雑録


『量子論理の限界』について ( V )

  1. 形而上学(あるいは超‐物理学) (Meta-physics)
  2. 自然哲学者のための量子力学 ( I ) (Quantum mechanics for natural philosophers ( I ))
  3. 波動‐粒子の2重性 (Wave-particle duality)
  4. コペンハーゲン解釈 ( I ) (The Copenhagen interpretation ( I ))
  5. コペンハーゲン解釈 ( II ) (The Copenhagen interpretation ( II ))
  6. 自然哲学者のための量子力学 ( II ) (Quantum mechanics for natural philosophers ( II ))
  7. 射影公準 (Projection postulates)
  8. 非局所性と隠れた変数 (Nonlocality and hidden variables)
  9. 使い勝手の量子論理 (A user-friendly quantum logic)
  10. 量子論理 (Quantum logic: what it can and can't do)

*

 第十章では、量子力学の量子論理に依る解釈の効能と限界が見積もられる。ギビンズはそうした解釈を大きくふたつに分けている。積極派と消極派だ。250から252ページ目にかけては次のようなくだりがある。
 第1種の例は積極派であるが、量子力学が馴染みのない表記で――量子力学の基本言語で――量子世界について行う主張を、単に書き換える以上のことをしようとする。・ ・ ・ 積極派の解釈は、われわれが古典論理を捨て去り、量子論理で置き換えれば、少なくともわれわれの量子現象の記述において量子論理で置き換えれば、量子力学のパラドクスが解かれうることをそれは示すだろう。積極派の解釈は、古典論理が実在論に課すパラドクスからその実在論を守ることによって、量子力学的実在論の一形式を、つまり量子論理による一種の量子系粒子観を擁護するだろう。
 量子論理的解釈の第2種は消極派あるいは静寂派であるが、さほど野心的ではない。静寂派の解釈は、つぎの意味においてのみパラドクスへの解答を提供する。すなわち、量子現象を量子力学の基本言語で記述するときには、量子力学はパラドクスを生む必要がない、つまりいわゆるパラドクスなるものは量子論理において定式化可能でさえない、ということを静寂派の解釈は主張するだろうという意味においてである。
 またどちらの派の量子論理的解釈も、どうすればわれわれの量子世界の理解が、論理を変更することで、さらに曖昧になるのではなく、より高まることが可能であるかについて一家言をもつべきであるとする。言い換えれば、両派とも、論理を変更することになにが含意され、その論理の主要な諸特性――論理結合子の意味のような諸特性――がいかに理解されるべきかを説明しなければならないのである。
 また量子論理的解釈は量子論理の見通しにかんして食い違っている。量子論理の一つの立場――改革派の立場、これは積極派の動機に近い――においては、量子論理がすべてに渡って古典論理に取って代わろうとする。量子論理は微視的世界の論理というだけでなく、巨視的世界の本当の論理でもあり、量子世界の制約を斟酌する数学のみが真の数学であると考えられている。・ ・ ・
 物理学の哲学者のあいだでもっと一般的なのは保存主義である。保存主義の説明によれば、量子力学は微視的世界の論理であるべきだが、数学とわれわれが生活している中位サイズ化された対象界とを支配しているのは古典論理である。・ ・ ・ しかし保存主義は、改革派よりも穏健で合理的ではあるが、微視的世界と巨視的世界の「切れ目」をいかに説明するかという問題をかかえている。論理の世界には対応原理のようなものは存在しない。
 これは強調に値する点である。論理は大きな量子数という範囲内で「分配性に立ち入る」ことはできない。量子論理において分配律が失敗するのは、サイズによるのではなく、ゼロでないプランク定数にのみよるのであり、ゼロかゼロでないかということのあいだには絶対的な不連続性があるのである。
 原文は次の通り。
  An example of the first kind, the activist kind, will do much more than simply rewrite the assertions that quantum mechanics makes about the quantum world in an unfamiliar notation ―― in the elememtary language of quantum mechanics. . . . It will show that the paradoxes of quantum mechanics can be resolved if we do away with classical logic and replece it with quantum logic, at least in our descriptions of quantum phenomena. It may defend a form of quantum-mechanical realism, a sort of quantum logical particle view of quantum systems, protecting it from the paradoxes that classical logic would impose on it.
  The second kind of quantum logical interpretation, the passive or quietist kind, is less ambitious. A quietist interpretation offers solution to the paradoxes only in the following sense. It will assert that quantum mechanics, when it describes quantum phenomena in the elementary language, need not generate paradox, that the so-called paradoxes are not even formulable in quantum logic.
  Both kinds of quantum logical interpretation should also have something to say about how changing logic can enhance rather than further obscure our understanding of the quantum world. It should, in other words, explain what is involved in changing logic and how the key features of that logic ―― like the meanings of the logical connectives ―― are to be understood.
  Quantum logical interpretations also differ over the scope of quantum logic. In one view of quantum logic ―― in a revisionist view, appropriate to an activist motivation ―― quantum logic is meant to replace classical logic everywhere. Quantum logic is supposed to be the real logic of the macroworld as well as of the microworld and only a mathematics which respects the limitations of the quantum world is a true mathematics. . . .
  More common among philosophers of physics is preservationism. According to a preservationist account, it is classical logic that reigns in mathematics and in the world of middle-sized objects which we inhabit, although quantum logic is the logic of the microworld. . . . But preservationism, while more moderate and reasonable than revisionism, has problem of how to account for the logical ‘cut’ between the micro- and macroworlds. There is nothing like the correspondence principle in logic.
  This is a point worth emphasizing. Logic cannot ‘go over into distributivity’ in the limit of large quantum numbers. The failure of the distributive law in quantum logic does not depend on size, it depends only on Plank's constant being nonzero, and between zero and nonzero there is an absolute discontinuity. (p.142f.)
 これは次のような意味だろう。
 第一の種類の解釈、積極派の典型は、量子世界に関する量子力学の主張を馴染みのない表記で――量子力学の基本言語で――単純に書き換える以上のことを為そうとする。・ ・ ・ それは、少なくとも量子的現象の記述において我々が古典論理を棄てて替わりに量子論理を採るならば、量子力学のパラドクスは解けることを示そうとする。それは、量子力学的実在論のひとつの形、量子系についての一種の量子論理的粒子観を、古典論理が強いてくるものと目されるパラドクスを遮ることによって、あるいは護り得るかも知れない。
 第二の種類の量子論理的解釈、消極派あるいは静寂派は、それほど野心的ではない。静寂派的解釈は、量子的現象を基本言語で記述する場合、量子力学は必ずしもパラドクスを生まず、パラドクスと称されるものは量子論理においては定式化可能ですらないと主張するという唯その意味で、量子力学のパラドクスの解を提供する。
 どちらの種類の量子論理的解釈にも、論理の変更が量子世界に関する我々の理解をさらに曖昧にするどころか深め得るのは如何にしてかについて云い分があるはずだ。云い換えれば、どちらにも、論理の変更が何を巻き添えにするか、そして件の論理の主な特徴――論理結合子の意味のような――をどう理解すべきかを説明することが求められる。
 また諸々の量子論理的解釈は量子論理の領分について見解が異なる。量子論理のひとつの見方――積極派の動機に適った改訂派の見方――においては、量子論理は到るところで古典論理に取って替わるべきものとされる。量子論理は、微視的世界ばかりか巨視的世界の本当の論理でもあり、量子世界の制約を尊重する数学だけが真の数学だと考えられている。・ ・ ・
 物理学の哲学者の間で一般的なのは保存主義だ。保存主義的説明によれば、量子力学は微視的世界の論理ではあるが、数学および我々が暮らしている中位のサイズの対象の世界を支配しているのは古典論理だ。・ ・ ・ しかし、保存主義は、改訂派に較べ穏健で分別があるものの、微視的世界と巨視的世界の論理的「切断」をどう説明するかという問題を抱えている。論理には対応原理のようなものは無い。
 この点は強調に値する。論理には大きな量子数の極限で「分配性に転じる」ことなど叶わない。量子論理における分配律の破れは、サイズのせいではなく、プランク定数がゼロでないことにもっぱら由るのであり、ゼロと非ゼロの間には絶対的不連続性が在る。
 ギビンズは改訂派の典型として嘗てのヒラリー・パトナムの主張を採り上げている。パトナムは、論理学は経験科学だというテーゼの裏付けとして、量子論理による粒子実在論的解釈を提案したようだが、ここではその辺は端折ることにして、まず、いわゆる複スリット実験のパラドクスについてのパトナムの診断を、ギビンズの説明に従って、簡単にまとめてみる。
 極く細い二本の切れ込みが入った衝立に粒子ビームを当てて、衝立の向こう側に置かれたスクリーンに達する粒子の分布を調べるというのが複スリット実験の(粒子像に基く)見取り図な訳だが、パトナムは、複スリット実験のパラドクスを確率に関わるパズルとして定式化し、そして解こうとする。
 まず、a1 を粒子 S がスリット1を通過することを表わす文、a2S がスリット2を通過することを表わす文、rS がスクリーン上の或る範囲 Δ に達することを表わす文とすれば、S がスリット1を通って Δ に達する確率――いわゆる条件つき確率―― p (r |a1) と S がスリット2を通って Δ に達する確率 p (r |a2) そして S がどちらかのスリットを通って Δ に達する確率 p (r |a1a2) は、通常の確率論に従えば、それぞれ

p (r |a1) = p (ra1)/p (a1)
p (r |a2) = p (ra2)/p (a2)
p (r |a1a2) = p (r ∧ (a1a2))/p (a1a2)

となる。そこで、この三番目の式の右辺の「r ∧ (a1a2)」を分配律に則って「(ra1) ∨ (ra2)」に置き換えれば、ra1ra2 は互いに排反な事象を表わしているから、

p (r |a1a2)= p ((ra1) ∨ (ra2))/p (a1a2)
 = p (ra1)/p (a1a2) + p (ra2)/p (a1a2)

となるが、粒子 S がそれぞれのスリットを通る確率が等しいと仮定すれば、a1a2 もまた互いに排反な事象を表わしているから、

p (a1a2) = p (a1) + p (a2) = 2p (a1)

となり、次が成り立つ。

p (r |a1a2)= p (ra1)/2p (a1) + p (ra2)/2p (a1)
 = p (r |a1)/2 + p (r |a2)/2

しかし、これは実験的事実に反する。
 このパズルに対するパトナムの診断は簡単で、古典論理に替えて量子論理を採れば、もはや分配律に頼ることはできないから、この最後の等式は導けない、というものだ。ギビンズによれば、だが、そうは問屋がおろさない。
 まず第一に、分配律の片割れ

(φψ ) ∨ (φχ ) ⇒ φ ∧ (ψχ )

は量子論理でも成り立つから、φψ が量子論理的に真ならば p (φ ) ≦ p (ψ ) となることを仮定すれば、

p (r |a1a2) ≧ p (r |a1)/2 + p (r |a2)/2

となるが、これもまた事実に反する。第二に、量子論理における分配律の破れは

φ ∧ (ψχ ) ⇒ (φψ ) ∨ (φχ )

という形の文が凡て偽であることを意味する訳ではない。261から262ページ目にかけてと290ページ目には次のようなくだりがある。
 実際問題としては、二つのスリットの実験で分配律が失敗するということはまったくないと論ずることができる14。「光子がスリット1を通過する」と仮定することは、「スクリーン上の衝突時刻よりも早いある時刻 t に、その光子はスリット1の近くに局所化された状態ベクトルをもつ」ことを意味し、スリット2についても同様である。
 相補性定理から、連言 r ∧ (a1a2) は量子論理的に偽であり、したがってその分配的展開も偽である。それゆえに、分配律が適用できるのは、両辺が量子論理的に等しい場合、つまり両辺が量子論理的矛盾である場合である。
 これは、二つのスリット実験における分配律の失敗を疑うに足る十分な理由ではあるが、決定的な理由ではない。それが決定的でないのは、量子論理的説明において光子があちらのスリットではなくこちらのスリットを通過するというときに、そこで考えられていることがまったく明確でないからである。

14. またそのように論じられてきた。Gardner (1971) pp.523-4 では、二つの定性的議論が行われている。ガードナーの第1の議論はこうである。スリットは、入射粒子の位置を表す「近似的固有状態」を準備する。この状態はおのずから発展して「いくぶん」広がるが、スクリーン上での位置測定によって生まれる位置の固有状態と重なるほど十分にではない。この説明の問題は、時間進展のほうが、近似的固有状態が「いくぶん」広がるよりも大きいことである。事実、異なる時刻における位置オペレーターがまったく一致しないことから、その状態は一瞬にして全空間じゅうに広がることが帰結する。ともかく回折パターンがスクリーンに現れるならば、明らかに、その状態は十分に広がって、スクリーン上での位置測定によって生まれる「位置の固有状態」と「重なる」のである。ガードナーの結論は正しい。分配的に展開したどちらの側も、ヒルベルト空間におけるゼロベクトルに対応するので、分配的展開式は(空としては)真である。・ ・ ・
 ガードナーの第2の議論はこうである。スクリーン上のほんの小さな領域にかんして粒子の擾乱源となるものはなにもないので、スリットによって生じた二つの固有状態でスパンされた部分空間と、スクリーン上の小さな領域への粒子の局所化に対応する部分空間との、どちらにも属するヒルベルト空間内のベクトルの集合は空である。これは証明を要するが、Gibbins (1981) にみられる。

 原文は次の通り。
  As a matter of fact it can be argued that the distributive law does not fail at all in the two-slit experiment.14 Assume that ‘the photon goes through slit 1’ means ‘at some time t earlier than the time of impact on the screen the photon has its state-vector localized to the neighborhood of slit 1’, and similarly for slit 2. From the comprementarity theorem it follows that the conjunction

r & (a1a2)

is quantum logically false and hence so is its distributive expantion. Therefore the distributive law holds for this case, both sides being quantum logically equivalent, both sides being quantum logical contradictions.
  This is a good but not a conclusive reason for doubting the failure of the distributive law in the two-slit experiment. It is not conclusive because it is not entirely clear in the quantum logical account what the photon's going through one slit rather than the other is supposed to mean. (p.149)

14  And it has been so argued. Thus Gardner (1971) pp.523-4 has two qualitative arguments. First, Gardner argues that the slits prepare ‘approximate eigenstates’ of position for incoming particle. These evolve ‘somewhat’, but not sufficiently to ‘overlap’with the position eigenstate produced by the position measurement at the screen. The trouble with this account is that the evolution in time does more than spread the approximate eigenstates ‘somewhat’. In fact, it follows from the total incompatibility of the position operators for different times that they spread out through the whole space instantaneously. Clearly, they spread out sufficiently to ‘overlap’ with the ‘position eigenstate’ produced at the screen if a diffraction pattern is to appear at the screen at all. Gardner's conclusion is the correct one. Both sides of the distributive expansion correspond to the zero-vector in Hilbert space and so the distributive expansion is (vacuously) true. . . .
  Gardner's second argument is this. Since no source distributes the particle over only a small region of the screen, the set of vectors in Hilbert space which belong to both the subspace spanned by the two eigenstates produced by the slits and to any subspace corresponding to a particle's localization to a small region of the screen is empty. This demands a proof. One can be found in Gibbins (1981). . . . (p.173)

 これは次のような意味だろう。
 実際、複スリット実験において分配律が破れることなどないと主張することができる(註14)。「光子がスリット1を通過する」は「光子が、スクリーンにぶつかる前の或る時刻 t に、スリット1の辺りに局所化された状態ヴェクトルをもつ」を意味し、スリット2についても同様だと仮定する。相補性定理から、連言

r ∧ (a1a2)

は量子論理的に偽であり、その分配的展開もまた偽であることが帰結する。したがって、この場合、両辺は、共に量子論理的矛盾で、量子論理的に同値なのだから、分配律は成り立っている。
 これは、複スリット実験における分配律の破れを疑うに足る理由ではあるが、決定的なものではない。というのも、件の量子論理的説明において、光子が一方ではなく他方のスリットを通過することが何を意味すると考えられているのかが、すっかり明確な訳ではないからだ。

註14  また、そのように主張されても来た。例えば、Gardner (1971 [Is Quantum Logic Really Logic?, Philosophy of Science, 38] ) pp.523-4 には、ふたつの定性的な考察が在る。ガードナーは、まず、スリットはそこに入って来る粒子の位置に関する「近似的固有状態」をしつらえると主張する。そうした状態は、「幾分」拡がるように発展するが、スクリーン上での位置測定によって生じる位置の固有状態に「重なる」ほど拡がることはない。この説明の欠陥は、件の時間発展は近似的固有状態を「幾分」拡げるどころではない点にある。実際、異なる時刻における位置作用素の間の全くの両立不能性から、そうした状態は即座に空間全体に拡がることが帰結する。回折パターンがスクリーンに現われるからには、そうした状態がスクリーン上での位置測定によって生じる「位置の固有状態」と「重なる」に足るだけ拡がっているのは明らかだ。ガードナーの結論は正しい。件の分配的展開[r ∧ (a1a2) ⇔ (ra1) ∨ (ra2)]の両辺はどちらもヒルベルト空間のゼロヴェクトルに対応するので、当の分配的展開は(空虚に)真だ。・ ・ ・
 ガードナーの第二の考察はこうだ。スクリーン上の或る狭い範囲にしか粒子を撒き散らさないようなビーム源は無いので、スリットによって生じるふたつの固有状態によってスパンされる部分空間スクリーン上の何処か狭い範囲への粒子の局所化に対応する部分空間の両方に属すヴェクトルの集合は空だ。これは証明を要する。そのひとつは Gibbins (1981 [A Note on Quantum Logic and the Uncertainty Principle, Philosophy of Science, 48] ) に見られる。

 この場合、粒子 S の状態ヴェクトルは、いわゆる波動関数であり、可算無限次元ヒルベルト空間 L2(R3) の要素だ。(L2(R3) は三次元実ヴェクトル空間 R3 から複素数全体の集合 C への関数のうちルベーグ可測で平方積分可能なもの全体の集合({ΨR3C | Ψ はルベーグ可測、R3 Ψ *(x, y, z )Ψ (x, y, z )dxdydz < ∞ })を、ほとんど到るところ等しい――つまりルベーグ測度ゼロの集合上を除いて等しい――という同値関係によって分割して得られる関数空間だ。以下では関数 Ψ 等はその同値クラスを代表するものとする。なお、L2(R3) の内積 < , > は、関数 ΨΦ に対して <Ψ, Φ > = R3 Ψ *(x, y, z )Φ (x, y, z )dxdydz として定義される。)適当な直交座標系における Sx 座標を表わす位置作用素 Qx は、

R3 x 2Ψ *(x, y, z )Ψ (x, y, z )dxdydz < ∞

となるような関数 Ψ にだけ作用し、

QxΨ (x, y, z ) = (x, y, z )

となる非有界自己随伴作用素であり、それに対応するスペクトル測度 { EQx(Δ ) }ΔB は、χΔ(x ) を一次元ボレル集合(つまり実数全体の集合 R 上のボレル集合体 B の要素)Δ の特性関数として、L2(R3) に属す任意の関数 Φ について

EQx(Δ )Φ = χΔ(x )Φ (x, y, z )

となる射影作用素 EQx(Δ ) からなる。( χΔ(λ ) は λΔ に属せば値 1 をとり、そうでなければ 0 をとる写像だ。)一方、S の運動量の x 成分を表わす運動量作用素 Px は、L2(R3) の適当な線形部分集合の上では偏微分作用素 -ihbar(∂/∂x ) に等しい非有界自己随伴作用素であり、F をいわゆるフーリエ‐プランシュレル変換として、

Px = hbarF -1Qx F

となり、それに対応するスペクトル測度 { EPx(Δ ) }ΔB

{ EPx(Δ ) }ΔB = { F -1EQx(hbar-1(Δ ))F }ΔB

となる。ただし hbar-1(Δ ) = { λR | hbarλΔ } とする。(ちなみに、FL2(R3) 上のユニタリ作用素だ。)QxPx も固有値をもたず、どちらのスペクトルR に等しい。残りの位置作用素と運動量作用素に関しても同様であり、これらの作用素 Qx Qy Qz Px Py PzL2(R3) の或る稠密な線形部分集合の上で交換関係を充たす。(なお、ΨS の状態ヴェクトルならば、 |Ψ (x, y, z )|2 と |(F Ψ )(kx /hbar, ky /hbar, kz /hbar)|2 は、それぞれ S の位置および運動量についての確率密度関数となる。)また、S の質量を m (> 0)とすれば、そのハミルトニアンは (1/2m )(Px2 + Py2 + Pz2) であり、S の状態の時間発展を規定する連続1パラメタユニタリ群 { Ut }t R については、次が成り立つ。

Ut = F -1exp(-ithbar(kx2 + ky2 + kz2)/2m )F

ところで、ここまで依拠してきた量子系の記述法――いわゆるシュレーディンガー描写――においては、Ψ を時刻 0 における S の状態を表わすヴェクトルとすれば、時刻 t における S の状態は UtΨ によって表わされる訳だが、それとは異なり、Ψ はそのままにしておいて S のオブザーヴァブルを表わす自己随伴作用素の方を時間に連れて替わっていくようにするスタイルも在る。「ハイゼンベルク描写」と呼ばれるこの記述法においては、S の時刻 t における x 座標は Ut-1QxUt によって表わされ、それに対応するスペクトル測度は { Ut-1EQx(Δ )Ut }ΔB となる。Ut-1QxUt は、L2(R3) の適当な線形部分集合の上では、Qx + (t /m )Px に等しい。(この辺に関しては、ギビンズはほとんど説明を端折っているのだが、まず、状態ヴェクトル Ψ の局所化とは、ΔxΔyΔzR 上の有界な区間――つまり有限な長さをもつ区間――として、Ψ に射影作用素 EQx(Δx )、EQy(Δy )、EQz(Δz ) を作用させ規格化して χΔx(x )χΔy(y )χΔz(z )Ψ (x, y, z )/||χΔx(x )χΔy(y )χΔz(z )Ψ (x, y, z )|| とすることを云うのだろう。(ただし ||χΔx(x )χΔy(y )χΔz(z )Ψ (x, y, z )|| = root(R3 |χΔx(x )χΔy(y )χΔz(z )Ψ (x, y, z )|2dxdydz )。)これはリューダースの規則の適用に相当する。また、「相補性定理」は、ギビンズ独自の用語のようで、第二章の(6)に述べられていることがらを指すのだが、件の比喩的な表現に託されているのは、ΔxΔyΔz を有界な区間として、ΨΨ (x, y, z ) = χΔx(x )χΔy(y )χΔz(z )Ψ (x, y, z ) となるような状態ヴェクトルとすれば、どんな有界な区間 ΓxΓyΓz についても EPx(Γx )EPy(Γy )EPz(Γz )Ψ (x, y, z ) = Ψ (x, y, z ) とはなり得ない(そして逆もまた成り立つ)というようなことらしい。それから、「異なる時刻における位置作用素の間の全くの両立不能性から、そうした状態は即座に空間全体に拡がる」とは、ts ならば、Ut-1QxUtUs-1QxUs の間には Qx Px の場合と同様の関係が在る、ということを意味するのものと思われる。ギビンズは別の箇所で、この全くの両立不能性は相補性定理からの帰結だと云っている。これらについての正確なところはそのうち判ればいいことにして、ここはひとまず先へ進むとしよう。)
 次に、ギビンズは、パトナムが論理の改訂を主張しつつ確率法則には全く手をつけていない点を批判する。263から264ページ目にかけては次のようなくだりがある。
しかし、論理法則を変更すれば、つまり確率が一つの測度となる束の構造を変更すれば、おそらく確率の諸法則も変更しなければならないであろう。こう問わなければならない。量子的確率計算において有意味な条件つき確率は存在するか? 存在しないと考えるべきあらゆる理由がある。相補的命題「p 」と「q 」を取り上げよう。「pq 」は量子論理的矛盾であるので、条件つき確率はつぎのようになる。

CondP [ p |q ] = P [ pq ] /P [ q ] = 0,   P [ q ] > 0

 おそらくこう問われるであろう。束の多項式――束の演算と束の諸要素にわたる変数とから形成される式――を、定義における分子の「pq 」と交換して、両立する「p 」と「q 」についての古典的な結果を得ることができるか? そしてさもなければ、一般にゼロでないというつねに正当な結果を得ることができるか? 答えはノーである。リューダースの規則――系がこれこれの状態にあることが与えられているときに、あるオブザーバブルの測定結果の確率がどうであるかを教える規則――のような条件化規則をもつことは、こうした測定にかんするすべての言及から抽象することや、系がある不両立なオブザーバブルの確定値をもつことが与えられているときに、その系が所有するオブザーバブルの値についての条件つき確率を得ることとは、まったく違うことである。
 したがって、量子論理は不両立な命題についての古典的な条件つき確率の使用を禁止する。そしてこのことは、二つのスリットの実験においてパトナムが量子論理をどのように使用してきたかを表すべきである。すなわち、パトナムが行うどんな方法においても、量子論理はおよそパラドクスの定式化を差し止める。
 原文は次の通り。
But change the laws of logic, change the structure of the lattice on which probability is a measure and presumably you must change the laws of probability. One must ask: is there a sensible conditional probability in the quantum probability calculus? There is every reason to think that there isn't. Take two complementary propositions p and q. Since p & q is a quantum logical contradiction the conditional probability

Pcond[ p |q ] = P [ p & q ] /P [ q ] = 0,   P [ q ] > 0

  One question one might ask is: could we substitute a different lattice polynomial ―― an expression built up from the lattice operations and variables ranging over the lattice elements ―― for p & q in the numerator of the definition to get the classical result for compatible p and q, and an always reasonable generally nonzero otherwise? The answer is no. It is one thing to have a conditionalization rule, like the Luders rule, which tells what the probabilities of the results of a measurement of an observable would be, given that the system is in such and such a state. It is quite another to abstrast from this all mention of measurement, and obtain a conditional probability for possession by a system of a value for an observable, given that it possesses a definite value for some incompatible observable.
  Therefore quantum logic rules out the use of the classical conditional probability for incompatible propositions. This should have been how Putnam used quantum logic in the two-slit experiment: quantum logic stops you formulating the paradox at all, in the way putnam does, as a paradox about probability. (p.150f.)
 これは次のような意味だろう。
しかし、論理法則を変えれば、つまり確率がその上の測度である束の構造を変えれば、おそらく確率法則も変える必要がある。こう問わねばならない。量子的確率計算においてまっとうな条件つき確率は存在するか? 存在しないと考えられる十分な理由が在る。相補的命題 pq を採ろう。pq は量子論理的矛盾だから、[q が真であることが判っているときに p が真となる]条件つき確率は、

Pcond(p |q ) = P (pq )/P (q ) = 0,   P (q ) > 0

 次のように問うことができるだろう。上の定義の分子の中の pq を別の束多項式――束の演算および束の要素上を走る変数からなる表現――に置き換えて、pq が両立可能な場合には古典論的な結果が得られ、そうでなければ一般にゼロでない妥当な結果が恒に得られようにすることは可能か? 答は否だ。リューダースの規則のような、ひとつの系がしかじかの状態にあることが判っているときに或るオブザーヴァブルの測定結果についての確率を指定する条件化規則が在ることと、そこから測定への一切の言及を取り除いて、ひとつの系が或るオブザーヴァブルの明確な値をもっているのが判っているときにそれと両立不能なオブザーヴァブルの値を件の系がもつ場合の条件つき確率を得ることは全く別だ。
 したがって、量子論理は両立不能な命題に対する古典論的条件つき確率の使用を不可能にする。パトナムは、複スリット実験について、量子論理をこのように利用すべきだった。量子論理は、件のパラドクスが、上の通りのパトナムのやり方でもって確率に関するパラドクスとして定式化されるのをそもそも阻む。
 射影公準としてのリューダースの規則によれば、ヒルベルト空間 H 上の密度作用素 D によって表わされる状態にある系 S のオブザーヴァブル O の値が一次元ボレル集合 Δ に収まるか否かを調べる理想的測定で肯定的な結果が得られた場合、S の状態は、{ PopO(Δ ) }ΔBO を表わす自己随伴作用素 opO に対応するスペクトル測度とすれば、当の測定のために (1/trace(DPopO(Δ )))PopO(Δ )DPopO(Δ ) によって表わされるものに変化したことになるが、この新たな状態にある S の別のオブザーヴァブル R の値が一次元ボレル集合 Γ に収まる確率は、密度作用素を用いるアルゴリズムに従えば、{ PopR(Δ ) }ΔBR を表わす自己随伴作用素 opR に対応するスペクトル測度として、trace(PopO(Δ )DPopO(Δ )PopR(Γ ))/trace(DPopO(Δ )) となる。これは理想的測定を条件とする確率な訳だが、この他に、H の部分空間全体のなす束 L(H) 上の確率測度で条件つき確率として解釈し得るようなものは(H の次元が 2 より大きい場合)無いことがグリーソンの定理から帰結する。
 ギビンズは、さらに、パトナムの量子論理的粒子実在論を俎上にのせる。265から267ページ目にかけては次のようなくだりがある。
二つの命題の連言を考察する。第1命題は、各文が位置「X1 ∨ . . . ∨ Xn 」の確定値(すなわち、ある有限値域に限定された値、あるいはより受け入れがたくはあるが、「厳密」値)をもつ ELQM 文の悉皆的選言であり、第2命題は、各文が運動量「P1 ∨ . . . ∨ Pm 」の確定値をもつ ELQM 文の悉皆的選言である。(われわれの言語が十分広範囲な諸選言と諸連言とを扱うことができると仮定することにはちょっとした問題があるのだが。)連言、

(X1 ∨ . . . ∨ Xn ) ∧ (P1 ∨ . . . ∨ Pm )   [*]

は、量子論理的に妥当である。・ ・ ・ しかし、それを分配的に展開した

(X1P1) ∨ . . . ∨ (XiPj ) ∨ . . . ∨ (XnPm )   [**]

は量子論理的矛盾である。なぜなら、各宣言肢が矛盾であるからである。パトナムはつぎのように推論する。それゆえに、実在論――量子系は諸厳密値 Xi の一つをもち、かつ諸厳密値 Pj の一つをもつという主張――は前者 [*] の連言と一致するがゆえに通用する。「古典論理的」実在論の概念が誤りなことは後者 [**] の「連言」、つまり分配的に展開した式に対応する。・ ・ ・
 このことで奇妙なのでつぎの点である。すなわち、「粒子は一つの運動量をもち、かつ一つの位置をもつ」は実在論と同定されるが、一方、「粒子は同時に位置と運動量をもつ」は実在論なのではあるが、強すぎる実在論と同定される、と考えられることである。[*] を主張することが実在論を主張することだとしても、量子系が軌跡をもつとは主張すべきではない。なぜなら軌跡は [**] の立場から同定されねばならないであろうからである。また [*] は、EPR の相関電子がその力学的変数に対してそれぞれの決定値をもつ、ということも許さない。それゆえに、量子論理的実在論は名前だけのものである。
 パトナムの量子力学の説明を読んでゆく困難の一つは、かれが量子論理の使用に意味論を与えていないことである。その理由は、さきに述べたように、二つのスリットの実験のパラドクスについてのかれの解決に対して純形式的な反証例を与えるほうが、分配律が失敗するか否かを考察するよりもよいからである。意味論なくしては、分配律が失敗することを支持する十分な根拠がわれわれにはない。フリードマンとグリモアは、パトナムの実在論を仮定したとき、かれが量子論理に与えたいであろう意味論がどんなものであるかを考察し、いかなる意味論も与え得ないことを、つまり驚くほどのこともない結果をみいだした。
 原文は次の通り。
  Consider the conjunction of two propositions, the first an exhaustive disjunction of statements of ELQM each of which assigns a definite value (that is a value restricted to a finite range, or less acceptably, an ‘exact’ value) of positions X1 ∨ . . . ∨ Xn , and the second an exhaustive disjunction of statements of ELQM each of which assigns a definite value of momentum P1 ∨ . . . ∨ Pm . (There is the slight problem that we assume our language can handle sufficiently large disjunctions and conjunctions.) The conjunction

(X1 ∨ . . . ∨ Xn ) & (P1 ∨ . . . ∨ Pm )   [*]

is quantum logically valid. . . . However the distributive expansion

(X1 & P1) ∨ . . . ∨ (Xn & Pm )   [**]

is a quantum logical contradiction, because each of the disjuncts is. Therefore, Putnam reasons, realism ―― the assertion that a quantum system has one of the exact Xi 's and one of the exact Pj 's ―― holds because it corresponds to the former conjunction. The mistaken ‘classical logical’ conception of realism corresponds to the second ‘disjunction’, the distributive expansion . . . .
  The odd thing about this is that it should be thought the assertion of [*], which may be stated as

‘the particle has a momentum and it has a position’,

is an assertion of realism, whereas [**], which may be states as

‘the particle has a joint position and momentum’

is a realism, but is too strong a realism. If asserting [*] is asserting realism, it is not to assert that a quantum system has a trajectory, for that would have to be stated in terms of [**]. Nor would it allow us to say that the correlated electrons in EPR have separate determinate values for their dynamical variables. Quantum logical realism is therefore a realism in name only.
  One of the difficulties in reading Putnam's account of quantum mechanics is that he does not give a semantics to his use of quantum logic. This is why, as we noted previously, giving a purely formal counterexample to his resolution of the paradox of the two-slit experiment is better than considering whether or not the distributive law fails. With no semantics we have no good reason for supposing that it does. Friedman and Glymour have considerd what sort of semantics Putnam might want to give to quantum logic, given his realism, and they found that none can be, a result that should not be surplising.. (p.152)
 これは次のような意味だろう。
 ふたつの命題の連言を考える。第一の命題は、それぞれが位置の明確な値(つまり、或る有限の範囲に限定された値、あるいは、眉唾ものだが、「厳密」な値)を指定する ELQM の言明からなる網羅的選言 X1 ∨ . . . ∨ Xn であり、第二の命題は、それぞれが運動量の明確な値を指定する ELQM の言明からなる網羅的選言 P1 ∨ . . . ∨ Pm だ。(ただし、我々の言語が適宜に長い選言や連言を扱えるとすることにはやや問題がある。)連言

(X1 ∨ . . . ∨ Xn ) ∧ (P1 ∨ . . . ∨ Pm )   [*]

は量子論理的に妥当だ。・ ・ ・ しかし、その分配的展開

(X1P1) ∨ . . . ∨ (XnPm )   [**]

は量子論理的矛盾だ。それぞれの宣言肢が矛盾だからだ。したがって、とパトナムは論じる。実在論――量子系は Xi [によって指定される値]のうちのひとつをもち、そして Pj のうちのひとつをもつという主張――は連言 [*] に対応するから成り立つ。誤った「古典論理的」実在論の考え方はその分配的展開つまり「選言」 [**] に対応する。・ ・ ・
 ここで奇妙なのは、

「粒子は或る運動量をもち、そしてそれは或る位置をもつ」

と述べ得るような [*] の主張は実在論の主張である一方、

「粒子は或る連合的な位置と運動量をもつ」

と述べ得るような [**] の主張は、実在論ではあるものの、強すぎる実在論だと考えられていることだ。[*] の主張は、仮令それが実在論の主張だとしても、量子系が軌道をもつと主張することにはならない。それを述べるには [**] に依らなければならないだろう。また、この実在論は、EPR における相関電子対がそれらの力学的変数について別々の確定値をもつと云うことも許さないだろう。したがって、量子論理的実在論は名ばかりのものだ。
 パトナムの量子力学の説明を解釈する上での困難のひとつは、彼が、その量子論理の使用に意味論を付与していない点にある。前に注意したように、複スリット実験のパラドクスについての彼の解に対して純粋に形式的な反例を提示するほうが、分配律が破れるかどうかを考察するよりも得策なのはこのためだ。意味論を欠いては分配律が破れると仮定するまともな理由は無い。フリードマンとグリムア[Friedman, M. and Glymour, C., If qunta had logic, Journal of Philosophical Logic, 1, 16-28, (1972)]は、パトナムが量子論理に付与しようとしたであろう意味論はどんな類かを考察し、彼の実在論を前提とした場合、それに適ったものは在り得ないことを見出したが、これは驚くにあたらない。
 この場合の意味論とは、要するに、ELQM の文に対する真理値――真か偽――の割り当て方のことだ。(ちなみに、真理値は、或る文が実際に事実を表わしているかどうかには無関係であり、文に付けられるタグに過ぎないから、1 と 0 でも T と F でも何でもかまわない。)前に量子命題論理の自然演繹系 NDQL の「解釈」を、NDQL の式全体の集合から直モジュラ束への写像で或る条件を充たすものとして定義したが、ELQM の文全体の集合からヒルベルト空間 H の部分空間全体のなす束 L(H) へのそうした「解釈」を考えれば、ELQM の文には H の部分空間が対応することになる。したがって、ELQM の文への真理値の割り当ては、L(H) から { 0, 1 } への写像に還元されるが、そのような写像で、パトナム流の実在論に適い、しかも、いわゆるコッヘン‐シュペッカーの定理と両立するようなものは無い、というのがフリードマンらの示したことらしい。(コッヘン‐シュペッカーの定理は、局所的隠れた変数が在り得ないことを示す定理で、グリーソンの定理からのひとつの帰結だとも云えるが、その辺については端折ることにする。)

 つづいての話題は量子論理結合子の意味だ。パトナムは、次の(1)から(9)によって、連言および選言、否定の基本的属性が捉えられると考えていたらしい。

(1) φφψ を含意する(つまり φ が成り立てば φψ が成り立つ)。
(2) ψφψ を含意する。
(3) φχ を含意し ψχ を含意するならば、φψχ を含意する。
(4) φψ は一緒に φψ を含意する(つまり φψ が共に成り立てば φψ が成り立つ)。
(5) φψφ を含意する。
(6) φψψ を含意する。
(7) φ と ¬φ が共に成り立つことはない。
(8) φ ∨ ¬φ が成り立つ。
(9) ¬¬φφ は同等である(つまり ¬¬φ が成り立てば φ も成り立ち φ が成り立てば ¬¬φ も成り立つ)。

(これらが量子論理でも古典論理でも成り立つことは、前に挙げておいた自然演繹系の推論規則からほぼ見てとれる。)論理結合子の意味はこれらによって特徴づけられるものと考えられ、したがって、古典論理においても量子論理においても結合子の意味は同じだ、というのがパトナムの主張らしい。それに対して、次のようなくだりが271から272ページ目にある。
 パトナムに反対して、つぎのような ・ ・ ・ 主張をすることができよう。もし、対応する古典的結合子と量子論理結合子とが同義で、その一方(たとえば古典的選言)が真理関数的であれば、他方(量子論理的選言)も真理関数的であるべきである。・ ・ ・ しかし、ジョフリー・ヘルマンによるあるエレガントな論証がある。それは可能なうちでもっとも弱い諸仮定を用いており、量子論理的な選言と否定はどちらも真理関数的かつ二値的であることができないことを示している。その仮定とは、
 (1) どんな部分空間 MN についても、もし MN かつ M が「T」(真)ならば、N もまた「T」である。
 (2) どんな部分空間 M についても、M が「F」(偽)である場合にかぎり M は「T」である。
 ヘルマンの論証は、どんな意味論も(1)と(2)に整合することを証明するに等しい。つまり、量子論理的選言は、その選言肢がどちらも偽であるとき、真なものもあれば偽なものもある。それゆえに、量子論理的選言は(少なくとも)非真理関数的である。ヘルマンの結論は量子論理的連言にも通用する。なぜなら、├ pq ⇔ ¬(¬p ∨¬q ) が得られるので、否定が真理関数的で、選言がそうでなければ、連言も真理関数的でないからである。
 ・ ・ ・ われわれは ELQM に意味論を与えて、固有の状態ベクトルがヒルベルト空間のメンバーである場合にのみその文は真であり、さもなければ偽であるとした。もしヘルマンの論証が指摘した通常のもう一つの規約を採用して、固有の状態ベクトルが適切な部分空間に属している場合にのみ ELQM 文は真であり、直交する部分空間に属している場合にのみ偽であり、さもなければ真でも偽でもないとすれば、連言の真理関数性を犠牲にして、否定をより真理関数にみえるようにすることができる。いかなる規約もすべての結合子を同時に真理関数的にすることはできない。この事実は「隠れた変数不在定理」と一致する。
 原文は次の通り。
  One might, in opposition to Putnam, make the . . . claim that if the corresponding classical and quantum logical connectives are synonymous, then if one (say classical disjunction) is truth functional, so should the other (quantum logical disjunction) be. . . . But there is an elegant argument, due to Geoffrey Hellman, which uses the weakest possible assumptions and which shows that quantum logical disjunction and negation cannot both be truth functional and two valued. The assumptions are

  (1) For any subspaces, M, N if MN and M is assigned ‘T’, then N is also assigned ‘T’;
  (2) For any subspace M, M is assigned ‘T’ iff M is assigned ‘F’.

  Hellman's argument amounts to a proof that on any semantics consistent with (1) and (2), some quantum logical disjunctions are true and others false when both their disjuncts are false. Therefore quantum logical disjunction (at least) is non-truth-functional. Hellman's conclusion applies also to quantum logical conjunction, since we have

p & q = - (-p ∨-q )

and so if negation is truth functional, and disjunction isn't, then conjunction isn't.
  . . . We gave ELQM a semantics which made a sentence true iff the appropriate state-vector is a member of the Hilbert space, and false otherwise. . . .
  If one adopts the usual alternative convention, which is the one hellman's argument points to, that a sentence of ELQM is true iff the appropriate state-vector belongs to the appropriate subspace, false iff it belongs to the orthogonal subspace, and neither true or false otherwise, then one can make negation look rather more truth finctional at the expense of the truth functionalty of conjunction. No convention can make all the connectives simultaneously truth functional, a fact which is equivalent to a ‘no-hidden-variables theorem’. (p.155f.)
 これは次のような意味だろう。
 パトナムに抗して、もし古典論理と量子論理の対応する結合子が同義だとすれば、一方(例えば古典論理的選言)が真理関数的ならば他方(量子論理的選言)も真理関数的なはずだと ・ ・ ・ 主張することができるだろう。・ ・ ・ ところが、ジェフリー・ヘルマン[Hellman, G., Quntum Logic and Meaning, Philosophy of Science Association (of America), 2, 493-511, (1980)]に由る、量子論理的選言と否定が共に真理関数的かつ二値的ではあり得ないことを示す、可能な限り弱い仮定を用いたエレガントな論証が在る。その仮定とは、

 (1) どんな部分空間 MN についても、MN かつ M が「T」を割り当てられるならば、N もまた「T」を割り当てられる。
 (2) どんな部分空間 M についても、M が「T」を割り当てられるのは Mが「F」を割り当てられる場合でありその場合に限る。

 ヘルマンの論証は、(1)および(2)と整合的などんな意味論においても、その選言肢がどちらも偽であるような量子論理的選言には、真なものも在れば偽なものも在ることの証明になっている。したがって、(少なくとも)量子論理的選言は[否定が真理関数的な場合]非真理関数的だ。ヘルマンの結論は量子論理的連言にも当てはまる。というのも、

pq ⇔ ¬(¬p ∨¬q )

が[量子論理においても]成り立つので、否定は真理関数的だが選言はそうでないとなれば、連言は真理関数的ではあり得ないからだ。
 ・ ・ ・ 我々は ELQM に意味論を付与したが、それが或る文を真にするのは、適当な状態ヴェクトルがヒルベルト空間の適当な部分空間のメンバーである場合でありその場合に限り、そうでなければ偽にする。・ ・ ・
 ヘルマンの論証が示唆する通常の規約、つまり、ELQM の或る文が真なのは適当な状態ヴェクトルが適当な部分空間に属す場合でありその場合に限り、偽なのはそれに直交する部分空間に属す場合でありその場合に限り、その他の場合には真でも偽でもないという規約を採れば、連言の真理関数性を代償にして、否定をもっと真理関数らしくすることができる。しかし、凡ての結合子を一斉に真理関数的にし得るような規約は無い。この事実は或る種の「隠れた変数の存在不能定理」と同等だ。
 例えば、古典命題論理における選言の結合子は、その真理値表によって規定されるような、真理値集合 { 真, 偽 } の直積 { 真, 偽 }×{ 真, 偽 } から { 真, 偽 } への写像を表わしていると考えることができる。そうした写像を「真理関数」と云う。(形式的には、真理関数は、真理値集合 { 真, 偽 } の n 重の直積 { 真, 偽 }n から { 真, 偽 } への写像として定義できる。ちなみに、どんな真理関数も、否定の真理関数と(例えば)選言の真理関数の組み合わせによって表わせることが知られている。)古典命題論理では、複合文の真理値は、構成要素である文の真理値が凡て定まれば、それで唯ひとつに定まってしまうところが味噌で、真理関数の概念はそれを強調するものになっている訳だ。ギビンズの云うような規約を採れば、連言は真理関数的になるが、選言も否定もそうはならない。それに対して通常の規約を採れば、否定は真理関数的になるが、連言も選言もそうはならない。ただし、どちらを採っても、文 φ とその否定 ¬φ の何れかが必ず真になるという訳にはいかない。(それらの選言 φ ∨ ¬φ はどちらにおいても恒真であるにもかかわらずだ。)
 さらに272から274ページ目にかけては次のようなくだりがある。
 ・ ・ ・ パトナムは結合子の意味をあてにして真理表をみていない。では、たとえば量子的選言と古典的選言という二つの結合子は、その外延が、つまりその真理関数が異なっているならば、いかにして同義でありうるのか?
 ・ ・ ・ 一つの答えはこうであるように思われる。もし論理が経験的ならば、古典的真理表は結合子についての特別な経験的理論であり、どんな仕方で与えられるとしても、結合子の本質的属性とみなされるべきである。
 しかし、結合子のこうした諸属性――パトナムの(1)〜(9)――が、なぜ結合子を定義する本質的属性であるべきか? つまり「∧」、「∨」、および「¬」を交わり、結び、および直交補空間化に対応させている諸属性が、なぜ本質的属性であるべきか? パトナムの主張は単に恣意的であるように思われる。こうした諸属性が古典的な否定、連言、および選言の本質的属性であり、真理表に表された諸属性がそうでないことを成立させる、どんな理由があるというのか?・ ・ ・
 ベルとハレットの論文には、つぎのような興味深い主張がみられる。量子論理の「∨」と「∧」はその古典的対応物と同義であるが、パトナムに反して量子論理の「¬」は(一たび意味のゲームに入り込めば諸観念のすべての組合せが可能になることを証明することによって)意味が違っている。ベルとハレットがこう主張するのは、前者二つの結合子は束の演算としてみた場合、量子論理においても古典論理においても同一式で定義することができるからである。しかし「¬」についてはそうはならない、とかれらは主張する。その議論とはこうである。もし、
二つの名辞が a, b, . . . にかんして同一の意味をもつと主張することによって、意味の外延説をとるのであれば、つまりもし、二つの名辞が a, b, . . . によって等しい定義をもつならば、結合子の意味は古典論理から量子論理へと至る経過において変わらないという主張を立証することができる。
 ゆえに、束における結び ∨ は、

{ xcx } = { xax } ∪ { xbx } の場合にかぎり、ab = c

によって定義される。
 その双対の定義が交わりについてとなる。しかしながら、ブール代数では直交補空間化「⊥」は、

{ xax } = { xbx = 0 } の場合にかぎり、a = b

によって定義される。一方、量子論理では「否定」をそう定義することはできない。
 では、量子論理的な選言と連言は古典論理において対応する結合子と同義であるのか? ベルとハレットの説明では、かれらの扱いすべての ab とが古典的定義と量子的定義のどちらについても同一の a であり b である場合にのみ、同義であるという。そして、それらは同義ではない。なぜなら半順序関係(含意関係)「≦」は一定でないからである。「≦」が一定であれば、同義であるという主張を立証することもできよう。しかし「≦」は二つの束のなかで異なる定義をもつのである。
 それとは別に、この点について、「≦」はその見た目にもかかわらず一定であると応酬することができる。「≦」はどちらの論理でも反射的、反対称的、および推移的関係であると定義されるのである。しかし、なぜこうした諸属性が「含意」の本質的属性として選びだされ、他の諸属性は偶然的属性と考えられるべきなのか? われわれはパトナムの恣意性(および確かに無外延性)に戻ってくる。
 原文は次の通り。
  . . . Putnam does not look to the truth tables for the meanings of the connectives. So how can he hold that two connectives, the quamtum and classical disjunctions for example, can be synonymous if their extensions, their truth tables, are different?
  One answer would seem to be . . . that if logic is empirical, then the classical truth table should be seen as a particular empirical theory about the connectives, the essential properties of the connectives being given in another way.
  But why shoud just these properties ―― Putnam's (1) to (9) ―― of the connectives, those that make &, ∨, and - correspond to the operations of meet, join, and orthocomplementation in an ortho lattice, be the essential properties which define the connectives? Putnam's claim seems to be simply arbitrary. What reason is there for holding that these properties, and not those expressed in the truth tables, are the essential of properties of classical negation, conjunction, and disjunction? . . .
  In a paper by Bell and Hallett we find the interesting claim that & and ∨ are synonymous with their clasical counterparts, but, contra Putnam, that ‘-’ in quantum logic deviates in meaning (proving that once you get into the meaning game all combinations of ideas are possible). Bell and Hallett hold this becouse the binary connectives, viewed as lattice operations, are definable by means of the same formulae in both quantum and classical logic. They hold that this is not so for ‘-’. They aregue that if
one takes an extensional view of meaning by stating that two terms have the same meaning relative to a, b, . . . if they have the equivalent definitions in terms of a, b, . . . then a case can be made out that the meanings of the connectives do not vary in the passage from classical to quantum logic.
  Thus, the ‘join’ ∨ in a lattice is defined by

ab = c iff { xcx } = { xax } ∪ { xbx }.

A dual definition goes for the ‘meet’, &. However, in a Boolean algebla the orthocomplementaion ⊥ can be defined by

a = b iff { xxa } = { xb & x = 0 },

whereas in quantum logic ‘negation’ cannot be so defined.
  So are disjunction and conjunction in quantum logic synonymous with their corresponding connectives in classical logic? Only if, on their account, all Bell and Hallett's as and bs are the same as and bs for both classcal and quantal definitions, and they are not., since the partial ordering (‘entailment’) relation ≦ is not fixed. Relative to a fixed ≦, it may be that a case for synonymy could be made out. But ≦ have different extensions in the two lattices.
  One might reply to this point that ≦ is fixed in spite of the appearance otherwiise. It is defined as a reflexive, antisymmetric, and transitive relation in both. But why should one pick out these properties as the essential properties of ‘entailment’, and think of the rest as accidental? We are back to the arbirariness (and nonextensionality surely) of Putnam. (p.156f.)
 これは次のような意味だろう。(ただし、適宜修正を加えた。)
 ・ ・ ・ パトナムは真理値表に結合子の意味を期待していない。では、どうして彼は、ふたつの結合子、例えば量子論理的および古典論理的選言は、それらの外延つまり真理値表が異なっていても同義であり得ると主張できるのか?
 ひとつの答は ・ ・ ・ 次のようなものだろう。論理が経験的だとすれば、古典論理の真理値表は結合子についてのひとつの経験的理論と考えられるべきであり、結合子の本質的属性は、別の方法で示されている。
 しかし、何故 ∧、∨、¬ を直交束における交わり、結び、直補の演算に相当するものにする他ならぬこれらの属性――パトナムの(1)から(9)――が、結合子を規定する本質的属性でなければならないのか? パトナムの主張はいかにも独断的に見える。真理値表に表現されている属性ではなく、これらの属性が、古典論理的否定、連言、選言の属性の要だと主張する根拠は何か? ・ ・ ・
 ベルとハレットの或る論文[Bell, J.L. and Hallett, M., Logic, quantum logic and empiricism, Philosophy of science, 49, 355-79, (1982)]には、量子論理の ∨ と ∧ は対応する古典論理の結合子と同義だが、パトナムに反して、量子論理における「¬」は意味がずれているという興味深い主張が見られる。(意味のゲームの内部では凡てのアイディアの組み合わせが実現可能だ。)ベルとハレットがそう主張するのは、束の演算としての二項結合子は量子論理でも古典論理でも同じ式によって定義可能だからだ。「¬」についてはそうではないと彼らは主張する。彼らは論じる。
ふたつのタームが a, b, . . . を用いた同等な定義をもてば、それらは a, b, . . . に相対的に同じ意味をもつものとすることによって意味の外延説を採れば、結合子の意味は古典論理から量子論理への移行において変化しないことを示すことができる。
 例えば、束における「結び」 ∨ は、

ab = cdef { x | cx } = { x | ax } ∩ { x | bx }

によって定義される。その双対が「交わり」 ∧ の定義になる。しかし、ブール代数では直補 は、

a = bdef { x | xa } = { x | bx = 0 }

によって定義できるのに対して、量子論理では「否定」をそのように定義することはできない。
 では、量子論理の選言と連言は対応する古典論理の結合子と同義か? ベルとハレットの説明に従えば、同義なのは、古典論的定義と量子論的定義における凡ての ab が同一な場合に限るが、半順序(「伴立」)関係 ≦ が固定されていないため、それらは同義ではない。固定された ≦ に相対的に、同義性は示せるかもしれない。しかし ≦ はふたつの束で異なる外延をもっている。
 この点に対しては、≦ は一見そうでなようで実は固定されていると、応じられるかも知れない。それはどちらにおいても反射的、反対称的、推移的な関係として定義されている。しかし、何故これらの属性を「伴立」の本質的属性として撰び、残りは偶有的としなければならないのか? 我々はパトナム流の独断(そしてたぶん非外延性)に戻っている。
 つづいて274から275ページ目にかけてと291ページ目には次のようなくだりがある。
こうした合理主義的冒険を破棄するとしても、われわれはパトナムの内容豊かな論文のなかに結合子の意味についての第2の説明があることをみいだす。その説明は、特質としては本質主義的であるよりもむしろ検証主義的 (verificationist) である。結合子の意味は、量子力学的実験で行われる「検証の論理」によって与えられる、とパトナムはいう。もちろん、操作的「定義」が、定義として深刻に考えられているわけではない。科学の哲学者で、操作主義を理論的名辞の意味の理論と考える者はほとんどいない。しかし、操作的「定義」は理論をよりよく理解させる発見法的考案物として有用であり25、実在的物理学を教えることにはこうした例があふれている。
 したがって、理想化への通常の警告で武装しつつ、われわれはつぎのように想定する。
すべての物理的属性 P に対してテスト T が対応してあり、T に「パス」するケースでのみ、あるものが P をもつ(つまり、T が行われれば T をパスするであろう)ようなかたちになっている。
25. Putnam (1979) pp.192-3. 量子論理結合子の操作的定義を真剣に考えている人はほとんどいないのではないかとわたしくしは思っている。もちろん、一連のテストから始めることは、量子論理を公理化するよい方法である。つまり、理論が経験的基礎をもつという厳格な考えから、できるだけ数学的フォーマリズムを取り戻す試みとして、よい方法である。それはまったくうまくゆかないように思われる。・ ・ ・
 原文は次の通り。
  Abandoning these rationalist adventures, we find that there is, in Putnam's abundant paper, a second account of meanings of the connetives, one which is verificationist rather than essentialist in spirit. The meanings of the connectives, Putnam says, are given by the ‘logic of tests’ performed in quantum-mechanical experiments. Of course, operational ‘definitions’ are not to be taken seriously as definitions. Few philpsophers of science believe in operationism as a theory of meanings of theoritical terms. They are, however, useful as heuristic devices which can give one a better grasp of the theory25 and the teaching of real physics is full of examples of them.
  So, armed with the usual caveats about idealization, we:
pretend that to every physical property P there corresponds a test T such that something has P just in case it ‘passes’T (i.e. it would pass T, if T were performed). (p.157)
25  Putnam (1979) pp.192-3. I suspect that few people take the operational definitions of quantum logical connectives seriously. Of course, beginnig with a set of ‘test’ is a good way of axiomatizing quantum logic, of trying to recover as much as possible of the mathematical formalism from an austere conception of the theory's empirical basis. It seems that it cannot work entirely. . . . (p.173.f.)
 これは次のような意味だろう。
 こうした合理論的冒険を放棄すれば、パトナムの豪儀な論文には、結合子の意味についての、性向としては本質主義的でなく検証主義的な、第二の説明が在ることに気付く。パトナムは云う。結合子の意味は、量子力学的実験において実行される「テストの論理」によって示される、と。もちろん、操作的「定義」をまじめに定義ととるべきではない。操作主義を理論的タームの意味の理論として認める科学哲学者は稀だ。しかし、操作的定義は理論のよりよい把握を可能にするヒューリスティクな工夫として有益であり(註25)、実際の物理学の授業はその実例に満ちている。
 そこで、理想化に対するお決まりの警告に留意しつつ、
それぞれの物理的属性 P にはひとつのテスト T が対応しており、何かが P をもつのは、それが T を「パス」する(つまり T が実行されたならば T をパスするであろう)ちょうどその場合である、と敢えて云おう。
註25  Putnam (1979 [Mathematics, Matter and Method: Philosophical Papers Vol I, Cambridge University Press] ) pp.192-3. 量子論理的結合子の操作的定義をまじめに受け取る人は稀だろうと私は思う。もちろん、ひと組の「テスト」からはじめるのは、量子論理の公理化には、そして理論の経験的基礎という簡素な考えからその数学的フォーマリズムを可能な限り再生しようとするには、いいやり方だ。しかし、それがすっかりうまくいくとは思われない。・ ・ ・
 ギビンズによれば、パトナムはそうした理想化されたテスト全体の集合からをひねりだそうとする。それを簡単に再構成してみれば、次のようになるだろう。
 まず、形式的に、あらゆるものがパスする「空虚なテスト」と、どんなものもパスし得ない「不可能なテスト」を考え、それらを含めたテスト全体の集合 T 上の二項関係 ≦ を

T1T2def T1 をパスするものは何れも T2 をパスする

として定義すれば、≦ は(半)順序関係になる。そこで、T 上の二項関係 〜 を

T1T2def T1T2 かつ T2T1

として定義すれば、〜 は同値関係になるから、T の 〜 による分割 T/〜 が得られることになるが、これで、上のギビンズによる引用で云われているような、物理的属性とテストの対応づけが可能になる。ひとつの属性には様々なテストが対応しているだろうが、個々のテストではなく、それらの同値クラスを考えることによって、一対一の対応づけが考えられる訳だ。以下では、テストはその同値クラスを代表しているものとする。また、T/〜 は順序関係 ≦ を謂わば受け継いでいるから、その T/〜 上の順序関係も同じ記号「≦」によって表わす。さらに、属性 P とそれに対応する述語「xP をもつ」を少々記号を濫用して共に「P 」で表わし、敢えてそれらを区別せずに扱うことにする。そこで、TPTQ をそれぞれ物理的属性 P および Q に対応するテスト、TP QPQ に対応するテストとすれば、TPTP Q かつ TQTP Q となるはずだから、TP Q は { TP , TQ } の上界であることになる。ところで、TPT かつ TQT となるようなテスト T は何れも { TP , TQ } の上界な訳だが、そうした T については恒に TP QT となるはずだから、TP Q は { TP , TQ } の上界全体の集合の最小要素つまり上限であることになる。同様に、PQ に対応するテスト TP Q は { TP , TQ } の下限になる。
 これは T/〜 が束であることを示しているように見えるが、それに対して、次のようなくだりが275から277ページ目にある。
 ・ ・ ・ パトナムはつぎのように主張する。
選言「PQ 」に対応するテストがともかくもあるならば(たとえ「理想化した」ものであっても)、それは TP かつ TQ にかんして最小上界となっている属性をもつはずである。
 こういって反対することもできよう。すなわち、選言「PQ 」に対応するテスト―― TP かつ TQ の最小上界――があると、つまりそのようなテストがあると規定しなければならないと主張するだけの独自の理由はわれわれにはないのであって、ヒルベルト空間フォーマリズムのみが原理的にはそのようなものがあることをわれわれに得心させるのだ。そのようなテストとは、P かつ Q に対応する部分空間によってスパンされた部分空間に状態ベクトルがあるような系のみがパスするようなテストである。この指摘は操作的定義をそのあるべき場所に置く。そこでは、操作的定義は結合子を定義することが可能であると考えられるべきではない。巨視的レベルでの量子論理的選言の意味がどんなものであるかを伝えることに、ある程度は役立つのだけれども。
 実際問題としては、操作的定義を実現するには問題が含まれている。それは、不両立な命題の連言と選言を「無意味」であるとして禁止すれば十分だと時折考えられていることである。例として連言の場合を取り上げる。連言「PQ 」――ただし P Q は不両立(とはいえおそらくはまったく不両立という訳ではない)――についてのテストは、P のテストをやったあとに続いて Q のテストとなることはできない。なぜなら、干渉する測定があるからである。事実、連言についてのテストは、「P 」と「Q 」についての無限につぎからつぎへと現れる一連のテストでなければならないが、そんなテストがほとんど「操作的」であることはできない。
 われわれがいかにして量子論理結合子が意味することを実際に学ぶのか、と問うてみるのは悪いアイデアではない。さらにわたくしは、結合子はその意味を量子力学のヒルベルト空間フォーマリズムとの関連から得るというべきだと思う。ヒルベルト空間それ自身は数学において定式化されるし、その論理は古典的ではあるが、操作主義が失敗するのは、一つには結合子を定義する諸操作が実現できないからであり、一つには諸定義が量子力学を前提とするからである。そこでわれわれはフォーマリズムの問題に連れ戻されるのであり、量子論理は古典論理に寄生しているのである。量子論理結合子の意味はヒルベルト空間フォーマリズムから導出されるのであって、回り道して他の方法から導出されるのではない。
 量子論理は部分的な修正をして受け入れることができるが、われわれの論理を一切改正することを余儀なくさせるわけではない、と考える「保存主義者」は、このアイデアに反対しないであろう。なぜなら、保存主義ならば量子論理が古典論理に依存しても、なにも恐くないからである。
 原文は次の通り。
  . . . Putnam asserts that
if there is any test at all (even ‘idealising’, as we have been) which corresponds to the disjunction PQ, it must have the property of being a least upper bound on TP and TQ.
  One might object that we have no independent reason to assert that there is a test corresponding to the disjunction ‘PQ ’ ―― the least upper bound of TP and TQ ―― that we must stipulate that there is such a test, and that only Hilbert space formalism assures us that, in principle , there is. It is the test that corresponds to passing just those systems whose state-vectors lie in the subspace spaned by the subspaces corresponding to P and Q. This points puts the operational definition in its place. It should not be thought capable of defining the connectives, though it goes some way to conveying what the significance of quantum logical disjunction on the macrolevel is.
  As a matter of fact, realizing the operational definition has its problems, problems that are sometimes thought sufficient to rule out as ‘meaningless’ conjunctions and disjunctions of incompatible propositions. Take the case of conjunction for example. A test for the conjunction P & Q where P and Q are incompatible (but perhaps not totally incompatible) cannot be a test for P followed by a test for Q since there are interfering measurements. In fact, the test for conjunction has to be an infinite alternating sequence of tests for P and Q which is hardly ‘operational’.
  It isn't a bad idea to ask how we actually learn what the quantum logical connectives mean. I think we should say that the connectives get their meanings from their connection with the Hilbert space formalism of quantum mechanics, itself formulated in a mathematics whose logic is classical. Operationism fails, partly because the operations which define the connectives cannot be realized, and partly because the difinitions presuppose quantum mechanics. So we are back with the formalism, and quantum logic is parasitic on classical logic. The meanings of the quantum logical connectives derive from the Hilbert space formalism and not the other way around.
  A ‘preservationist’, one who thinks that quqntum logic, though an acceptable local reformation, should not to be held to force an overall revision in our logic, should not to be averse to this idea. For then the dependence of quantum logic on classical logic poses no threat. (p.158f.)
 これは次のような意味だろう。
 ・ ・ ・ パトナムは次のように主張する。
選言 PQ に対応するテストが(仮令それが我々がそうしてきたように理想化されたものであろうと)とにかく存在するならば、それは TPTQ上限であるという属性をもつはずだ。
 次のように反論することができるだろう。選言「PQ 」に対応するテスト―― TPTQ の上限――が存在すると主張する独立した根拠を我々はもっておらず、そのようなテストの存在は約定される必要があり、ヒルベルト空間フォーマリズムだけが原理的にその存在を保証する。それは P Q に対応する部分空間によってスパンされる部分空間に属す状態ヴェクトルをもつ系をちょうどパスさせることに相当するテストだ。この指摘は、操作的定義に相応の持ち場を示している。操作的定義が巨視的レヴェルにおける量子論理的選言の意義を伝えることに或る程度は役立つにしても、それによって結合子を定義することが可能だと考るべきではない。
 実際、操作的定義の実現には問題がある。それは、時として、両立不能な命題の連言や選言を「無意味」として締め出すに足る理由とされることもある問題だ。連言の場合を例にとる。両立不能な(とはいえ全く両立不能という訳ではないかも知れない)P Q の連言 PQ に関するテストは、P に関するテストに続けて Q に関するテストをおこなうことではあり得ない。干渉的な測定が存在するからだ。事実、そうした連言に関するテストは、P および Q に関するテストの無限交替列でなければならないが、これはとても「操作的」とは云えない。
 量子論理的結合子の意味を我々は実際どうやって知るのか、と問うことはまんざら悪い思いつきではない。私は、結合子は、それ自体は古典論理に基く数学によって定式化される量子力学のヒルベルト空間フォーマリズムとの係わりから、その意味を得ていると云うべきだと思う。操作主義が破綻するのは、ひとつには結合子を定義する操作が実現できないからであり、ひとつにはそうした定義が量子力学を前提とするからだ。我々は当のフォーマリズムに逆戻りしている訳で、量子論理は古典論理に寄生的だ。量子論理的結合子の意味はヒルベルト空間フォーマリズムから派生しており、逆ではない。
 量子論理は受容可能な局所的改革ではあるが、それを我々の論理全体に亘る改訂を迫るものとすべきではないと考える「保存主義者」は、この考えに反対しないに違いない。そう考える場合、量子論理の古典論理への依存は少しも脅威とはならないからだ。
 これでもう結論は出たようなものなのだが、ギビンズは、さらに、量子力学の数学的フォーマリズムの古典論理への依存という事実に考えを及ぼしている。277から278ページ目にかけては次のようなくだりがある。
 量子力学の改革主義的量子論理解釈は、ヒルベルト空間フォーマリズムが古典的な論理をもつという事実のために破られるであろうと考えられるかもしれない。これに対して改革主義者は、フォーマリズムの道具主義的説明を力説するであろう。すなわち、フォーマリズムによってわれわれは量子系について推論し予言できるようになっているが、フォーマリズム――(それがどんなものであれ)その構成要素は数学という、量子論理的には妥当でない構成要素である――は世界のなにものにも対応しないのであり、それ自身、真でも偽でもない、と主張する。世界についての諸事実は、論理が量子的である言語―― ELQM ――で把握されるのである。
 道具主義 (instrumentarism) のこうした適用は他と同様に受け入れがたくはない。といって、まったくもってもっともだといっているのでもないが。量子論のフォーマリズムが「道具として」それほど便利なのはなぜか、と問うことができる。さらに、「道具」あるいは「ツール」のメタファーは本当に示唆的である、と付け加えることもできよう。すなわち、ある道具(たとえば工作機械)を効果的にするものはなにかと問えば、答えは精密機械、つまり極小の公差に機械化されたものなどなど、となる。しかし道具主義者はつぎのような問いに対して答えようがない。なぜ数学があてはまるのか? フォーマリズムについての実在論者はこう答える。数学の構造は、どんなに非直接的であっても、基礎となる物理的な諸事実の構造を反映しているのだ、と。これはまったく胸のすく解答ではないかもしれないが、道具主義的見解よりも支障は少ない。道具主義的見解に従えば、量子論の数学が成功するのはほとんど奇跡に近い。
 原文は次の通り。
  One might think that a revisionist quantum logical interpretaion of quantum mechanics would be vitiated by the fact that the Hilbert space formalism has a logic which is classical. Against this, the revisionist might urge an instrumentarist account of the formalism: namely, that the formalism enables us to make inferences about and predictions about quqntum systems, but that the formalism ―― those bits of it (if any) which are not quantum logically valid bits of mathematics ―― corresponds to nothing in the world, and itself is neither true nor false. The facts about the world are captured in a language ―― ELQM ―― whose logicis quantal.
  This application of instrumentarism is no more implausible than any other, which is not to say that it is at all plausible. One can ask why it is that the formalism of quantum theory, as ‘instrument’, is so useful. One might add that the metaphor of the ‘instrument’ or ‘tool’ really is suggestive: we do ask what makes a tool (say a machine tool) effective, and the answer is that it is an precision instrument, machined to very small tolerances, etc. The instrument has no answer to the question: why does the mathematics work? The realist about the formalism does: its structure reflects the structure of the underlying phisical facts, however indirectry. This may not be an entirely pleasing answer but it is less disturbing than the instrumentalist view, according to which the success of the mathematics of quantum theory is little short of miraculous. (p.159)
 これは次のような意味だろう。
 改訂派による量子力学の量子論理的解釈は、ヒルベルト空間フォーマリズムが古典論理に基くという事実によって台無しになるように思われるかも知れない。それに逆らって、改訂派は、件のフォーマリズムについての次のような道具主義的説明を押し出すかも知れない。ヒルベルト空間フォーマリズムは量子系について推論し予言することを可能にするが、その(在るとしても僅かな)量子論理的に妥当でない数学の部分は、世界の中の何ものにも対応しておらず、それ自体は真でも偽でもない。世界についての事実は、量子論理に基く言語―― ELQM ――に捕捉されている。
 この道具主義の応用は、他の場合と同様、受け容れられなくはないが、かといって、いかにももっともらしいという訳でもない。量子論のフォーマリズムが「道具」としてこれほど役立つのは何故か、と問うことができる。次のように付け加えられるかも知れない。「道具」や「ツール」という隠喩が実際に示唆するのは、何がひとつのツール(例えば工作機械)を有効にするのかということが問題なのであり、答は、それがごく小さな誤差内に加工された精巧な機械であることだ云々となる、というようなことだ。道具主義者は、量子力学の数学がうまくはたらくのは何故かという問いへの答をもち合わせていない。件のフォーマリズムについての実在論者はもっている。その構造が、いかに非直接的にであれ、基礎的な物理的事実の構造を反映しているからだ、というのがそれだ。これはすっかり満足のいく答ではないかも知れないが、道具主義的見解よりは穏当だ。道具主義に従えば、量子論の数学の成功はほとんど奇蹟的だ。
 続けてギビンズは云う。改訂派は、量子論理に基く数学がどんなものになりそうか、殊にそれをもとに量子力学が再構成可能かどうかを問うべきだろう、と。そして、彼は、そうした仕事は、量子論理的数学の圧倒的な複雑さもあって、ほとんどなされていないが、見るべきものがない訳ではないとして、ふたつの成果にごく簡単に触れている。ひとつはマイケル・ダン(Dunn, J.M., Quantum Mathematics, Philosophy of Science Association (of America), 2, 512-31, (1980))によるもので、量子論理に適当な算術の公理を付加して得られる系は分配的になるという。もうひとつは竹内外史(Takeuti, G., Quantum set theory, Current Issues in Quantum Logic, Beltrametti, E.G. and van Fraassen, B.C. (eds.) Plenum Press, New York, 1981, 302-22)によるもので、量子論理的集合論は非外延的だという。(外延性――集合の同一性はその要素によって規定されること――は集合という概念の要であり、通常の公理論的集合論は、それを公理としてもっている。外延性を欠いたものをそもそも「集合論」と呼べるのか? ギビンズもそれを「「集合」論として認め得るようなものとは似ても似つかない」と云っている。)

 いよいよ大団円だ。279から280ページ目にかけては次のようなくだりがある。

 もっと実証的になるべきときがきた。・ ・ ・ わたくしが論ずるところでは、量子論理はわれわれの量子系の記述に対する論理を中間レベルで提供するものである。
 基礎論理が量子論理的である言語―― ELQM ――は下位レベルの言語、つまりきめ細かい言語ではない。ELQM は非表現的な言語である。それは確率を許さない。・ ・ ・
 ELQM と量子論理をもちいてある系を記述することは、上位レベルのコンピュータ・プログラムの言語を用いることにどこか似ている。この言語を用いると、コンピュータ・マシンの下位レベルの操作のいくつかは眼に入ってこない。しかしそのマシンの新しい見方が獲得される。同様に、量子論理は量子系を上位レベルで記述する論理なのである。
 このようにみると、量子論理はパラドクスを解決しうるのか? 量子力学の個別系解釈と結びつけて考えると、量子論理に可能なのは、せいぜい量子論理的静寂主義の支持である。これは驚くに値しない。なぜなら、静寂主義は量子力学そのものの構造をじかに反映しているからである。量子力学にとって、つまりフォーマリズムとしては、二つのスリットの実験のパラドクスは存在しない。ただ二つのスリットの実験があるだけである。同様に、量子論理学者にとって量子論理はパラドクスを解決しない。量子論理はパラドクスが定式化されることを禁ずるのである。すなわち、パラドクスを生み出す条件つき確率は、量子論理上、重要な仕方において定義できないのである。
 原文は次の通り。
  It is time to be more positive. . . . Quantum logic, I argue, provides the logic for our description of quantum systems at an intermediate level.
  The language whose underlying logic is quantum logic ―― ELQM ―― is not a low-level or fine-grained language. It is an inexpressive language. It does not admit probabilities. . . .
  To describe a system using ELQM and quantum logic is somewhat like using a high-level computer programming language. One loses sight of some of the low-level operations of the underlying machine. But one acquires a new way of looking at the machine. Similarly quantum logic is the logic of our high-level descriptions of quantum system.
  Can quantum logic, viewed thus, resolve the paradoxes?
  I calim that coupled with an individual system interpretation of quantum mechanics it can at best sustain quantum logical quietism. One should not be surprised at this, since it reflects so intimately the structure of quantum mechanics itself. For quantum mechanics, as formalism, there is no paradox of the two-slit experiment. There is only the two-slit experiment. Similarly, for the quantum logician, quantum logic does not resolve the paradox, it prevents its being formulated: the conditional probabilities which get paradox going are not definable in a nontrivial way on a quantum logic. (p.160f.)
 これは次のような意味だろう。
 もっと積極的になるべき時が来た。・ ・ ・ 私は主張する。量子論理は量子系の中間的水準における記述のための論理を提供する、と。
 量子論理に基く件の言語―― ELQM ――は低水準言語でもなければきめの細かい言語でもない。それは表現力に乏しい言語だ。それは確率を容れない。・ ・ ・
 ELQM と量子論理を用いてひとつの系を記述することは、コンピュータ・プログラミングにおける高水準言語の使用に、いくらか似ている。そうしたプログラミングでは、基底にある機械の低水準の作動の一部は見失われるが、その機械についての新しい見方が得られる。同様に、量子論理は量子系の高水準記述の論理だ。
 このように見られた量子論理は、パラドクスを解くことができるか?
 私は、量子力学の個別系解釈と組み合わされた量子論理には量子論理的静寂主義を支えるのが関の山だ、と云いたい。量子論理は量子力学そのものの構造を奥底から反映しているのだから、これは別に意外なことではないだろう。フォーマリズムとしての量子力学にとっては、複スリット実験のパラドクスは存在せず、複スリット実験だけが存在する。同様に、量子論理学者にとっては、量子論理は、件のパラドクスを解くのでなく、それが定式化されるのを阻む。件のパラドクスを発動させる条件つき確率は、量子論理においては、トリヴィアルでないような仕方では定義可能ではない。
 ギビンズは、こうした量子論理の効能として、三つの例を挙げている。ひとつめはベルの不等式に関わるもので、件の不等式は量子論理においては導出不能だという。彼はそれを、第八章のものとは別の形の不等式を採って説明している。
 前と同じく、ふたつのスピン 1/2 の系 I と II からなる結合系 I + II がシングレット状態にあるとして、今度は、互いに異なり正反関係にもない三つの方向 abc を考える。 I と II は、どの方向についてもスピンが反対向きになるように相関している訳だから、局所的隠れた変数によってそれらのスピンが定まるとすれば、例えば、I の abc 方向についてのスピンが凡て上向きならば、II の abc 方向についてのスピンは凡て下向きということになる。そうしたスピンの組み合わせを「(+, +, +; -, -, -)」等々と表わすことにすれば、考えられる組み合わせは、次の八通りに限られる。

(+, +, +; -, -, -), (+, +, -; -, -, +), (+, -, +; -, +, -), (+, -, -; -, +, +)
(-, -, -; +, +, +), (-, -, +; +, +, -), (-, +, -; +, -, +), (-, +, +; +, -, -)

そこで、そうしたシングレット状態にある相関系からなる有限アンサンブルを考えて、そのアンサンブルの要素のうちでスピンの組み合わせ (+, +, +; -, -, -) をもつものの数を「num(+, +, +; -, -, -)」と表わす等々として、さらに、或る方向についてスピンの向きを問わないことを「?」によって表わすことにすれば、次が成り立つと考えられる。

num(?, -, +; ?, +, -) = num(+, -, +; -, +, -) + num(-, -, +; +, +, -)   [1]
num(+, ?, +; -, ?, -) = num(+, +, +; -, -, -) + num(+, -, +; -, +, -)   [2]
num(+, +, ?; -, -, ?) = num(+, +, +; -, -, -) + num(+, +, -; -, -, +)   [3]

すると、[1] と [3] から

num(?, -, +; ?, +, -) + num(+, +, ?; -, -, ?)
= num(+, -, +; -, +, -) + num(-, -, +; +, +, -) + num(+, +, +; -, -, -) + num(+, +, -; -, -, +)

よって、[2] から

num(?, -, +; ?, +, -) + num(+, +, ?; -, -, ?)
= num(+, ?, +; -, ?, -) + num(-, -, +; +, +, -) + num(+, +, -; -, -, +)

したがって、次が得られる。

num(?, -, +; ?, +, -) + num(+, +, ?; -, -, ?) ≧ num(+, ?, +; -, ?, -)   [BELL-2]

(これを確率の言葉に翻訳すれば「ベル‐ウィグナーの不等式」と呼ばれることもある不等式のひとつが得られる。)
 それに対してギビンズは次のように主張する。[1]、[2]、[3] が成り立つとすることは、三つの文 pqr について

(pq ) ∧ (r ∨ ¬r ) ⇔ ((pq ) ∧ r ) ∨ ((pq ) ∧ ¬r )

が成り立つという暗黙の前提に基いている。ところが、量子論理においては

(pq ) ∧ (r ∨ ¬r ) ⇒ ((pq ) ∧ r ) ∨ ((pq ) ∧ ¬r )

は妥当ではない。よって、件の三つの等式は成り立たず、[BELL-2] は得られない。
 これは、しかし、複スリット実験のパラドクスを退けるパトナムの論法を憶わせ、疑念を呼び起こす。上の条件文は本当に成り立たないのか?
 例えば、p を相関系 I + II が a 方向についてスピンの組み合わせ (+; -) をもつことを表わす文、q を I + II が b 方向について (+; -) をもつことを表わす文、r を I + II が c 方向について (+; -) をもつことを表わす文、r ' を I + II が c 方向について (-; +) をもつことを表わす文とすれば、I + II の c 方向についてのスピンを問わないことを表わす文としては、r ∨ ¬r ではなく、rr ' を採るべきだろうから、[3] のに対応する問題の条件文は

(pq ) ∧ (rr ' ) ⇒ ((pq ) ∧ r ) ∨ ((pq ) ∧ r ' )

となる。すると、pq には、テンソル積ヒルベルト空間 C2 tensor-product C2 の一次元部分空間がそれぞれ対応するが、それらを 〔|a, +>|a, ->〕 と 〔|b, +>|b, ->〕とすれば、pq には 〔|a, +>|a, ->〕∩〔|b, +>|b, ->〕 が対応し、これはゼロヴェクトルだけからなる部分空間 0 に等しいから、(pq ) ∧ (rr ' ) に対応するのも 0 であり、したがって、件の条件文そのものには C2 tensor-product C2 が対応することになる。(ちなみに、rr ' に対応する一次元部分空間をそれぞれ 〔|c, +>|c, ->〕 および 〔|c, ->|c, +>〕 とすれば、rr ' には 〔|c, +>|c, ->〕 と 〔|c, ->|c, +>〕 のスパン 〔|c, +>|c, ->〕span〔|c, ->|c, +>〕 が対応する。なお、(pq ) ∧ r と (pq ) ∧ r ' には 0 が対応するから、((pq ) ∧ r ) ∨ ((pq ) ∧ r ' ) に対応するのも 0 だ。)これは、問題の文が量子論理的に真であることを意味しており、他のスピンの組み合わせについても事情は同様だから、案の定ギビンズの主張は成り立たない訳だ。ところで、複スリット実験のケースでは、パラドクスの定式化は別に「量子系の高水準記述の論理」としての量子論理によって阻まれる訳ではなく、ことはヒルベルト空間 H の部分空間全体のなす束 L(H) 上の確率測度が非古典論的である点に関わっている。ベルの不等式がらみのパラドクシカルな事態もまた、その点に関わると云うべきだろう。
 第二の例は、混合状態の無知解釈についてのもので、この解釈に対して第三章で指摘されていた問題は、量子論理を採れば解消するという。その問題とは、件の解釈を採ると、密度作用素を用いるフォーマリズムからの帰結として、電子はどんな方向についても上向きか下向きかのスピンをもつとしなければならなくなる、というものだった。ところが、x + を電子が x 方向について上向きのスピンをもつことを表わす文、x - を電子が x 方向について下向きのスピンをもつことを表わす文 として、x とは別の方向 d についても同様の文 d +d - を考えれば、量子論理においては、x +x -d +d - も真であり、よって、(x +x -) ∧ (d +d -) も真だが、これを分配的に展開して得られる文は偽となる。したがって、問題は解消された、という訳だ。(この場合、x +x - には C2 の互いに直交する一次元部分空間が対応するが、それらのスパンは C2 に等しいから、x +x - には C2 が対応することになる。d +d - についても同様であり、また、C2 とそれ自身の共通部分はもちろん C2 だから、(x +x -) ∧ (d +d -) に対応するのも C2 だ。これは、件の三つの文が凡て量子論理的に真であることを意味している。(なお、x +d + 等もまた真だから、(x +d +) ∧ (x +d -) 等も真だ。)一方、x +d + 等は何れもゼロヴェクトルだけからなる部分空間に対応し偽だから、(x +d +) ∨ (x +d -) ∨ (x -d +) ∨ (x -d -) も偽だ。)
 これは、しかし、位置と運動量に関する先のパトナムの論法の焼き直しであり、パトナムの実在論を「名ばかり」と云うのならば、こうして救われるかに見える混合状態の無知解釈もまた、名ばかりのものでしかないだろう。
 第三の例は、趣が違っていて、或る種の射影公準に関わる。リューダースの規則によれば、系 S がヒルベルト空間 H 上の密度作用素 D によって表わされる状態にある場合、S のオブザーヴァブル O の値が一次元ボレル集合 Δ に収まるか否かを調べる理想的測定は、{ P (Δ ) }ΔBO を表わす自己随伴作用素に対応するスペクトル測度とすれば、S の状態を trace(DP (Δ )) に等しい確率で (1/trace(DP (Δ )))P (Δ )DP (Δ ) によって表わされるものに変える訳だが、これは、DH の一次元部分空間を値域とする射影作用素の場合には、S の状態が件の一次元部分空間に属す単位ヴェクトル v によって表わされるものから (1/||P (Δ )v || )P (Δ )v によって表わされるものへと ||P (Δ )v ||2 に等しい確率で変わる、ということと同等だ。ところで、一般に、wS の状態を表わすヴェクトルとすれば、H の単位ヴェクトル u は、絶対値が 1 の複素数 λ が在って λu = w となる場合かつその場合に限り、w と同一の状態を表わす。したがって、S の状態ヴェクトルが v から (1/||P (Δ )v || )P (Δ )v に替わった場合、P (Δ ) の値域 ranP (Δ ) の次元が 1 ならば、ranP (Δ ) に属す単位ヴェクトルは何れも (1/||P (Δ )v ||)P (Δ )v と同じ状態を表わすが、ranP (Δ ) の次元が 1 より大きいとそうはいかなくなる。(ちなみに、(1/||P (Δ )v ||)P (Δ )v は ranP (Δ ) に属すヴェクトルのなかで(ノルム || || によって定まる「距離」に関して)v に最も近いヴェクトルを規格化したものとなっている。)
 ギビンズは、この状態ヴェクトルの射影に関わるリューダースの規則に応じた事態が、量子論理的に妥当な条件文によって表わせる、と云う。
 〔v 〕 を v が属す一次元部分空間、〔P (Δ )v 〕 を (1/||P (Δ )v ||)P (Δ )v が属す一次元部分空間、P(Δ ) を ranP (Δ ) の直交補空間 (ranP (Δ ))を値域とする射影作用素とすれば、v = P (Δ )v + P(Δ )v から 〔vspan (ranP (Δ )) = 〔P (Δ )vspan (ranP (Δ ))、よって、〔P (Δ )v 〕 = ranP (Δ ) ∩ (〔vspan (ranP (Δ ))) となるから、aS の状態ヴェクトルが v であることに対応するような適当なことがらを表わす文、bO の値が Δ に収まることを表わす文とすれば、a には 〔v 〕 が対応し、b には ranP (Δ ) が、¬b には (ranP (Δ ))が、b ∧ (a ∨ ¬b ) には 〔P (Δ )v 〕 が対応する。(ranP (Δ ) に属す単位ヴェクトルで (1/||PopO(Δ )v ||)PopO(Δ )v と同じ状態を表わすのは 〔P (Δ )v 〕 に属すものだけだ。)したがって、件の事態は a ⇒ (b ⇒ (b ∧ (a ∨ ¬b ))) によって表わせることになるが、この形の文は NDQL によって証明可能だ、というのがギビンズの主張だ。(ここではその証明は省くことにする。)
 この条件文を、ギビンズは、「極小攪乱的な測定のあとの状況がどうなるかを告げる反事実的条件文だ」と云っているが、それは、量子論理的条件法が反事実的条件法に似ているということに関わっている。(例えば、英語には、実際にはそうでないがもしかくかくならばきっとしかじかだろう、というようなことを簡潔に表現できる仮定法過去という形式が在るが、そして日本語にはそんなお手軽な形式は見あたらない訳だが、ともあれ、そうした事実でないことがらを敢えて仮定しその帰結を推量するような表現を「反事実的条件法」と云う。)反事実的条件法は、そもそも現実には真でないことがらを前提とするため、真理関数的には扱えないが、その分析には、いわゆる可能世界意味論が利用され、成果があがっている。それに照らしてみれば、量子論理的条件法と反事実的条件法のはたらきには形式的に一致する部分が多い、というのが、ここでの「似ている」の意味だ。(例えば、反事実的条件法に関しては、⊃ をその結合子とすれば、φψ が成り立っても φ ⊃ ( χψ ) が成り立つとは限らず、φψψχ が成り立っても φχ が成り立つとは限らないが、量子論理においても、φψ が真でも φ ⇒ ( χ ψ ) が真であるとは限らず、φψψχ が真でも φχ が真であるとは限らない。)
 これは、しかし、射影が何故あるのかの説明ではもちろんない訳で、ギビンズも「射影があれば、そしてそれが極小攪乱的ならば、それは適切にはたらく量子論理的条件文によって適切に記述される、ということに過ぎない」と付け加えている。それに続いて、288ページ目には次のようなくだりがある。
 したがって、量子論理は量子論理の静寂主義を歓迎する。それはたいていは安直に保存主義と結びつけて考えられている。しかし静寂主義は、微視的世界と巨視的世界との「切れ目」というかたちで未解決なままの測定問題をわれわれに残している。こう述べる以外には、この問題を記述する方法はない。すなわち、世界は非常に複雑である、世界にはたくさんのレベルがある、生き物は量子論理よりも大きい(いくつかの点で古典論理よりも小さいが)。これ以外に答えはない。
 最後にもう一つ。もっと通例の量子力学の諸解釈のうち、静寂主義による量子論理の保存主義は、その精神においてボーアのコペンハーゲン主義にもっとも近い。あるいは少なくとも、どの程度までわれわれが世界を記述し説明することができるかという限界を探求する部分のコペンハーゲン主義にもっとも近い。われわれが量子論から学べることはこうである。古典時代に考えていたように、かくもきちんと秩序だった世界の在り方を捉える手段を、人間という動物としてのわれわれが所有していると考えてきたことが、いかに虚しいものに違いなかったか。
 原文は次の通り。
  So quantum logic welcomes quantum logical quietism. It is mostly easily coupled to preservationism. But that leaves us with the unresolved problem of measurement in the form of the ‘cut’ between micro- and macroworlds. There is no way of papering over this, except to say that the world is very complicated, that it has many levels, that life is larger than quantum logic (though smaller in some respects than classical logic). Which is no answer at all.
  Finally, of all the more conventional interpretations of quantum mechanics, quietist quantum logical preservationism is closest in spirit to Bohr's Copenhagenism, or at least to that part of it which seeks to limit haw far we can describe and explain the world. What we learn from quantum theory is how vain we, as human animals, must have been to think, as we did in the classical period, that we possessed the resources to capture the way the world is so neatly and tidily. (p.165)
 これは次のような意味だろう。
 そんな訳で、量子論理は量子論理的静寂主義を甘受する。それはとかく保存主義に結びつきやすい。しかし、そうなると、微視的世界と巨視的世界の「切断」という形で測定問題が未解決のまま残る。それを取り繕うには、世界は非常に複雑だとか、世界は多くのレヴェルをもつとか、量子論理は我々の身の丈に足りない(一方、古典論理には我々には大きすぎる面がある)とか云う以外にないが、これは答になっていない。
 結局、静寂主義的な量子論理的保存主義は、より慣例的な量子力学の解釈のうちでは、ボーアのコペンハーゲン主義、というか少なくともその重要な一面、我々が世界を記述し説明することの限界を劃定しようとする面に、性向において最も近い。我々が量子論から知るのはこういうことだ。古典論的時代において、我々は、世界の在り方を極めて整然と捉える力を自分達がもっていると思っていた訳だが、人間という動物である我々がそのように考えることが、いかに己惚れだったか。
 これがこの最終章の結びなのだが、そのあとに短いエピローグが附いていて、ギビンズは、そこでもまたプログラミング言語の比喩を持ち出して、云っている。量子論理は量子力学のフォーマリズムと物理的世界のディテールを共に見えなくし、量子的世界についてのトップダウン的な見方を助長するが、物理学の現場における量子力学はボトムアップ的だ云々。293から294ページ目にかけては次のようなくだりがある。
 実在論についてのわれわれのメタ・レベルの議論へと量子論理をフィードバックさせるプログラムは失敗する。量子論理は量子力学的実在論を許さない。実在論ではボトムアップの観方を統制したり書き換えることはできない。ちょうど量子力学それ自身がもっとも自然には反実在論的に解釈されているように、量子論理がもっとも自然には量子力学的反実在論を表すものと考えられている点で、そのプログラムそのものが奇妙である。・ ・ ・
 量子論理的解釈においてさえ、量子世界は夢のようなものでありつづける。事実、字義どおりそうなっている。わたくしの夜想の住民は、わたくしの夢の出来事以外の事象を体験するはずがない。かれらには身長も体重も、あるいは誕生日もない。人は自分の夢について反実在論者である。同様に、量子系は自分の諸属性について真偽に欠ける。多くの「P 」について、「P 」でも「¬P 」でもない、が真である。量子論理は、もっとも成功したわれわれの物理理論において実在論が失敗するという夢のような構造を反映しているのである。
 しかし量子論理は論理である。一方で世界の実在的論理としての量子論理と、他方で単に論理と似た代数体系としての量子論理という通常の対比を描いてはあまりに粗雑すぎる。量子論理は世界についてのわれわれの語りのうちの、ある重要な断片の論理である。それはちょうど、(ひょっとするとさらに論争的でさえあるかもしれないが)ある様相論理が必然性についてのわれわれの語りの論理となっているようにである。
 原文は次の通り。
  The program of feeding back quantum logic into our metalevel discussion of realism fails. Quantum logic does not licence quantum-mechanical realism. It cannot override or rewrite the bottom-up view. The program itself is odd in that quantum logic is mosy naturally thought of as expressing quantum-mechanical antirealism, just as quantum mechanics itself is most naturally interpreted antirealistically. . . .
  Even in a quantum logical interpretation, the quantum world remains like a dream. In fact, literally so. The denizens of my nightly dreams have no biographies in my dreams, other than the events of my dreams. They have no height, weight, or birthday. One is antirealist about one's dreams. Similarly quantum systems lack truth about thier properties. For many Ps, neither P nor -P is true. Quantum logic reflects the structure of this dreamlike failure of realism.
  But quantum logic is a logic. The usual contrast between quantum logic as, on the one hand, the real logic of the world, and on the other, as a merely logic-like algebraic system, is too coarsely drawn. Quantum logic is the logic of a certain important fragment of our talk about the world, just as (perhaps even more controversially) some modal logic is the logic of talk about necessity. (p.166f.)
 これは次のような意味だろう。
 量子論理を実在論に関わるメタレヴェルの議論にフィードバックさせるプログラムは破綻する。量子論理は量子力学的実在論を認めない。それはボトムアップ的な見方を覆すことも書き換えることもできない。量子力学そのものが極めて自然に反実在論的に解釈されるのと同様、量子論理は極めて自然に量子力学的反実在論を表現していると考えられるので、件のプログラムそのものが奇妙だ。・ ・ ・
 量子論理的解釈においても、量子世界は依然として夢のようなものだ。実際、文字通りにそうだ。私の夜毎の夢の住民は、私の夢の中の出来事以外の個人史をもたない。彼等には身長も体重も誕生日もない。ひとは自分の夢について反実在論者だ。同様に、量子系はその属性に関する真理を欠いている。多くの P については P も ¬P も真でない。量子論理は、この実在論の夢のような破綻の構造を反映している。
 それでも量子論理は論理だ。世界の本当の論理としての量子論理と論理に似た代数系としての量子論理というお決まりの対比は粗雑に過ぎる。量子論理は世界に関する我々の語りの或る重要なフラグメントの論理だ。それは(さらに議論を招くかも知れないが)何らかの様相論理が必然性に関する我々の語りの論理であるのと同断だ。
 ギビンズは、プログラミング言語や様相論理を引き合いに出すことで、量子論理は論理だというテーゼを何とかもっともらしく見せようとしているようだ。しかし、先に指摘しておいたように、複スリット実験のパラドクスの定式化は別に「量子系の高水準記述の論理」としての量子論理によって阻まれる訳ではないし、また、ベルの不等式が量子論理においては導出できないというのは誤りだった訳で、そうなると、もはや量子論理には「量子論理的静寂主義」を支えることさえ叶わない。これでは、件のテーゼをいくら訴えてみても、虚しく響くだけだろう。
 ところで、ギビンズはプロローグで次のようなことを云っている。
量子力学の哲学は、量子力学が正しいとすれば世界はどんな在り方をしているのか、という問題を扱う。この問いに答えつつ、量子力学を理解可能にできたならば、それはすばらしいことだろうし、哲学者たちは、自分たちに何やらそうしたことが遣り遂げられるものと思いがちだ。
 哲学者たちは、往々にして、彼等の知的な依怙地さに鼓舞された別の動機をもっている。量子力学はとかく反実在論的に、つまり、うまくはたらきはしても世界の在り方を記述してはいないものと解釈されやすい。そこで、哲学者たちは敢えてそれを実在論的に解釈する訳だ。量子力学の哲学において実在論が意味するのは、量子系は本当に古典論的粒子のようなものだとする考え方のことだ。
また、第一章の終わりで、彼は、「物理学の哲学者は、物理学者がつくりだす世界の表象の論理的分析と再構成を通して、物理理論の正体を明らかにすべきである」とする考えを「理論主義者の理想」と呼び、次のように云っている。
この本は、それ自体は立派で擁護可能なものではある理論主義者の理想、その理想の追求のひとつの破綻と私が考えていることがらに関わる。理論主義そのものは擁護可能だというのがこの本のサブテーマのひとつだ。しかし、量子力学は論理学者の宥めに抗う。論理学には量子力学を飼い馴らすことなど叶わない。
しかし、「実在論」をギビンズのように狭く規定せず、理論主義者の理想とやらを考えなおしてみることもできるだろう。
 改訂派は、論理の改訂を主張する点では急進的だったものの、それによって可能な限り古典論的粒子実在論を保存しようとする点では全く保守的だった。一方、静寂派は実在に関しては黙して語らない。だが、論理を変更すれば、実在概念やそれに関わる一連の概念もまた無傷で残る訳にはいかなくなるはずで、実際、パトナムの主張は、属性概念の変更を伴なっていた。パトナムとは逆の方向、つまり古典論的実在論に固執しない方向には、未だ何らかの可能性が残っているに違いない。
 憶えば、そもそも量子力学そのものが、その誕生の時からずっと、実在に関わる概念の改訂を人々に迫り続けてきたとも云える。(ボーアの相補性の形而上学は、それに対する最初の、或る程度まとまった――しかし、いかにも不十分で不明瞭な及び腰の――応答だった訳だ。)ELQM の論理としての量子論理を支持するか否かに係わらず、そして、実在論に立つか反実在論に立つかに係わらず、量子力学の哲学者の第一の仕事は、そうした概念の更新に向かう道を探ることなのではなかろうか。

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 さて、ひどい翻訳をあげつらいながら、量子力学の哲学へのちょっとした――しかし数学的煩雑さを厭わない――案内を試みてきた訳だが、如何だったか知らん。最後に、ブックガイドを兼ねて、種本をいくつか明かしておこう。
 ヒルベルト空間フォーマリズムについては主に次を参考にした。 ただし元祖フォン・ノイマンの本は翻訳が拙くて推奨はしかねる。(ちなみに、その原著は J. von Neumann, Mathematische Grundlagen der Quantenmechanik (Springer Verlag, 1932)。英訳 Mathematical Foundations of Quantum Mechanics (Princeton University Press, 1955) もある。)
 量子力学の哲学に関しては主に次を参考にした。 ただしレッドヘッドの本は翻訳が拙くて推奨はしかねる。(ちなみに、その原著は M. Redhead, Incompleteness, Nonlocality, and Realism (Oxford University Press, 1987)。)
 論理学関連については主に次を参考にした。


2005年初夏  大熊康彦



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