2002_12月日記

last-modified: 2015/05/14 10:01:36. JST

2002年12月1日(日)

張本人。 いや、「チャンホンレン」という名前の中国人がいてもおかしくないな、と思っただけですが。

延々持論を展開しておきながら「結論は書かないことにする。結論は各自で考えてください」とする文章が、私は嫌いだ。 筆者がどのように考えているのかを、数ある意見の内の一つとして、私は知りたいと思う。 筆者が結論だけポンと書いたところでそれを信用するわけがない。 結論に至る過程を含めた上で理解しようとし、納得に足るならば信用しようとするだろう。

「結論は書かないことにする」ということは、「自分が結論を書くと無批判に信頼されることがある」と思っているということですな。 そういう読み方をする人/される人というのはそんなに多いもんなんですかね。

「結論を各自で考えることこそが唯一の解だ」と結論づけるのならば構わないのかもしれない。

バイクの整備にショップに行く。 車検を通したのが8月なので、3ヶ月も不調のまま放ったらかしだったということになる。 しかし流石はプロです。 速いし確実だし。 一度オーバーホールしてもらっても良いかもしれない。

その店で、タンクバッグ(4800円)と車体カバー(8800円)を購入。 車体カバーなんて2000円くらいだろうと思っていたのだが、思ったより高かった。 前の車体カバーはバイクを買った時に同時に購入し半年くらいで盗まれたのだが、まあ盗まれる対象となるくらいには高価なものだったんだなあ、と思った。

その足で寺町。 BKi810 はじゃんパラでも売れず。 てゆーか、私がいじっている間にガンガン不調になっていったので、拾った直後に持って行ったら大丈夫だったのかもしれん。 Pentirum!!! 666MHz は 3800円。 BKi810 関係の収支は -5000円くらいかな。

MicroATX ということだけ決めて、ボチボチ眺めながら決める。 まあそんなに躍起になって消費電力を抑えることもあるまいて。 C3 に比べればドングリの背くらべだろう。 結局、Celeron 1.7GHz, DDR 512MB, SiS645 といった感じになった。 42000円。

箱と、マザーなどでパンパンに膨れ上がったデイバッグを持って本屋。 防衛漫玉日記、幽玄漫玉日記、少女ネム(増補版)。 計5冊で 5000円。 エロゲとエロまんがで購入予定物はあったのだが、精神的体力がついてこなかった。

バイク、明らかに過積載。

寮で湯豆腐食ったあと、帰って組む。 てゆーか、win2k って、HDD そのまま付け替えても動かんねんな。 入れ直すか、と部屋を見渡すが見あたらない。 しょうがない、明日だ。


2002年12月2日(月)

1:00に寝るが2:30に目が覚めてしまう。 まあ、昨日あんだけ寝てたらな。

高校の野球部時代に受けた怪我が原因で、右の視界の中央が針の穴程度に欠けている。 「網膜がやばいことになっている可能性がある。 今は良くても歳取ってからボロボロと剥れていく可能性もある」 とたまたま話をした友人に言われたのは、7月くらい。 ということで今日漸く大学の保健センターの眼科に行って来た。 ダメージがあるのはどうやら網膜ではなく視神経の方で、怪我してから8年も経ってるし(欠けている視界も小さいし)今さら治すメリットは殆どない、ということらしい。 私としては今後悪化しないならばそれで良い。

眼科で検査のために瞳孔を広げる薬を点眼される。 検査の後3時間ほどそのままだった。 鏡を見たら右目の瞳孔が広がりきっていて気持ち悪い。 また、絞りが広がるために世界が眩しい。 そして滲む。

生協で win2k を買ってくる。 「アップグレード版」とある。 アップグレードの対象となるのは MS社の windows の他、MacOS, Linux など他社製 OS。 要は、「乗り替え版」と一緒になっているわけだ。 初めて PC を買う人や MS-DOS 以来初めて OS を新調する人には適用されないことになるが、win2k はアップグレード版しか置いてない。 まあそんな杓子定規にはやってないのだろうが。 てゆーか、これだったらほぼ全てのユーザが対象になるので、「通常版」と呼んでも良い気がする。

CDケースを買おうと思っていたのだが、生協には半透明のケースしかなかった。 CD-R も入れるので、光をバッチリ遮断してくれる黒ケースが欲しい。 生協はどうも、望みに完全に合致する商品がないことが多い。


2002年12月3日(火)

CD-R の 50枚カートンを買った。 いつも買ってる太陽誘電のがなかったけど、日本メーカーのだったら大差なかろうと思って SONY のを買った。 10枚ずつ別の色で、赤、黄、青、紫、そしてダークグレイ。 ダークグレイのディスクを見たとき、不覚にも「格好良い」と思ってしまった。 実際使う段になると、マジックで書いた文字が読みづらい。 格好良いけど使いづらい、いかにも SONY な製品だな、と思った。

作業内容を書いた文書を貰い、それを参考に計算プログラムのアップグレードをすることになった。 その文書がメールの内容なんかをそのまま書いてあるので読み難くてしょうがない。 で、自分で読み易く編集してメモを入れながら作業しようとエディタで開いてみたら……そのソースの汚いこと! うわあ、と思っていると、横から「エディタで開くと余計汚いんちゃうか?」 それは書いた貴方が悪いと思います。


2002年12月4日(水)

研究で使うプログラムの原理部分が難しくて理解できない。 時間が沢山あるならばこの辺の数学は面白そうではあるのだが。

400万年前に人類が 1人誕生したと考える。 400万年かけてそれが 60億倍に増えた、ということは、ざっと40万年で10倍、10万年で2倍弱。 しかし現在の人口増加は年率1%としても 2倍になるのに 70年。 要は、人類の歴史の最初の方(というより有史以前)は、人類は動物の一種として自然に総数を調節され、「増加する」のではなく、「一定数に保たれる」傾向にあったと考えられる。

日本のように、ある程度文明が進んで「人が死ににくくなった」国で出生率が下がる傾向にあるというのは興味深い現象だと思うのだが。


2002年12月5日(木)

vi 系エディタも良いなあ。 メールを書く、掲示板を書くといった単発作業は vi でできた方が便利そうだ。 「どちらかを使う」のではなく、両方覚えてしまうのが実は最適解かも。

こないだ手伝ってもらったお礼として、北大路の李白という中華料理屋でオゴる。 少々高いが良い店を教えてもらった。

購入物:藤子・F・不二雄 SF短編全集(2)(4)、G線上ヘヴンズドア(1)、はじめの一歩(48)(49)、乙女心、幽玄漫玉日記(5)(6)、SWORD BREAKER(1)。

SWORD BREAKER は迷うところだったが、こんなゴミマンガが週刊誌に載ることは一つの奇跡だと考え、新本で買うことにする。 読む。やはり、期待に違わぬダメ漫画だった。


2002年12月6日(金)

落ち込む。 自分の至らなさに。

甲の記事へのリプライを返したやり方の拙さ、乙に対する態度、それと研究室のタスクに対する姿勢の3点。 自分の至らなさにたまらなくなった。 でもとりあえず今日は金曜日なんだし、今日一日学校行って、それからひきこもろうと。

つらい。 自分の至らなさに。 研究はそれなりに進み得る状況。 コンピュータのオペレータに徹して淡々と作業をすすめるのはそれなりに楽しく、つらい自分を忘れるのにそれなりに適している。

自分の感情が変動するのを楽しむ傾向にある。 怒るのもなんだか、思い返してみると結局怒っている状態を楽しんでいるように思える。 落ち込んでいるのも平常よりも楽しいのかもしれない。

愉しくはない。 耐えられない。 酒。 飲む。

誰かと酒をのみたい。 というより酔っぱらいたい。 てゆーか既に酔っぱらっているのだけれど。 寮に行って誰かと酒飲み話をしたくなったが、面倒なのでやめた。 下宿で一人、酔う。 とりあえず溺れてしまいたい。


2002年12月7日(土)

行動の理由を自分でも忘れてしまう。 いざ説明する段になって説明しきれておらず、後から後悔する。

私はまき氏の文言にカチンときてしまったが、これを指摘することは議論の本筋ではないと考えた。 「関係の薄い情報を隠すことによって利便を図ろうとした」こともメールで返した理由の一つ。 まき氏はこれが議論の本筋に関係していると考えたか、あるいは「隠さずにいることで利便を図ろうとした」のだろう。

今後同じ状況になっても、同様にメールでリプライを返し、それはメールで返されるべきだと考えるだろう。 だけど彼が考えているところが(納得はできないが)分かったので、これで良しとする。

そういうことで自分の拙いところを突き詰めていく。 とりあえず、メールで返すというやり方が拙かったわけではない。 拙かったのは「感情的な物言いをしたこと」になる。 しかし「感情的に書いてしまったものなのでこれを自分の意見にしたくない、手直しするにも時間が惜しい、一度話をしたい」旨を言明しているし、まあそれ程拙かったものではないと思っておこう。 でないと心が持たない。

一番アカンかったのは、「全てのメールは私信である」と思い込んでいた点だろう。 そうとは限らない、というのは新しい認識。 しかしあんな中間報告みたいなメールは私信だと私は思うのだが、受け取り手である彼に「そうとは言い切れない」と言われたら何も言えない。 公的な通信だという認識があったならば、手間をかけて文章に失礼がないようにし、胸を張って出せる形にしただろう。 だけど、それだったら日記で上げるのと同じなのだが。


2002年12月8日(日)

「感情的という理由でこのまま自分の意見にしたくないのなら、胸を張って言える程度に書けてから出直せ」と言って欲しかった。 ……というのは、まあ甘ったれなんですが。

1通目のメールに日記で返したことについてはそれなりに結着がついたので良いのですが、2通目に対するリプライでそれを正当化している点についてはちょっと疑問があります。 例えばの話ですが、「感情で物を言い、その上甘ったれだ」と見倣されることを私が本当に恐怖していたらどうなんでしょうか (まあ、そうだったらそもそもリプライしないだろうけど)。 2通目のメールで私は「自分が逆に批判の対象になることを怖れている」ことを書いています。 まき氏の感覚で平気だから日記でリプライするのは正しい、と考えておられるのではないでしょうか。 他人には、ある人が何に恐怖しているかを本当に理解することはできません。 「自分は尖ったものを向けられても平気だから、他人に尖ったものを向けても平気だろう」という状態に近いと思います。 これは、まき氏の言う「自覚の無いの暴力」に近いと思うのですが。


いっぺいさんのお話には、戰爭に對する態度表明と云ふものがないやうに思はれるのです。

当たり前でしょう。 ついこの間まで「とにかく戦争はよくないものだ」と考えていて、この「とにかく」の部分を排除しようとしているところなんですから。 そんなに早急に得られる感覚ではないとまき氏自身も言っておられたと思うのですが。


2002年12月9日(月)

某メール。 それなりに救われた。 いや、かなり、かな。


2002年12月10日(火)

人間は本質的に、一次元でしか物を測れない。 例えば、「家賃」と「部屋の広さ」はそれぞれの別の次元であると言える。 「家賃が安くて狭い部屋」と「家賃が高くて広い部屋」をそのまま比較することは出来ない。 それぞれの次元における得点を重み付けして加算した、「好ましさ」という新しい評価軸でもってして初めて比較できる。 秤に掛ける、とはそういうことだ。 多次元の評価をそのままできる人間というのは私には全く想像できない。

最近、といってもここ2週間程だが、普通に昼に起きて研究室で8時間程研究して、と信じられないくらいまっとうな生活をしている。

金曜日、久しぶりに煙草を買った。 で、今日吸いきった。 平均すると一日4本。 かなり無くても耐えられる程度になった。


2002年12月11日(水)

「小説」と「議論」は同じ文法で書かれているわけではない。

■解が「「小説」的に多樣な解釋」に拡散するとしても、 それに到る過程は「小説」ではなく「議論」です。 数学に喩えると、 「数式が -∞ < x < ∞ の範囲で成立するという解を得るためには、数学的に厳密な論理に則らなければならない」

上記の引用は自分の文章なのだが、表に出したかったので。

研究室の先輩が作っている perl スクリプトを手伝う。 「お前の頭は複雑な構造をしてるねんな」と言われる。 「複雑なコードを理解できること」と「複雑な思考をすること」は全く別のもの。 しかも、「複雑なコード」というのは結局相対的なものだ。


2002年12月12日(木)

なんとなく、今の状況が嫌だ。 そんな空気。

俺の所為じゃないということにしてしまえれば楽だけど、それは取るべきスタンスではない。

こういうスタンスは、結局「対外的には自分にも原因があるということにしておこう」ということだ。 汚い。 全く偽悪による偽善だ。 しかし「内部的には自分には非がない」と思っているのはしょうがないと思う。 人間は、自分の精神の根本で思っていることを変更できるものだろうか? だから、俺は、対外的にこう振舞えればそれで良いと思っている。


2002年12月13日(金)

初めて買ってみたが、ワインも結構良い。 問題は、一本を一日で消費してしまうこと。

対外的に物分かりの良い振りをしすぎると、本質的な理解から遠ざかってしまうことがある。 適当に相槌を打ってるようなものなので相手に失礼、という問題もある。

思考が単純であることと、単純に考える癖があることは違う、と思った。

体重計を買う。 知らぬ間に 80kg 近くなっていた。 ショックです。


2002年12月14日(土)

今週は、月姫だった。 本当によく出来ていると思った。 何よりも構成が上手いと思う。 次いで、よく書けている、と。

ああ、なにか、逃げ場がない、というか吐け口がない、というか。


2002年12月15日(日)

zsh に移行することを真面目に検討する。 しかしスクリプトの書式が tcsh と全く違うので滞る。 明日オライリー本でも買ってくることにしよう。 オライリーといえば、perl の作者である Larry Wall が 「プログラミング perl 第三版」の序文で「るろうに剣心」だとか「少女革命ウテナ」とか不穏なことを書いているらしいと聞き、こないだ確認してきた。 ホンマでした。

体重は 73kg でした。 80kg てーのは何かの間違いでした。


2002年12月16日(月)

久々にまともに FreeBSD での comp いじり。 zsh への移行作業、mnewsの再インストール(失敗)、プロバイダから動的にもらっている IPアドレスを自動的に上げる仕組みの修正。

「現時点でダニがわいているというわけではないが、わくとしたらお前の座布団からに決まっているからその座布団を捨てろ」というのは魔女狩りと同じだと思うのだが。


2002年12月17日(火)

zsh 本はなかったが、よく考えたら俺 bash の本持ってた。 「同じ bsh 系」と言われるのでスクリプトの書式も似たようなもんだろう。

zsh への移行作業。 手間を掛ければ掛けるだけ手に馴染んだ tcsh に近付き、さらにそれ以上に使い易くなる。 この快感。

yaTeX を使えるようになりたい。


2002年12月18日(水)

某データベースを整理する方法を考える。 そろそろ寝るかと布団の中で考えていたら、よい方策を思い付いてしまったので興奮して眠れなくなる。 しょうがないのでそのまま学校。


2002年12月19日(木)

半ばヒステリックに全てのファイル名を ASCII に変換すべきだと思い込んでいたが、 samba で流しこまれた EUC ファイル名でも問題が起きたことはない(あるいは気付いてない)。 ASCII にした方が操作性は良くなるが、視認性は格段に悪くなる。 トレードオフなのでどちらを選んでも大差ないということか。 ……どうせだったら、ファイル名変換スクリプトが完成するまえに気付きたかった。

yaTeX、yaHTML の練習。 html-helper-mode もなかなかよかったが、サヨウナラ。 お世話になりもした。

yaHTML で雛型を作成するようにする。


2002年12月20日(金)

コロンブスの卵という言葉がある。 今研究で得た知見というのはこれに近い状態なのだと思うのだが、「ちょっと考えたら当たり前」というのは何というか、「そんなの当たり前だろう」と言われるのが怖くて言いにくい。

半ば突発的にディスカッション。 ちょっと思考に躓きというか、自信がない部分があるとそこから先も言えなくなる。 ディスカッションだから定性的な解釈でもバンバン言うべきだったのに。


2002年12月21日(土)

<p></p> を M-RET の一動作で入力できるという点で、html-helper-mode は yaHTML より優れている。 省入力性では html-helper-mode の方が上ちゃうかなあ。 でも好きなのは yaHTML。

6:00帰宅、実家に帰る予定だったがキャンセルせざるを得なかった。

18:00起床で例会。 うにに幾つか漫画を読ませてもらう。 大魔法峠が面白かったです。 あと、DirectX8 の良さげな本も教えてもらう。 買おう。

例会→麻雀→酒。 人と酒飲むのは久しぶり。 自分でもちょっと壊れ気味だった気がする。

煙草2箱目。 なんか、止められない気がしてきた。 来年頭が勝負所かな。


2002年12月22日(日)

寮で焼肉。 楽しかったです。

最近酒飲み過ぎ。 そういや献血の数値も肝臓系の酵素が高くなっていたのでそれなりにダメージがいっているのだろう。 一人で飲むのは控えるようにしよう。


2002年12月23日(月)

zsh 不調。 メモリ20% 超のプロセスが4つほど出来てしまい、システム全体に大きな負荷が。 ヒストリ関係(ヒストリ共有?)だと思うのだが、詳細は不明。 もちっと何とかせんと。

emacs も今ひとつ手に馴染んでないし。 デフォルト文字コードを EUC にするとか yaHTML の細かい設定とかしたいなあ。 日記更新スクリプトを日記更新モードとして elisp で書いてみたい、というのもある。


2002年12月24日(火)

せっかくシャワーを浴びに行くんだから、汗でもかいてこよう。 ということで鴨川の川っぺりを走る。 20分北上し、帰りは半分歩き半分ダッシュ。 ついでに体育館で腹筋とスクワット。 腹筋を鍛えればカラオケの基礎体力がつくかもしれない。

一人マダン→一人カラオケ→一人エッチという三連コンボを思い付くが、19:00は既に就寝時刻でした。 イヴの夜は一人布団で過ごしました。


2002年12月25日(水)

慣れない筋肉を使ったので筋肉痛。

漫研有志で鍋→酒→カラオケ。 終わってからだけど、今、命名「女々しい野郎どものクリスマスパーティ」。

漫研の若いのに「電気エネルギーと超波動エネルギーは違う」という広告主がするような詭弁めいた論述をしたら、彼は黙ってしまった。 またお互いに距離が測れていない、ということか。

一人暮らしをするようになって音楽を流す生活になった。 寮にいたときは同室の人への遠慮もあってあまり流してなかったし。 でアニソンいいなあ、という話。 最近はアニソン歌手というカテゴリで分けて聞くようになった。 元々は女声の曲が好きだったけど最近は主に男声アニソン。 水木一郎は渡辺宙明か堀江美都子が入ると最強なんだが単体ではちと弱い。 ささきいさおは私の声にバッチリ合うのでカラオケで歌う分には良いのだが、聞くのにはちと弱い。 影山ヒロノブはたまに最強クラスの曲があるのだが、平均点としては若干落ちる。 子門真人が、声に甘い魅力があって今んところ一番好き。

カラオケで歌ったことがない or 今まで上手く歌えなかった曲を重点的に攻めてみたのだが、子門真人の流星人間ゾーンを歌ってみたところで何かがはまった。 奴を上手く歌えるようになったら一段階上へ行けそうな気がする。 声を体のどこで響かせるかということを考えながら歌っていて丁度良いポイントを探り当てた筈なんだが、いつの間にか消えてしまっていた。 次に入れた曲が宍戸留美だったしなあ。


2002年12月26日(木)

研究が芳しくない。 煮詰まり気味。

3月末に学会で発表することになったので、ゴージャスの8P連載を完結させるのは苦しそうです。 やれば出来るんだろうけど。

やれば出来る = やらない

「GNU の make があるのは分かったけど、それは make の下にあるねんな」と言われた。 予想外の返答だったのでしどろもどろにそれは正しくない、ということを言ったのだが、「それはまあどうでもいいや」と話を切られてしまった。 俺としては、「自分が使っている make コマンドの種類を調べてオライリーの本でも買って来るのが一番早い」ということを言いたかったのだが。

「機能は知っているが文法までは知る必要がないと判断している状態」と「機能もよく分かってない状態」を同じレベルだと思っているのだろうか? 使えないという点では確かに同じだが。

「UNIX なんてどうやって学習すれば良いのか分からないですよね」。 目の前でそーゆー会話をしていた。 わざわざ割り込んで話するのも何なので黙っていたが。 少なくとも回りに聞ける人間が多いという点で俺より恵まれていると思うのだが。

立つ位置が違う、というか。 そもそも相手のレベルを探るのは本当に難しい。 一応先輩なのであんまり低いレベルから説明するのも失礼な気がするけど……。 今思ったが、こういう意識が一番邪魔な気がする。 私の方がよく知っている分野については遠慮なく言うべきだろう。

へくちんさんに幾つか漫画を買って来てもらう。 カルドセプト(3)は気合いの入った絵とそうでない絵の落差が激しい。 けど、可愛いなあ。


2002年12月27日(金)

日本酒の残りを処分する。 朝っぱらから。

RGB の内、緑が一番明るく見えるらしい。 人間の目にある受光素子が波長に対して正規分布状に感度を持っているとすると、 中波長の緑が一番感度が高くなる。 そういうことなんだろう。

何故複数の色を重ね合わせることで単色光をエミュレートできるのか分からない。


2002年12月28日(土)

FreeBSD で CD から吸い出した音楽データを mp3 にエンコード出来るようになった。 スクリプトを書いたらとても快適にできるようになった。 単機能プログラムを組み合わせて目的の機能を実現する。 UNIX の醍醐味ですな。

ゴージャス用原稿を書くつもりだったがぼーっとしてるうちに過ぎてしまった。


2002年12月29日(日)

鶴瓶雑記 2002/12/28(土)

餘りに遲くなつてしまひ、大變申し譯ないのですが。

この一文が私に向けて書かれているならば、別に気にすることはないです。 のんびり行きましょう。

当たり前ではないと思ひます。と云ふのも、ついこの間まで「とにかく戦争はよくない ものだ」と考えていて、この「とにかく」の部分を排除しようとしているところである 、と云ふのは立派な態度表明ではないですか。この一文で、いっぺいさんの立つてゐる 場所がだいぶ見えてきました。手應へと言つても良いかも知れません。

このことは既に、まき氏からの最初のリプライに対する私のリプライ(2002/11/12)の、第一段落で書いております。 既に述べていることを新しい知見のように扱われるのは不愉快です。 件のメールでも指摘しましたが、私が何を書いても読まれてないんじゃないかという気が します。

私は日々、自覺の無い暴力を振るつてゐるでせう(「無自覺」である譯ですから、推量 の「う」を接續しない譯にはいかないのですが、これは確信してゐる事です)。「お前 は無自覺的な暴力を振るつてゐる」と言はれたら、反論の餘地は無いのであつて、「確 かにその通りです」と言はねばなりません。しかしそれを言ふなら、誰だつて日々無自 覺的な暴力を振るつてゐるのです。私に限つた事ではない。自分の振るふ暴力を全て自 覺する事など、不可能であります。

「誰だつて日々無自覺的な暴力を振るつてゐる」、「私に限つた事ではない」。 開き直りにしか見えませんが。

「自分の振るふ暴力を全て自覺する事など、不可能であります」。 わざわざ言わなくても、まき氏が延々言ってきた論旨がこのことじゃないんですか? 自分の暴力に気付いたときに、そこで開き直るのがまき氏にとって正しい行動なのですか? 自分の暴力について振り返って考えてみろと言われていたのではないのですか?

何で善悪の話になるのかよく分からないのですが、勧善懲悪の問題点は善と悪を計る 基準が決められないことだと思います。 その基準さえ絶対的に、一意に、一次元的に定まるのならば、勧善懲悪自体には問題がな いと思うのですが。 まき氏の議論は「善悪の判定」と「勧善懲悪」をごっちゃにしているような気がします。

「あなたは私の暴力をウェブで暴いた。だから、あなたは暴力的だ。それを正當化する のはをかしい」とおつしやられても、率直に申し上げまして、「人目を忍んで暴力を振 るふ事を正當化した御仁が、良く言ふ」としか思へませんよ。

こちらの言葉足らずでした。 「正当化することがおかしい」と考えているわけではなくて、その議論の中でまき氏自身が振るっている暴力を見すごしているのではないか、と指摘したかったのです。

メールで返したのには幾つか理由があって、一応書いてあります。 あちこちに散らばった形で書いており、纏めてない私が悪いのですが。 しかし理由の一部がこの点であり、メールで返したという事実は一つですので、 この指摘は正しいと思います。

私が思うに、お互いがお互いに対して暴力的なんだと思います。 各々、自身の暴力について自分で掘り下げて考えませんか? 「俺も悪いがお前も悪い」では一歩も前に進みません。 その上で、まだ指摘されていない私の悪い点があれば指摘して頂けると有難いです。

まあ、「人間は皆暴力的である。我々はそれを率直に認めるべきだ」と主張する際に、 自分(達)の暴力だけこそこそ隱してゐたのでは、何の説得力もありませんからねえ。 いっぺいさんは「斬り合ひをウェブで公開する事による雙方の不利益」を言つてゐる譯 ですが、それは謂はば、「我々の暴力は取敢へず隱して置きませうよ。そのはうが、何 て暴力的な奴らだと世間に思はれない分、お互ひ得でせう? ウェブには、結論だけ平和 的に載せておけば良いのです」と云ふ言ひ分です。そんな提案は絶對に飮めません。我 々の暴力を隱さうとする事は、「我々の内なる暴力に目を向けよ」と云ふ私の主張と矛 盾するのです。主張と矛盾する事を出來る譯がない。

「我々の暴力は取敢へず隱して置きませうよ。 そのはうが、何て暴力的な奴らだと世間に思はれない分、お互ひ得でせう?」 まあ、そういう汚い算段があったことは認めます。 ただ、「ウェブには、結論だけ平和的に載せておけば良いのです」という点は私の考えではありません。 前にも書きましたが、議論の本筋ではない部分は載せたくなかったということです。 私は、言葉尻を捕まえるような問答は議論の本筋ではないと思っています。

「我々の内なる暴力に目を向けよ」というのは必ずしも私の主張ではありません。 それはまき氏の主張であり、正義です。 少なくとも、その為の犠牲を厭わない、というように私は考えていません。 善悪の判断と一緒なんですが、人の数だけ正義があると思います。 まき氏の論法だと自身の正義のみ信奉して他者の正義を認めていないように思えます。

「人間は皆暴力的である。我々はそれを率直に認めるべきだ」

そして、他者も暴力的なので自身の暴力について省みる必要はない、と?


2002年12月30日(月)

私は、写真を撮るにしても人物を撮らず、旅行に行っても風景しか撮らない。 風景、背景を撮り、人物を撮るとしたらその中の要素として人物を構成しようとする。 私の方法論ではまず場面があるべきなんだが、絵を描こうとしたときはまず人物を描こうとしてしまっていた。 たぶんこれが、私が絵をかけない理由の一つ。

そして、絵になる場面は、構想、ラフ、下書きに時間がかかりそうな気がする。 結局描かない。


いいかげん疲れてきたのでお上品に皮肉を垂れるのはやめる。

どうも、「〜〜することもある」ということを論拠に反論されている気がします。 (「戦争のみが人を殺すわけではない」「メールで返した方が暴力的であることがある」「いじめも悪いことばかりではない」)。 そういう可能性を検討することも大事だということは分かるのですが、そればかりだと議論の焦点が定まりません。 というより、それはまっとうな議論の進め方ではありません。 時にはそれが議論の本筋になることもあるでしょう。 しかし、まき氏のはのべつまくなしに議論に分流を作っているだけです。

つまらない記事は載せない自由があると思う。

「メールで返すということはこういう意味合いがある」と言われても、逆に日記で返すことにも別の意味合いがあるし。 行動の意味するところ(解釈)のみではなく、中身も合わせて考えるべきだろう。 結局のところその中身が攻撃的だと判断されたわけですな。 確かまき氏は最初「攻撃に対する反発」だと思ったんでしたっけ。 直後、私はそれを否定したけれど。

尤もこの点については、「メールのリプライを日記で返すこと」をそのまま中身の検討なしで批判した私にとっても反省点ですが。

「しかし、我々が行つてゐる批判は、そんなに無闇なものでせうか。本當に無闇な批判だ と思ふのなら、ウェブだらうがメールだらうが、人はそんな批判を思ひ止まるのではな いでせうか。」 (鶴瓶雑記 2002/12/06(金))

私のメールの内容が無闇な批判でなかったと言っていたわけですね。 このように言っていた人間が、「おまえのメールは無闇な批判だ」と言っている。 そうではなく、「おまえの言うところは「無闇な批判ならしても良い」ということを意味するぞ」ということですか? それは、ただの言葉遊びです。

メールを説明する修飾語よりも、メールの中身を見て判断するべきだと思うのですが。


なんか、最も避けようとしていた、感情的モードになってしまった。 でもいいや。 疲れたし。 たかがネット遊びで気を使って神経を消耗するなんて馬鹿らしい。 最も気を使うべき相手は喧嘩上等みたいだし。

吐き出したらちょっと楽になった。 でもこれ以上言うと(てゆーか既に)アンフェアなのでとりあえずお休みすることにする。

といいつつ続けてしまいました。↓


「人間は皆暴力的である。我々はそれを率直に認めるべきだ」

私はこのままではまき氏の意見に賛成できません。 この後に以下のように続くのならば賛成です。 「人間は度々そのことに無自覚である。 それに気付いたときにはそこから自身の暴力性について見つめ直すべきだ」

「自分は暴力的だ」と喚くだけなら九官鳥でもできますがな。 その言葉の意味を、また、そこで自分がどうすべきかを考えてますか? まき氏は自身の暴力性の存在を確認するだけで終わってしまっている。

「自分が暴力的であることに気付いている分だけマシなんだ」などと思ってはおるまいな。 自覚の下で振るわれる暴力はなおタチが悪い。


2002年12月31日(火)

「一見対偶に見えるものを持って来る」というのは詭弁を弄する時によく使う手法なので、持って来たものが本当に対偶であったとしても怪しく見えてしまう。 それが本当に対偶であるかは慎重に考えねばなるまい。

研究室で計算の仕込み。 3日ほど京都を離れる予定です。

「この一文が私に向けて書かれているならば」は「〜いたならば」とするべきだったかもしれぬ。

まーなんか、よく考えたら自分にもあてはまることばっかなんですけどね。 俺が言うてることって。 まあ自分じゃ分かってないってことなんで、そういう点も指摘してくれたら有難いです。

完全な人間なんていないという観点から見ると、偉そうなことを言うてる人も、本当に偉い人も全て、自分の事は少なからず棚に上げているわけで。

すいません。 また続きました。 私という人間が誤解されている、また、このままだと他の人に誤解されかねないので。

私は、人前で無闇に相手の批判をすることを好ましく思っていませんと云ふいっぺいさ んの見解は、「無闇である事は好ましくない」と云ふトートロジーに近い一般論を言論 の問題に組み込むレトリックで成立してゐます。「無闇に」と「好ましく思っていませ ん」は一種強力な係り結びの關係にある譯です。そのレトリックを一旦解體して、「人 前での批判は好ましくない」と云ふ見解だけを見れば、これは「人目に觸れない批判は 好ましい」と云ふ見解の裏返しであり、つまりは「暴力を陰に隱れて行使する事は好ま しい」とか「言論よりは陰口の方が良い」と云ふ見解と大差無い代物である、と私は思 ひます。よしんば、「人前で」と「無闇に」が互ひに獨立な事象として捉へられてゐた としても、それは「人目にさへ觸れなければ、無闇な批判をしても良い」と云ふ見解で はないですか。(鶴瓶雑記 2002/12/28(土))

この段落は詭弁だと思います。

  1. 「人前で無闇に」というのはアンド条件であり、一方だけ切り出すのは論理的に正しく ない。
  2. 「人目に觸れない批判は好ましい」というのは対偶ではない。 それとも、「好ましくないとは思っていない」と「好ましいと思っている」を同じもの だと考えているのですか?
  3. そうやって得られた似非対偶を拡大解釈する。
  4. 初期の仮定と並立する仮定を持ち出しておきながら、間の議論をすっとばして同じ結論 を言い、強調する。

私という人間を、まき氏がこの結論のように見倣すのはしょうがないですが、 それを説明する過程はもっと厳密にやって頂かないと納得できません。


今年の総括


まき氏との一連の議論のインデックス

私の日記は便宜上いっぺー日記としておきます。

私の日記は段落ごとに名前を付けてないのでゴミも混じってますが。 漏れ、要修正箇所があれば御指摘下さい。

  1. いっぺー日記 2002年11月11日(月)
  2. 釣瓶雜記 2002/11/11(月)
  3. いっぺー日記 2002年11月12日(火)
  4. 釣瓶雜記 2002/11/13(水)
  5. 闇黒日記 平成14年11月13日
  6. いっぺー日記 2002年11月13日(水)
  7. 釣瓶雜記 2002/11/14(木)
  8. いっぺー日記 2002年11月15日(金)
  9. いっぺーからまき氏へのメールその1(2002年11月15日付)
  10. いっぺー日記 2002年11月16日(土)
  11. いっぺー日記 2002年11月17日(日)
  12. 釣瓶雜記 2002/11/28(木)
  13. いっぺーからまき氏へのメールその2(2002年11月30日付)
  14. 釣瓶雜記 2002/12/06(金)
  15. いっぺー日記 2002年12月7日(土)
  16. いっぺー日記 2002年12月8日(日)
  17. いっぺー日記 2002年12月10日(火)
  18. いっぺー日記 2002年12月11日(水)
  19. 釣瓶雑記 2002/12/28(土)
  20. いっぺー日記 2002年12月29日(日)
  21. いっぺー日記 2002年12月30日(月)
  22. いっぺー日記 2002年12月31日(火)

トップページ / bbs /