村上一族の始まり上総の国 村上一族は1000年以上も続く名門であるが、信濃から分散してからはそのルーツは入り乱れた状態となっている。 村上一族については1970年代に東京の村上清氏が私費により各地に残る村上系図や家紋をもとに本格的な素性調査を行なっている。 しかしながら、当時千葉県市原の末裔のみが系図の公表を拒否したためその資料は作成されていない。 「歴史とは幻想の世界でしかない。が、この幻こそ、つぎの世代の子孫のためによいロマンを与えるものと確信する。」故 村上 清 (村上清氏の資料は現在、国立図書館に寄贈されている。) この伝承は、私の身近にいる村上の系列であるという人物からの資料や村上清氏の資料等も参考させていただき、さらに私なりの見地から書かれている。 村上一族は主に信濃国(長野県)で勢力を発していたため、信濃国が村上一族の拠点となっているが、私は村上一族の始まりを上総の国(千葉県)と推測する。その根拠は次ぎの具体的なことからである。 1.上総国分寺が奈良時代(天平年間)に創建され、古代上総の国が関東周辺の文化の中心地であり、上総国で任命された国司が各地に配属されていた。信州にも中央の官人が任期制で派遣されていた国司が配属され郡司を指揮して国内の支配に当たった。 2.天長3年(826年)上総の国が親王任国となり後の天慶元年(938年)には村上親王が上総大守に任命され、天禄3年(972年)には 源頼光が上総大守に任命されている。(市原郡誌) (村上村は、この村上親王が上総大守のときにできた地名であろう、この後から村上村の地名が郡誌にでてくる) 親王任国に充てられたのは、常陸国、上総国、上野国の3国である。 いずれも大国で栄えていた。 この後は調査中 3.応永15年(1408年)、村上民部大夫清次なる人物が村上村にある村上村永昌寺(曹洞宗)を創建す。(開山明兵和尚) 4.永享5年(1433年)、村上民部大夫清次なる人物がなくなり位牌が現存する。(法号 永昌院殿村上信濃守清次尊儀) 5.永正18年(1521年)村上大蔵大輔義芳なる人物が村上城に在城した。(その他参考資料:市原市 村上遺跡群、 村上城跡) 6.上記同年に五井村上の領主、村上義清が家臣である高沢監物へ申し付けて、信濃国の諏訪明神の神霊神鏡を移し村上村の諏訪大社へ奉安した。(市原郡誌) 7.過去を証す系図や古文状、位牌等が現存する。 上記に出てくる村上義清は、村上一族の中でその名を派した人物であるが、その確かなルーツはわかっていない、というのは村上一族は1000年以上も続くため、その間に100以上もの系図が書き写されて世に出回ったと考えられる為で、正確なものは残っていないからだ。 村上が上総国での地位を認められていた点として、当時親王任国であった上総国において公に「信濃守村上」を名乗り、領土を得て、城や寺を所有していたという事実である。 親王国である上総国を重要視していた、あの織田信長でさえ守は名乗れず、織田上総介信長を名乗っていた事実からも伺える。 以上のことより、村上一族は上総国(千葉の市原)を拠点として、信州へ官務にて出張していたということと、故郷の上総国(千葉の市原)に村上義清が戻ってきたということが推測できる。 村上義清(生まれ1503年〜)は、源頼信(従四位河内守征夷大将軍)流の名門である。親戚として源頼義(従四位鎮守府将軍伊予守)から続く、義家(鎮守府将軍八幡太郎)流の千葉里見家、また、源頼義から続く、義光流の甲斐武田家がある。 甲斐武田とは幾度か戦いを交え二度勝利するも、守りの村上義清とは異なり責めの武田に最後は敗れ、越後上杉に援軍を求め後の川中島の戦いへと発展していった。 例えば、頼信の後子息の頼清が初代村上といわれているが、調べによると子息の頼季が初代村上であるとも云われている。 頼清は肥後守 信濃源氏 井上祖であって頼季は村上筑後守 越後村上源氏であるというもので、頼季後は頼清の二男(村上次郎)と三男(村上刑部)の順にこの村上を継いでいる。 おそらく、このあたりから系図の入り乱れが発したのであろう。 この頃から、村上家の表家紋 丸に上()と裏家紋に井上家の家紋 三つ柏が使われ始めたはずである。 家紋については、この他に神仏への奉納物や位牌等に使われていた丸に左上(上文字が左右逆になったもの)が使われていた。 前出の村上清氏によれば、1600年以降の分家の家紋と述べているが、もともとは神仏用であるため さらに前から使用されていた。 義清が越後上杉に頼ったことも越後村上源氏の流れであったことにより納得もできるが・・・。 義清は川中島決戦以降は70才頃で没したということだが、戦国の世その身を守り隠し、また、子孫繁栄のため、故郷の上総落ちして改名したともいわれている。 そのためか、義清の子もはっきりしていない。 村上義清の先祖は代々千葉の市原に領土を持っていたことが考えられる。この千葉の市原には義清を探る何かの手がかりがあるはずである。 検証するにあたり、信濃とは全く地理的に異所である千葉において、戦国の世から信濃守を名のり後世に伝えるというメリットは何も無い。そこに、この話しの真実さが証明されるであろう。 別ページに上総村上の旅として資料を掲載している。 つづく? |
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