論理哲学論考 1-7 6.1-6.5 6.11-6.13
      
6.12 論理の文全般がトートロジーであること、それは言語の、世界の形式的――論理的――属性全般を示す
論理の文の諸成分がそのように関聯づけられてトートロジーになることは、当の諸成分の論理を特徴づける。
諸文が特定の仕方で関聯づけられてトートロジーになるためには、それらが特定の構造的諸属性をもっている必要がある。それらがそのように結びつけられてトートロジーになることは、だから、それらがそうした構造的諸属性を有していることを示している。
6.121 論理の文は、諸文を結びつけて内容の無い文にすることによって、それらの論理的属性をデモンストレートする。
この方法をひとは零位法〔eine Nullmethode〕と呼ぶこともできるだろう。ひとつの論理的文において、諸文は互いに平衡にされ、そして、その平衡状態が、それらの文が論理的にどんな状態にあるはずかを呈示する。
6.122 このことから、我々は論理的文など無しにも済まし得ることが判明する。我々は、適当な表記法において、諸文の形式的属性を当の諸文の単なる外観を通じて認識することができるのだから。 〔6.1221-6.1224
6.123 ひとつの論理法則そのものがまた何らかの論理法則に従属してはならないことは明らかだ。
(それぞれの「タイプ」にラッセルが考えたように固有の矛盾律が存在する訳ではない。矛盾律は、それ自体には適用されないのだから、ひとつで足りる。) 〔6.1231-6.1233
6.124 論理的文全般は、世界の骨子を記述する、というよりむしろ、表わす。それらは何を「扱う」のでもない。それらは、名称が意義〔Bedeutung〕を、そして基本的文が意味〔Sinn〕をもつことを前提としているが、このことがそれらと世界との結びつきだ。諸シンボルの或る種の――本質的に一定の特徴をもつ――結びつきがトートロジーであることが世界について何かを呈示しているはずなのは明らかだ。この中には決定的なことがらが在る。我々が用いるシンボルには恣意的なところもあればそうでないところもあると我々は言った。論理においてはただ恣意的でないところだけが表現する。これは、だが、論理においては、我々が記号全般の援けによって望みのことがらを表現する訳ではなくて、もとより不可欠な記号全般の本性そのものが言明することを意味する。我々が何か或る記号言語の論理的構文論を知っているならば、論理の文の総ては既に齎されているのだ。
6.125 最初から総ての「真である」論理的文の何らかの記述を与えることは可能だ。しかも、論理の旧い解釈に随ってさえ。 〔6.1251
6.126 或る文が論理に属すかどうかを、ひとは、当のシンボルの論理的諸属性を計算することで、計算することができる。
そして、それを我々は論理的文を「証明する」ときにおこなっている。我々は、意味や意義など気にかけること無く、ひとつの論理的文を他の諸論理的文から単なる諸記号規則に随って形成するのだから。
論理的文全般の証明は、我々がそれらの文を他の諸論理的文から或る種のオペレーションのサクセッシヴな〔succesive〕適用によって生じさせる点に在る。はじめの諸トートロジーから繰り返しトートロジーを生み出すような、そんな諸オペレーションの。(しかも、ひとつのトートロジーからは諸トートロジーだけが帰結する。)
もちろん、論理の文全般がトートロジーであることを示すこの方法は、論理には全く非本質的だ。なにしろ、そこから証明がはじまる当の諸文は、証明無しでそれらがトートロジーであることを示さなければならないのだから。 〔6.1261-6.1265
6.127 論理の文は総て同権だ。それらのうちには根本法則に派生的文など本質的に存在しない。
どんなトートロジーも自らがトートロジーであることを示している。 〔6.1271


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