レポート用紙(黄)

上総村上の旅
村上義清の軌跡

村上の歴史とともに
上下諏訪神社にそびえ立つ樹齢800年の椎の木

千葉の村上に伝わるお手玉のうた  
 妻女山は霧深し ♪千曲川の川は波荒し ♪ はるかに聞こゆる物音は ♪ 
逆巻く波かつわものか ♪ 上る朝日の旗の手の ♪きらめくひまに ♪ 
くるくるくる ♪ ???(これは明治時代のものかな?)
村上に住んでいたお年寄りはその昔、子供の頃に
この詩を歌いながら、お手玉をしたそうです  

上総村上を旅して

千葉県市原市の村上周辺には信州に関連したものが多くある。
諏訪町、更科通り、戸隠神社(総社)(信州の戸隠神社は神話の世界では天の岩戸が飛来して出来たと言われる。また、村上天皇の天暦3年(949)より御本社(今の奥社のあるところ)に相殿として奉祀されていたとある。信州のものとどちらが古いのだろうか?)、上下諏訪神社、上総国分寺、その近くには上総村上という地がある。

(更科通りは市原を拠点として書かれた更級日記(菅原考標女)から命名され
  この「更科日記」は「姥捨山」との関連から、作者の老後を回想した
「をばすて日記」ともいわれています。)


この地は信州の村上義清との関連があるということで
たずね歩いてみた。義清の軌跡をたどるうえでも興味をひかれる。

上総村上周辺には村上一族の末裔が住んでいるということで
この近辺の寺や神社を拝観してみると
やはりそこには確かな歴史が残されていた。

村上義清・・・武田信玄と幾度かの戦いを交え二度勝利はしたものの
最終的には敗れ、後に上杉謙信に付き川中島の戦いにも参戦した
信州の名武将。

永昌寺(曹洞宗)
(写真)
この寺は、応永15年(1408年)村上義清の先祖が開基したという寺で、大昔に津波や火災に覆われたため場所も移動して再建され現在の寺が残っていると云われる。
これを証する古文状が残っていた。また、その寺を建てた人物が亡くなった時の位牌も残っていた。由緒ある寺なので復興を祈る。

上下諏訪神社
(写真)
この近辺には、3つの諏訪神社がある。それぞれを調べているちに新たなる発見をした。
それは、永正18年(1521年)に「領主である村上義清が家臣の高沢監物に命じ諏訪大社に建造の許可を得させた。」(市原郡誌)
ということである。
義清が生まれたのが1503年とすれば義清が18才のときである。
上下諏訪神社には、義清に纏わる石碑があった。
以下は,千葉県神社庁の記録によるもの
鎮座地 市原市諏訪2-2-8 設立の頃は、市原市村上という所在地で届出あり。 その後所在地が諏訪に変更。 由緒沿革 言い伝えによれば、大永元年(1521年)、 信濃源氏村上大蔵大輔義芳が上総の村上に築城し、 信濃の国、諏訪大社の上社下社を当所に祀ることを願い、 重臣高沢監物に申し付けて神璽を還し安鎮す。
その際神主黒川左近も同行奉仕したという。

千葉県浜野市中央区にある諏訪神社にも村上義清の軌跡があります。

墓地

村上に村の中心にある墓地へ行ってみるとやはりあった。
あの丸に上文字の村上の家紋。ここは、間違いなく村上の一族末裔が住む地であった。しかも、寺の歴史からすると500年以上もの間、この地に在住していたことになる。これはには、驚いた。
村の地元の人達の中には、ご近所付合いが500年と言う家々も・・・?

房州里見家との繋がり

村上家と里見家はいわば親戚関係であるが、村上家から里見家に嫁に出た姫もおり、かなりの親睦があったといわれる。
このあたりはただ今調査中です。

気になる資料のページ
市原八幡宮(村上源清)
千葉の神社明細帳


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