協力をと思っているのも芝さんへのささやかな恩返しのつもりなんです。

 春野百合子さんの後、僕は三代目天光軒満月さんの虜になりました。芸風が好きだったのは当然ですが、楽屋での
ウイットに満ちた与太話がなんとも魅力的で、満月さんの後ばかりついて回ってました。「浪曲展望」を浪曲大会に持っ
て行っては客席を回って売り歩いていたんですが、満月さんはいつも自分の舞台で向上を切ってくれて、その時は大い
に売れたものです。ちなみに当時車なんかなかった僕ですが、大学の友人の
生田一雄君が愛車のビートルでいつも京
阪神の劇場まで本を運んで販売を手伝ってくれたのも忘れることはできません。

 やがて三代目の吉田奈良丸さんが亡くなりました。追悼号を計画し、吉田一若さんとも親しくなりました。一若さんに
はよく飲みに連れていってもらいました。奥さんのスナック、スワンには今もよく行きます。

 

 でも飲みに連れていってもらったというのはやっぱり京山幸枝若さんでしょう。ぼくは、最初幸枝若さんにはどうも近寄り
難くあんまり好きじゃなかったんですが、雑誌をやる以上幸枝若を抜きにはできないと、第九号で幸枝若特集を組みま
した。やっと来たのか、と言う感じでしたが、その出来栄えが気に入ってくれたのか、それ以後は、イマちゃん、イマちゃんと
飲み歩きに誘ってくれました。新聞連載のゴーストライターも頼まれて、半生記も書いてくれと言われ月刊浪曲に連載
しました。そういえば幸枝若さんの最後の歌謡曲となった「左甚五郎」は僕が提案して作詞して贈ったものです。ちなみ
にこれは幸枝若さんが亡くなって、ギャラを貰わずにうやむやになってしまいましたが・・・。近寄り難かったのはお互い人
見知りするシャイな人だったからだな、と後で思い至りました。

 

 反面近寄りやすかったのは、広澤駒蔵さんです。飾らないいばらない駒蔵さんにはよく何でも話しました。一番おごっ
てもらった人でしょうねきっと。駒蔵さんに少女浪曲の弟子を引き合わせたのも僕です。僕の勤務先の事務員さんの娘
でやってみると言うので、じゃあ、気さくな駒蔵さんにということで広澤亜希としてデビューしました。この時三味線をひてく
れたのが岡本貞子さんです。岡本さんは同じ八尾にお住まいでもあり、いまはもっぱらご主人の中川勝太郎さんがちょ
いちょい遊びに来てくださいます。