論理哲学論考 1-7 6.1-6.5 6.11-6.13 6.121-6.127
      
6.126 或る文が論理に属すかどうかを、ひとは、当のシンボルの論理的諸属性を計算することで、計算することができる。
そして、それを我々は論理的文を「証明する」ときにおこなっている。我々は、意味や意義など気にかけること無く、ひとつの論理的文を他の諸論理的文から単なる諸記号規則に随って形成するのだから。
論理的文全般の証明は、我々がそれらの文を他の諸論理的文から或る種のオペレーションのサクセッシヴな〔succesive〕適用によって生じさせる点に在る。はじめの諸トートロジーから繰り返しトートロジーを生み出すような、そんな諸オペレーションの。(しかも、ひとつのトートロジーからは諸トートロジーだけが帰結する。)
もちろん、論理の文全般がトートロジーであることを示すこの方法は、論理には全く非本質的だ。なにしろ、そこから証明がはじまる当の諸文は、証明無しでそれらがトートロジーであることを示さなければならないのだから。
6.1261 論理においてはプロセスと結果は同等だ。(だから、思いがけないことはひとつも無い。)
6.1262 論理における証明は、トートロジーの認識を、それが込み入っている場合でも容易にするための、メカニカルな補助手段に過ぎない。
6.1263 もし、ひとが或る有意味な文を他の有意味な諸文から論理的に証明することができ、さらに何らかの論理的文まで証明することができたとしたら、それはあまりに奇妙というものだろう。有意味な文の論理的証明と論理における証明がふたつの全く別々のことがらであるはずなのは、はじめから明らかだ。
6.1264 有意味な文は何ごとかを言明し、その証明はそのとおりであることを示す。論理においてはどんな文も何らかの証明の形式だ。
論理の文は何れも記号において表わされたモドゥス・ポーネンス〔modus ponens〕だ。(そして、ひとはモドゥス・ポーネンスを文によって表現することはできない。)
6.1265 ひとはいつでも論理のことを、どんな文もそれ自体の証明であるように解し得る。