失神バンド オックスのすべて   

GSブーム末期に咲いた一輪のバラ。
失神で全国に嵐を巻き起こしたオックスのすべて

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 前書き 私とGS、そしてオックス
 第1章 オックス、その結成とデビュー (地図:ナンバ一番の場所 資料:オックス結成の前夜)
 第2章 オックスとサイケなファッション                
 第3章 オックスと失神       (当時のスケジュール表)
 第4章 赤松愛脱退 そして解散
 第5章 オックス解散後のメンバー達

オックス ・メンバープロフィール   参考文献
 オックス・ディスコグラフィー (EP, LP)
 A−オックスの曲が聴きたい人へ CDガイド
 B−オックスの写真が見たい人へ  フォト・アルバム
 C−オックスの映像が見たい人へ

オックスと70年代のアイドル達

    ジャズ喫茶とは  大阪のジャズ喫茶 ナンバ一番

ローズマリー / 夏夕介  ジャケット写真集 

別冊 1- タイガースとオックスにおける「夢の世界」(作詞家・橋本淳の研究)

別冊 2 - 真夜中のラジオGS談義

別冊 3 - おひるのラジオ「失神」談義

(NHK FM ひるの歌謡曲スペシャル 「GS特集 」)

オックス ジャケット解説
雑誌とオックス
♪♪おたよりコーナー♪♪(みなさんからのメールを紹介
 


(文中敬称略)

前書き  私とGS、そしてオックス

GS(グループサウンズ)ブームは1967年ごろなので、1960年生まれの私は残念ながらちょっと若すぎた。「ナンバ一番」とか「ACB」とかの名前にはすごくあこがれて、「もう少し大きくなったら、ジャズ喫茶にGSを見にいくんだ」と思っていたのに、中学生になる前にGSブームは終わってしまっていた。 だけど、ほぼ小学生の間ずっとGSの音楽が周りにあったのは間違いない。

一緒に住んでいた叔母が、しょっちゅうベンチャーズ、寺内タケシなどのレコードをかけていたので、幼稚園の終わりには、エレキ・インストものをBGMにして遊んでいた記憶がある。

そして登場したグループ・サウンズ。リード・ギターの響きも、オルガンの甘い音色も、リード・ヴォーカルの切ない歌声も、そのすべてに私はすっかり魅了された。小学校に入るころ、すでにGSは大流行の兆しを見せていた。 叔母はサベージの大ファンで、毎晩「いつまでもいつまでも」のレコードをかける。この曲がまず6歳の私の完全な子守歌になった。

中学生の従姉はジュリーの大ファンだったし、友達の家へ遊びにいくと、お姉さん達は、決まってタイガースの話をしていた。 タイガース主演映画のこととか、きのうテレビでタイガースがビートルズの「ヘイ・ジュード」を延々15分間も演奏したんだ、とか。 私は自然と「モナリザの微笑」を、お習字のお稽古に行く途中、口ずさんだりするようになっていた。

何せどこを向いてもテレビはGSばっかりで、歌謡番組がゴールデンアワーを華やかに彩っていた中、テンプターズ、ゴールデン・カップス、ジャガーズ、カーナビーツ・・・メジャーなGSのヒット曲は私にとって、懐かしのメロディーというより、日常そのものなのである。 ロマンチックな歌詞はどれもステキで、私は今まで知らなかった言葉を、たくさん覚えた。 私の日本語習得に、GSのヒット曲は欠かせないお手本だったというわけだ。

そして小学校3年になった1968年にオックスと出会った。

GSブームも末期になって登場したオックスであるが、もしその登場がもう少し早ければ、私はこうまでオックスに夢中になったかどうかわからない。 少なくともちょうど子供から少女へと移り変わる、感受性の強いときに現れたのが、オックスだったと言える。
なかでも私は当時17才の野口ヒデトの大ファンで、「一度失神してみたい」とか、訳もわからず思ったりしていた。

オックスの記事の載った週刊セブンティーンを隅まで読み、ピン・ナップを部屋に飾る毎日。オックスの出るテレビ番組は欠かさず見て、「オー・ビーバー」は一回聴いただけでちゃんとメロディーと歌詞を覚えてしまった。

ある夜、11時過ぎにオックスの「失神実験」なるものをテレビで放送した。
オックスが「テル・ミー」を歌って本当に失神するのか、という番組である。 これによって
「テル・ミー」という曲は私にとって魔法の響きを持つ曲となった。 下手なピアノを一本指でたたきながらメロディーを覚え、たまたまストーンズの原曲のレコードを叔母が持っていたので、それを掛けてわからない英語の歌詞をながめたりした。
自分の意志でおぼえようとした最初の洋楽が「テル・ミー」だ。 すべてオックスがきっかけだったのである。

よくしたもので私には熱烈なオックスファンの親友がいて、毎日学校でオックスの話ばかりしていたし、オックスの曲を廊下で歌ったりしていた。
オックスのファンは特に低年齢層が多いと言われるが、1968年デビューがその大きな理由であると思う。子供でもGSに目が向くようになっていたものの、ブルーコメッツ、スパイダースはおじさんすぎるし、タイガースはすでにお姉さん達のスタンダードだった。
小学生にアピールするGSとしてはオックスの方が、その失神というスキャンダル性において、上だったのではないか。

 

オックスは確かに失神によって一世を風靡した。
しかしそのオックスのことを、その部分だけを取り上げて、「単に失神で有名になっただけのバンド」という評価はして欲しくないと思う。

もしオックスがつまらないバンドだったら「失神」すらも注目されずに終わっただろうし、こうまでファンの支持も得られなかっただろう。CD再発などで評価されることもなく終わっているだろう。

それよりも5人のメンバーの、ミュージシャンとしての資質を見て欲しい。彼らの演奏、ステージ構成が魅力的であったからこそ、少女達は熱狂したのだから。 当時のメディアは、そういうオックスにとてつもないパワーと、かつてなかったエネルギーを感じたからこそ、演奏中に気を失い、かつ見ているファンも倒れてしまう現象を、驚異をもって「失神」と呼び、センセーショナルに報道したのだと思う。

オックスはまさにGSブーム末期に咲いた1輪のバラだったのである。
自分が子供の頃、強烈な刺激を受けたオックスというグループのことを自分の記憶を合わせてまとめてみたかった。 長い文章になるが、これが少しでもオックスを知る手がかりになれば幸いである。


  失神バンド・オックスのすべて

 

第1章  オックス、その結成とデビュー

オックスは、1968年5月5日、ビクターから「ガール・フレンド」でデビューした。日本中がGSブームで湧きかえる中、メジャーなGSバンドとしてはその登場は一番遅く、しかしあまりにスリリングでエキサイティングであった。 →Photo ヤングミュージック
白いタイツと編み上げブーツという衣装に身を包んだこの五人組は、GSがちょっとマンネリかなという時期、その若々しさと斬新さで、たちまちローティーンのアイドルになっている。

僕のかわいい友達は(マイ・ガール  マイ・ガール)
白いテラスにかこまれた 夢のお城に住んでいる
           (橋本淳:作詞) 

 さながら「ロミオとジュリエット」のバルコニーシーンを想わせる、この詞の美しさは、GSの楽曲の中でも傑作中の傑作である。 デビュー盤の完成度という点では、オックスは他のGSと比べても群を抜いていると思う。
 橋本淳作詩/筒美京平作曲という、ゴールデンコンビの楽曲の出来の良さもさることながら、野口ヒデトのヴォーカルのうまさが、とても17歳とは思えない。 この歌唱力、表現力、初めてのレコードというのがウソみたいだ。 岡田志郎の(マイ・ガール)のコーラスがまた、とてもいいムードを出していて、甘く切ない旋律の「ガール・フレンド」という曲にぴったりである。
オックスはこうしてデビュー曲のヒットとともに人気GSの仲間入りを果たしたのだった。

 オックスは大阪出身のバンドである。その結成までを少したどってみたい。

 まずベースの福井利男とドラムの岩田裕二は、いずれも滋賀県大津市の生まれで、同じ打出中学の出身であった。
 この二人は共に、最初『ザ・キングス』というGSのメンバーになる。 キングスの結成は1964年で、関西でも歴史的なバンドである。タイガースの前身・ファニーズにとっては大阪、ナンバ一番時代の先輩にあたる。
 オックスではリーダーとなる
福井利男は、意志の強さが感じられる、眉の濃いりりしい表情の持ち主だ。まっすぐの長髪、大きな瞳。この人にも隠れたファンは多かった。 高校に入学後、エレキギターのとりこになり、キングスに入った。
  
岩田裕二の方はちょっと俳優の林隆三に似た面ざしで、キングスでは最初マネージャー見習、そしてヴォーカルだったそうだ。 初めてステージで歌ったのは、キングスの地方公演の時の、「ヘンリー八世」という曲だったとか。 
 キングスは1967年9月にポリドールから、「アイ・ラブ・ユー」という曲( 作曲・福井利男) でデビューを果たすのだが、福井利男と岩田裕二はレコードが発売される前にグループを脱退し、大阪に帰って来てしまった。そして新たに自分達でバンドを結成すべく、岩田はドラムに転向することにして、メンバー探しを始めたのだった。1967年の秋のことである。

 二人の相談相手となったのが、のちにオックスのマネージャーとなる清水芳夫氏。キングスが出演していた大阪・天満(てんま)のサパークラブ「レンガ」の経営者だった。清水氏は初めてスティックを握る岩田裕二に「ドラムいうのはやなあ、バンドの基礎や」と、厳しいレッスンをしたという。
 
 最初に仲間入りしたリードギターの
岡田志郎は、大阪府枚方市出身。 京都・河原町にあった音楽喫茶「田園」(タイガースの面々がよく出入りしていたという店)に出演していた『マッコイズ』というバンドでドラムをたたいていた。 オックスにはギタリストとして加入することになる。物静かな印象だが、なかなかきれいな声をしていて、LPの中ではソロもとっている。オックスの中にあっては珍しく、ソフトで清潔なイメージの好青年といったタイプである。 マッコイズのギタリスト・杉山則夫も、このとき一緒に加わった。

 新バンド結成にあたり福井利男らが目指していたのは、東京進出だろう。 つまりすぐレコードデビューできるバンドだったということである。 するとこの時、新メンバーに求められるのは、もちろん音楽性は重要だろうが、タレント性、ルックスなど、そういう要素も大切ではなかったろうか。
 
 そして目にとまったのが『ハタリーズ』のオルガン、
赤松愛であった。 会社社長の三男、末っ子として兵庫県芦屋市に生まれた彼は、幼いときからピアノを習い、中学二年の頃、「ジャズをやりたい」と言って、母親に「あんなものは不良の音楽」と反対される。 しかし結局、当時大阪にあったダンスホール『富士』等で、セミプロ的に活躍していた、ハタリーズの一員に加わっていた。 ちょっとばかり早熟な少年の横顔がうかがえる。 かわいい顔して行動は大胆、というイメージの彼だが、きっと当時から目立つ存在だったことだろう。そしてその赤松愛も、誘いに応じて新しいメンバーとなった。  
 前後してサンダースの栗山純がヴォーカルとして迎えられており、新バンドはビルの屋上で厳しいレッスンを続けていた。 初ステージは大阪市北区にあった「天満座」というストリップ劇場であったそうである。

 さらに福井利男らは、
野口ヒデトをヴォーカルとして迎えたいと、交渉を続けていた。 彼は当時すでに『漫画トリオとバックボーン』というバンドで“野口ヒデト”の芸名を使い、ヴォーカルとして舞台に立っていた。 バックボーンは、当時人気絶頂の、横山ノック、フック、パンチの三人組「漫画トリオ」のバックバンドだったのである。
 横山パンチは言うまでもなく現在の上岡龍太郎のことである。

 野口ヒデトは福岡県田川市出身だが、その後大阪に移った高校時代には、歌手になりたくて家出までしかけた。親の理解を得て、ナンバ一番のバンド・ボーイそしてバックボーン加入となる。 芸名の「野口ヒデト」は
横山プリンがつけたもの。 当時ナンバ一番で司会をしていた、浜村淳からは「芸能界は怖いところやから、やめなはれ〜」と、諭されたこともあるとか。きゃしゃな体からは想像もできないエネルギッシュなアクション---バックボーンの派手なステージが話題になり、コマ劇場出演中に渡辺プロからも接触されたらしいが、福井利男らの誘いにも、野口ヒデトはすぐには応じなかった。

 そんな中、清水マネージャーの交渉の甲斐あって、いよいよ新バンドのオックスは、1967年12月からあの『ナンバ一番』の舞台に立つこととなる。

 
1968年平凡12月号

 ナンバ一番 (ジャズ喫茶) は多くのスター、とりわけロカビリー歌手や、GSが巣立ったジャズ喫茶としてあまりに有名である。 当時は道頓堀のキラキラしたネオンサインの中、角座、中座等の劇場が並ぶところにあり、正にホットな、大阪の大衆文化を育むスポットであったといえる。 ナンバという地名と、NO.1をひっかけた店名の妙味も素晴らしいセンスだ。
 『オックス』という名前は、このときメンバーが自分達で付けたのだとか。シルバー・オックスという繊維製品のコマーシャルがヒントになったという。 OXと英語で書くと、マル・ペケ、これは大変なインパクトのある名前だと思う。 あの頃私は子供だったので、りぼんの付録にGSいっぱいのポスターがついてきて、バンド名が英語で書いてあっても、全然読めなかった。 だけどオックスだけはすぐ覚えたし、ちゃんと英語で書けた。マル・ペケだったから、ホントに。これは凄いことだった。


 さて最後のメンバー・野口ヒデトだが、17歳になって間もない1967年12月末のある日、迷いながらもナンバ一番へオックスのステージを見に行き、そこで彼らの若々しい演奏に、とても魅力を感じる。 そして飛び入りで、ビートルズの「イエスタデイ」を歌って、ついにオックスの一員となることを決意したのだった。
 しかしバックボーンのメンバー全員はオックス加入に反対。 ひとり賛成してくれた
横山ノックの「東京に行けるバンドだったら入ってみろ」という一言で、バックボーンを離れることができたという。
 
 野口ヒデトの加入後、1968年になると杉山則夫と栗山純が脱退し、オックスのメンバーはレコードデビューする五人に落ち着いた。  
 やがて東京進出の話が具体化し、G.A.P.(ゼネラル・アート・プロデユース/後にホリプロ傘下)に所属が決定する。3月17日に大阪・梅田の「花馬車」でさよならコンサートを開いたあと、オックスはいよいよ新幹線で東京へと旅立ち、レコードデビューとなるのである。

  資料:オックス結成の前夜


第2章 オックスとサイケなファッション


はじめて私がオックスをステキだと思ったのは、実は二弾目の「ダンシング・セブンティーン」の時だった。あのゴキゲンなリズムに合わせて踊っていた五人の姿が、今でも目に浮かぶ。白黒のテレビの画面の中で、赤松愛のおかっぱ頭がスイングして、とてもとてもカッコ良かったのだ。まさに彼らはサイケで、おしゃれで、すてきだった。
→サイケなPhoto!

おしゃれなぼく サイケな恋 君が好きさ 踊りに行こう
ダンシング セブンティーン・・ダンシング セブンティーン・・
                 (橋本淳:作詞)

GSの衣装はどのグループもスゴかったけれど、中でもオックスの衣装は派手だった。 というより彼らのルックスそのものが奇抜だった。 当時1960年代後半はピーコック革命と呼ばれて、男性のファッションが、長髪と共にどんどんカラフル化した時代であるが、その代表とも言えるオックスの、少女趣味の極致といおうか、悪趣味一歩手前のこのケバケバしさが、かえってビジュアルな個性となって私は好きである。

デビューした時は体にぴったりした白いタイツ姿。トップにフリルつきのブラウスを合わせると、ほとんど ヨーロッパの王子様ルックだ。
真っ赤なビニールレザーのパンタロンスーツを着たこともあった。 オックスには燃えるような色が映える。 白いボタンがアクセントの目の覚めるような、赤。 その色が、野口ヒデトのシックな焦げ茶色の髪と、そして残念ながら、ついぞカラーテレビでは見ることのできなかった、赤松愛の明るい栗色の髪と、それはそれはよく似合った。 リーダーの福井利男も愛ちゃんに負けない位髪を赤く染めていて、全員品の良い黒髪だったタイガースと比べると、ずいぶんと派手だったと思う。

スワンの涙」を歌っていた頃よく着ていた衣装に、黒の刺繍入りパンタロンスーツがある。ハイネックのチュニック風オーバーブラウスで、袖と襟の豪華な刺繍が、五人それぞれ違うデザイン。 金色のラインがサイドに入ったパンタロンの、すその広がり具合が流行最先端で、
こういうスタイルを男の子がする、ということにしびれてしまった。
そしてきわめつきは、「スワンの涙」のレコードジャケットにもつかわれている衣装。  黒サテンのベストスーツと、それ自体は地味なのだが、下に着けているのはトルコブルーのブラウスで、襟と袖とにこれでもか、という位フリルがついてて、しかもシースルールックなのだ。 肩とか腕のあたりが全部スケスケで、男の子が着るには、なかなかすごい一着だ。 
こんな衣装着こなせたのはオックスだけだろう。

特に赤松愛のルックスが、トレードマークだったおかっぱ頭に代表されるように、ユニセックス的だったせいもあり、オックスには中性的な衣装が似合った。そこが当時としては、かなりの衝撃だったようである。
元祖・茶髪といってもいい髪の色、大きな石の指輪などのアクセサリー、オックスのファッションはすべてとても時代先取りだったのである。だからこそ雑誌のカラーグラビアには映えた。


第3章 オックスと失神


当時小学校三・四年生であったので、夢中になってはいたものの、オックスの記憶はかなり断片的であるが、愛読していたどの少女雑誌にも、そして毎日放送されていたテレビの歌番組にも、オックスはしょっちゅう姿を見せた。 グループサウンズブームで、周りはなにもかもGS一色にそまっていたから。
少女フレンドには「赤松愛物語」なんていう連載もあったし、なかよしの別冊付録マンガの「スワンの涙」は大事な宝物だった。セブンティーンにはいつもオックスの記事が出ていた。
それにしてもGSがそもそも不良だという声があったのに、この奇抜な衣装、赤く染めた髪、さらには“失神”というスキャンダラスなおまけ付きで、大人から見ればヒンシュクものだったことは間違いない。

そう、この1968年の夏、第二弾「ダンシング・セブンティーン」のヒットとともに、オックスの名を不動のものとする出来事があった。全国六ケ所のコンサート会場で次々と起きた“失神事件”である。

失神と言えばオックス、そしてオックスと言えば失神である。 ひとつ強調しておきたいのは、当時のファンが、つまり若い女の子たちが、どのGSを見ても失神していたのではなく、あくまでも元祖失神バンドというのはオックスであって、こういう現象を作ったのはオックスが最初である、ということだ。

さらにもう一つ、オックスにおいて失神というのは、
まず本人達が演奏中にステージで気を失って倒れることであり、そしてそれを見たファンが一緒に興奮して失神するという、集団失神行為だったということである。 このパフォーマンスは、実は大阪にいた頃からすでに、本人達が意図的にやっており、メンバー自身のアイデアによるものだそうだ。

女性自身1969年

圧巻だったのは、オックスの中でも人気を二分したオルガンの赤松愛と、ヴォーカルの野口ヒデトが競い合って失神する、という点である。赤松愛は熱狂してくるとオルガンの上に駆け上がり、そこからステージの下に気絶して落ちたりして見せた。 更には歌っていて興奮してきた野口ヒデトが、舞台にバッタリ倒れて失神して動かなくなったり、とにかくムチャクチャだったのである。 彼らのステージはオックスのライブ盤LP「テル・ミー/オックス・オン・ステージ」で雰囲気を伺い知ることができる。

ほんとうに赤松愛はそのキュートなルックスに似合わず、すごい過激なアーティストだったと言える。
バレンタインデー生まれで名前は愛。しかも男の子の芸名にこれをつけるなんてニクイ。 すごく決まっていると思う。 赤松愛はいろんな意味で、その後の70年代の男性アイドルの元祖となっている。
とにかく少女ファンを絶叫させるこのパワーにおいては、全く今のロック・スターなんてかなわないカリスマ性があった。 この失神ステージも今となっては、もう見ることができない!
彼らの“失神曲”として、あまりに有名だったのが、ローリング・ストーンズの
「テル・ミー」であった。 野口ヒデトと赤松愛が代わりばんこに失神しながら歌っていたという曲。 もともとストーンズのナンバーはオックスのレパートリーにいくつかあったのだが、失神事件が評判になり、人気があまりに過熱してくると、当然横ヤリも入ってくる。 一九六八年の秋から冬頃にかけて、オックスには会場を貸さないという所も出てきたり、「テル・ミー」を歌うのを控えさせられたりした。 更には“公演を中止するように”というお達しが、北九州市教育委員会から出されたりしている。 前年、奈良あやめ池遊園地でタイガースを見に詰めかけたファンがケガをするという事件があり、“GSはいけない”という社会風潮があった。

私がテレビでオックスの「失神実験」なるものをみたのは、この頃だったと思う。
お子様は見ちゃいけない、というつもりだったのか、夜11時過ぎに放映されたこの番組を、新聞の番組欄で知った私は、しっかり起きて見ていて、「テル・ミー」を演奏したオックスにしびれた。 生のステージの熱狂がそのまま伝わってくる映像だった。

細い体をのけぞらせるように熱唱する野口ヒデトの、ライトを浴びたシルエットがとりわけカッコ良かった。 歌うときの表情が色っぽい彼も、やっぱり陶酔型のアーティスト。 そのヴォーカルは実は70年代のアイドルシンガーにもかなり影響を与えている。

この時期になると、オックスの代表曲ともいうべき第三弾「スワンの涙」のヒットによって、オックスの人気は完全にタイガース、テンプターズを脅かすまでになっていた。

いつか君が見たいと言った 遠い北国の湖に悲しい姿 スワンの涙
-- あの空は あの雲は 知っているんだね --(橋本淳:作詞)

野口ヒデトの指さしポーズとセリフで知られたこの曲は、タイガースの「花の首飾り」、テンプターズの「エメラルドの伝説」等と並んで、GS黄金期1968年度のヒット曲のひとつであり、代表的GSナンバーの中に必ず加えられる一曲となった。
ひざまづいて指を差し伸べる、このアクションが似合う、典型的なGSのヴォーカリストのヒデト。ジュリーの甘さやショーケンの不良っぽさとはちょっと違う、翳りのようなもの。それが彼の魅力のひとつだ。

この時同時に「ファーストアルバム」が発売されている。オックスの人気のピークは「スワンの涙」から第四弾「僕は燃えてる」にかけてであろう。「テル・ミー オン・ステージ」は二枚目のLPとしてその間に発売された。2枚のアルバムは、2002年9月発売のCD「オックス・コンプリート・コレクション」に完全収録された。



第4章 赤松愛脱退 そして解散


その人気絶頂の時、「僕は燃えてる」発売直後の
1969年5月5日、赤松愛の失踪・脱退事件が起きたのだった。 茨城県土浦市で行われたオックスの公演に、赤松愛は姿を現さず、そのまま脱退を表明したのである。 オックスがデビューしてちょうど一年、彼もいろいろ悩んだ末の結果だったのだろう。
6月23日にはひとりイギリスへ渡っている。

          脱退直後の赤松愛のティーンルック読者に宛てたメッセージ

小学校四年になったばかりのこの頃、教室でやはりオックスのファンであった友達と、よく一緒に歌ったのが「僕は燃えてる」だった。 レコードも持っていないし、ビデオもテープレコーダーもなかったので、ふたりで歌詞の覚えている部分を教えっこして、フルコーラス完成させるまでが大変であった。 「スワンの涙」に続いて野口ヒデトの個性を強く全面に出した曲だったので、ちょっと暗めの切ないノリが最高に気に入っていた。 その頃、オックスの内面は揺れに揺れていたのである。

君を求めて 君を求めて 僕の生命は燃えたのさ 祈りはかない恋ゆえに 
祈りはかない恋ゆえに 涙とバラでつつまれたはかない愛の物語 物語・・・
                        (橋本淳:作詞)

急遽、赤松愛に代わるメンバーとしてオックスに加わったのが、田浦幸(たうら ゆき)である。 5月8日にオックス加入の話が持ち上がり、10日にはもうステージに立っていたというスピードぶりだが、私がこの人を初めて見たのは「ヤング720」というテレビ番組だった。 新しいメンバーとして、紹介されたと記憶している 。朝の番組だったので「愛ちゃんのかわりの人はユキちゃんて言うんだって」と、学校に着いてからクラスメートと会話をかわした。
今でこそ渋い魅力の俳優“夏夕介”として活躍中の彼も、この時は十八歳。 ちょっと恥ずかしげにオルガンの前に立つ姿が印象的な、本当に整った顔立ちの美青年であった。

週刊マーガレットのグラビアでぶりっ子してポーズをとっていたのが懐かしい。 人気者赤松愛の代わり、ということでホリプロ側もかなりルックスには気を遣ったに違いない。 幸(ゆき)という芸名も、愛(あい)の後任としてはぴったりだった。 初ステージは大阪厚生年金会館で、ストーンズの「黒くぬれ」を歌ったということである。

田浦幸は熊本県荒尾市の生まれだが、後に大阪に移り、大阪府下の高校在学中から、大阪のエレキバンド『グランプリーズ』にオルガン奏者として加わる。 このバンドでリードヴォーカルをとっていたのが、誰あろう、あの和田アキ子なのだった。 和田アキ子はホリプロにスカウトされてソロ歌手でデビューすることになるのだが、最初はバンドのグランプリーズごと丸抱えで、という話もあったそうだ。 ホリプロは新しいGS(→のちのオリーブ)を作るため、田浦幸にコンタクトしたそうだが、結局はオックスのメンバーとなったのである。
1970年代のある日、バラエティ番組の中で、バッタリ夏夕介と顔を合わせた和田アキ子が、「キャー、ユキ!」と笑い出したことがあった。 「昔一緒にやってたんだよねえ」と。 二人はずいぶん楽しそうだった。

さてそんな中、第五弾「ロザリオは永遠に」が出る。この曲で注目したいのは、歌詞の中で“あなた”という言葉が二人称で使われている点である。

白い夜霧は あなたのドレス さざ波ゆれる 湖で 僕等やさしく ひざまずく
                    (橋本淳:作詞)

デビュー曲から一貫してオックスのシングルA面の楽曲に使われてきたのは、“君”という呼びかけであった。“君と僕”ということで、路線としてはやはりティーン向けだった。ここで“あなた”に変えることによって大人の雰囲気にイメージチェンジをはかろうとしたのか。 曲自体も純歌謡曲路線、悪く言えば軽快な若々しさが感じられず、結果としてこの曲はヒットしなかったのである。

赤松愛の失踪・脱退によるダメージは免れず、この辺から人気が落ち目になって行くのはもう、止められなくなっていた。 何よりGSブームそのものに翳りが見えて来ていて、これ以降オックスが発表した後期の曲はあまりに暗い。

第六弾「神にそむいて」から先、オックスをテレビで見た記憶がほとんどない。 小学生が聞いたって、今ひとつピンとこない曲だから無理もない。

  ぼくたちは 生きている 神にそむいて
   君だけを愛してる 神にそむいて 
   許されぬ恋だけど スキだよ (なかにし礼:作詞)
   
第七弾「許してくれ」第八弾「僕をあげます」この頃になるとGSというよりは、ムードコーラスグループみたいになってくる。 

  『許してくれ』
   許してくれ お前に逢うまでに
   たくさんの恋をしたことを
   もしも 僕に過去が 過去がなかったら・・・(あぼ・くみこ : 作詞)

しかしこの独特の暗さはやっぱりオックスらしく、どこかファンを引きつけずにはおかない。 野口ヒデトのちょっと嗜虐的なヴォーカルが迫力だ。

  『僕をあげます』
   お願い 僕に残された すべてを 捨てさせておくれ
   あなたの しあわせのために
   いつでもこの僕あげます  あげます (阿久悠 :作詞)

もうグループサウンズというものの、存在価値すら薄れてきた1970年になると、メンバーの個人活動も目立ってきて、田浦幸が夏夕介の名前で、映画に初出演するのもこの頃である。そしてついにラストシングルとなるのが、第九弾「もうどうにもならない」。 このタイトルも当時のオックスを象徴しているが、レコードジャケットの写真がまた、全員蝶ネクタイにすごい長髪。

僕をうらんでもいい 殺してくれてもいい こんな恋をしったら
もうどうにもならない   ( 多木比佐夫:作詞)

奈落の底へ落ちるような絶唱は、いかにも失神バンドの終焉としてはふさわしく、耳の底に響く。 この曲を最後に、1971年5月、オックスはついに解散してしまう。

1971年5月29日から31日まで3日間、池袋ACBでオックスさよならライブが行われた。そのときの曲をここにご紹介します。  ジャズ喫茶                                       
1)ブラックナイト 2)スティラー 3)スワンの涙 4)シェリー 5)僕は燃えてる  6)ハイヤー 7)ガールフレンド 8)ビーマイフレンド 9)花の時間 10)真夏のフラメンコ 11)サニー 12)アイプットアスペルオンユー 13)母さんの唄   14)オービーバー 15)テル・ミー (1971.5.30)

「愛がいたら、まだGSは続いていたんじゃないかと思うけど、愛の脱退によってGSそのものが終りを告げたと思う」と、野口ヒデトが数年前に語ったことがある。
「もう少し愛ががんばってくれてたら、ふたりでGSブームを引っ張っていけたかな、っていう気がするんだけど」と。


第5章 オックス解散後のメンバー達

リーダーの福井利男はオックス解散後、コーラスグループ『ピープル』を結成。その後路線を変え『ローズマリー』とバンド名を変更。 これが70年代にネオGSと呼ばれた『ローズマリー』である。 岡田志郎も『ピープル』『ローズマリー』と、一緒に活動している。 (現在テレビで活躍中のモト冬木もローズマリーのメンバーだった。)
ピープル、ローズマリーの曲は、
こちらのページに紹介しています。

その後、福井利男は六本木でクラブ「ローズマリー」経営などを経て、現在は渋谷区幡ヶ谷で、お好み焼き・もんじゃ焼きのお店<
なんじゃもんじゃ>を経営している。

1997年にNHKBSの番組「ドキュメント日本のうた100年」で、オックスを取り上げたとき、福井氏の秘蔵のフイルムが放映された。オックスの失神ス  テージの雰囲気を知ることのできる、貴重な映像である。 福井氏の協力に感謝するともに、ぜひNHKで再放送をお願いしたい。

岩田裕二は『ハリマオ』グループを結成し、マネージャーを担当していたが、自分は引退。その後クラブ「ローズマリー」の企画にも携わっていた。
現在は音楽プロデューサーとして活躍中。→

 
岡田志郎は、オックス解散後6月14日に渡米、11月3日に日本へ帰国。 そして福井利男と共にピープル、ローズマリーのメンバーとして活躍。 グループ解散後はフリーとなり、音楽プロデューサーとしてTUBEを手がけたこともある。 また、内藤やす子の「六本木ララバイ」を作曲する等、ソングライターとしての実績もある。現在は関西でイベント関係の仕事に携わっているとのこと。 時々はライブハウスに出演しているそうだが、ステージでギターを抱えた姿を、もっと見せて欲しいものだ。
 
赤松愛はオックス脱退後渡英。 しばらくロンドンに滞在していたが、父親の病気で帰国し、大阪に戻る。実家の会社で働いた後1978年には独立。 現在も大阪で経営者として活躍中である。 芸能界からは完全に引退し、GSイベントなどにも姿を見せることはない。1990年、週刊誌に彼の写真が掲載された。きちんとネクタイをしめていたが、さらさらとした長い前髪と優しい目元に、当時の面影がしのばれた。
多忙な毎日だろうけれど、もし一度でてきて、アマチュア時代のこと、オックス時代のことなど話をしてくれたら、これほどうれしいことはない。赤松愛のことが忘れられないファンは、まだまだずいぶんいるのだから。

2003年10月4日 TBS「ブロードキャスター」のGS特集にて、赤松さんがインタビューに応じて下さいました。赤松さん、本当にありがとうございました。 (2003年10月11日 Miki 追記)

赤松愛とその後のアイドルへの影響については、こちらで取り上げています。

 
野口ヒデトは、オックス解散後ソロ歌手に転向。 まずビクターから「仮面」という曲でデビュー、すぐ野口ひでとと改名し、フィリップスから「他に何がある」という名曲をリリース。 ジョン・レノンの「マザー」に似た当時としては”とんでる”曲だったのに、残念ながらヒットには結びつかず、「夜空の笛」のあと、数年後には演歌に転向することになる。

 
1975年野口ヒデトは、本名の野内正行を名乗って素人として「全日本歌謡選手権」に出場。 審査委員は、ひでとの歌を聴くと「うまいね〜」と一言唸った。「野内くん、というかオックスの野口くんだね。オックスのときこんなにうまかったっけ」と、褒めっぱなしだった。 そして 見事10週勝ち抜き、チャンピオンの座に輝く。(10週目の審査員は船村徹氏)そして"真木ひでと" としてCBSソニーから、「夢よもういちど」で再デビューするのである。

演歌歌手 "真木ひでと" としてはヒット曲「雨の東京」などの実績もあるが、彼のことはとてもクロスオーバーな歌手だと私はとらえたい。 どんなジャンルでも彼が歌うと"ひでと節"なのである。 1978年には柳ジョージ作曲の「カモン」というポップスも出している。90年代には、TMCB(タイガースメモリアルクラブバンド)のメンバーとしても、GSナンバーを歌ってテレビやステージで活躍した。野口ヒデト→ 野口ひでと→ 真木ひでと と、現在までずっと通してソロ歌手として活動を続けている。 →
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田浦幸(たうら ゆき)は、現在
俳優の夏夕介。 この人がオックスの一員であったことなど、もう知らない人の方が多いのではないか。 今でもまったく変わらない、その端正な顔立ちは、やはり俳優向きだったのだろう。 何をやらせても品がよくてかっこいいと思う。オックス在籍時よりソロ活動を始め、歌手としても「涙が燃えて」等数曲をリリースしたが、だんだん役者の方に比重を傾けていった。 その後のテレビや映画での活躍は周知の通りである。
ドラマ「特捜最前線」の叶刑事役では幅広い人気を得る。 ドラマの中でピアノを弾く姿を披露して、ファンを喜ばせてくれた。 現在は劇団「シアタージャパン」 で、主に舞台で活躍中である。
歌手・夏夕介のソロ・シングルについては、
こちらをご覧ください。

オツクスはGSの中でも、単に楽器演奏にとどまらず、ステージでのパフォーマンスに重きを置いた、いわばビジュアル系ロックバンドのはしりと言える存在だと思う。
解散から何年たってもオックスへの思いはさめることがないし、彼らの足跡が語り続けられることを願っている。

オックスと70年代のアイドル達


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