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テキスト:* Talk Talk: A Children's Book Author Speaks to Grown-Ups
Simon & Schuster:カニグズバーグ著 (1995/05/01)
*『トーク・トーク』 カニグズバーグ講演集 (カニグズバーグ作品集 別巻)
岩波書店: 清水真砂子訳 (2003/01/24 第2刷)


* * *

愛のゆくえ
― ― ― ― ― 「人間(じんかん)を生きのびるために」という解説について


  カニグズバーグの30年間の講演を集めた "TalkTlak" は、大切な本です。どこかへ避難するような時にも一緒に連れていきたい「本たち」の一冊. . . 。

  けれど、その大事な本の日本語版 『トーク・トーク』は、かなりつらい。そして訳者である清水真砂子さんによって巻末に付けられた「解説」はすごくつらい。 いいえ、ただ単に「驚いちゃった」という方が、素直な言い方かもしれません。

  私はもともと、本に「解説」があること自体あまり好きではないのですが、とくに著者や翻訳者自身による「解説」には違和感を覚えます。実際に、私の好きな作家や翻訳家は、「(訳者)あとがき」「おわりに」「筆者(訳者)のことば」というように、少し控えめに感想や謝辞を述べていることが多く、そのことにホッとします。

  さて、『トーク・トーク』の解説 「人間(じんかん)を生きのびるために」 には、終わりの方に、次のように書かれています。


 ( 解説者自身の著書 『子どもの本のまなざし』(JICC出版局・洋泉社)で、カニグズバーグの作品を「実用としての子どもの本」と称し、そこには子どもたちが身を置く人間(じんかん)を生きのびるための処方箋が用意されている、と評論したことに言及して)

*  ・・・作品集全巻を読み返すと、あの時カニグズバーグ論を書きおえて、なお、ひっかかっていた問題が少しだけはっきり見えてきた感じがする。それはカニグズバーグが子どもにむかって書く時も、大人にむかって語る時も、その関心は徹頭徹尾人間にあり、人間(じんかん)にあるのではないかということである。

  カニグズバーグは「成長の大部分はひとりでいる時に起こる」と言いながら、ひとりでいる時の子どもに何が起こるかは書いていない。いや、正確に言えばまったく書いてないのではなく、半分しか書いていない。彼女の書く孤独は人間(じんかん)に戻るための孤独、つねに他の人間と結びついた孤独なのである。それはたとえば、マーヒーが書く子どもの孤独とはちがうし、ピアスが書く子どものそれともちがう。彼女たちの書く子どもの孤独の先には、自分自身の内面深くおりていくためのはしごが用意されていたり、詩的時間、あるいは天地をつなぐ縦の時間、すなわちカイロスの時間に通じるドアが口を開けて待っていたりする。だが、カニグズバーグが書く子どもたちは、たとえファンタジーの世界に入っていっても、そこで出会うのはやっぱりこの世の価値である。この世のものさしでは計れないものの存在に、この作家の目は向けられてはいないようなのだ。こちらの人間の力では、たとえどのように努力しても及ばない世界、この世界を形成する向こう側半分の世界。それが、だから書かれない。

  もちろんそれは作家個人の世界の受けとめ方であって、こちら側のものさしが全世界をカバーできるのだと考えるのは作家の自由である。あるいは考えは向こう側半分にも充分及びながら、あえて書かないという選択をする自由も作家にはある。だが、子どもたちは、たとえそれが人間(じんかん)の問題にきりきり舞させられる十二歳前後の時であっても、ふとした瞬間にこの世の深い闇を足もとにのぞき見ることもあれば、天上の光をはるかにかいま見ることもあるのではないだろうか。不条理の哀しみを胸の奥深く抱くこともあるのではないだろうか。私たちは誰もそれをしてはこなかったのだろうか。

  このことと、カニグズバーグの作品にはほとんど風景が描かれないこと、都会、田舎を問わず時に人間を包み、時に人間を拒み、また時に人間に襲いかかる風景が描かれないこととは関係がありそうである。私たちに風景が見えだすのはどんな時か。講演録を訳しおえた今、私はそんなことを考えはじめている。 (『トーク・トーク』P.359)




*私の読後感は、

1.  あーあ。 時と場所をわきまえるって、しないのかな?
2.  作家を好きじゃないのなら、翻訳は引き受けない方がいいのに。
3.  それに、何を悠長なこと言ってるのかしら?
4.  買うんじゃなかったなぁ、3045円もしたのになぁ. . . 。 など、です。


順に、もう少し詳しく説明します。

*1.  翻訳者がカニグズバーグの評論家として何をどう考えても自由ですが、なにも「カニグズバーグの本」の中で持論を語る必要はないんじゃないかしら。それも、「この作家には何かが足りないようだ」というようなネガティヴなことを。だって、この本のおもな読者は、子どもたち(そのために漢字にルビがふってあります。)と、その子たちの周辺の人たち、そして作品集の別巻まで買うほどカニグズバーグを好きな人たちです。

  読者に対する思いやりよりも、訳知り顔でご高説を展開する快感の方を選んでしまったみたい. . . 。
  そうした姿勢が、カニグズバーグの機知とユーモアに満ちた講演集を、堅苦しくて面白味のない本にしてしまったように思います。


*2.  カニグズバーグの作品に、風景はたくさん描かれています。
  メトロポリタン美術館の風景をはじめ、海や砂浜や、夏草の庭や、火の燃える様子. . . それはもうたくさん。子どもたちの心象風景もはっきり見えますし、たった一行で、その土地の陽光の感じ、風の向き、温度や湿度まで伝わってくるような描写もいっぱいです。私には解説者がどのようなもののことを「風景」と呼んでいるのかわかりません。

  それに、「カイロスの時間」だってたくさんあるけどな. . . 。
  愛する人との一体感をからだじゅうで受けとめたり、風の匂いをかいだり、波打ち際のしぶきを素足で感じ、知識が知恵になる瞬間を理解し. . . 。それこそいっぱい詰まっています。もしかして、解説者はそうした些細なことからは、「詩的時間、あるいは天地をつなぐ縦の時間」を感じないのでしょうか。(もっと神秘的なことや、宗教的な啓示、それともオカルトでも期待しているのかな?)
  誰もが大自然の小さな一部、この星のかけらです。小さな子どもの中に、いつでも神秘は存在していると思うのだけれど. . . 。

  それから、ひとりでいる時の子どもに何が起こるか「半分しか書かない」のは、読者である子どもたちが、その時間を主人公と共有(共作)するための「余地」を残すことに他なりません。

  カニグズバーグは、地の文で、主観的な価値判断の含まれる形容をほとんどしません。たとえば、「美しい寺院」とか「悪い犬」とか、美醜や善悪、正誤などを決めるようなことは一切言わずに、ただ客観的な事実を淡々と積み重ねていきます。
  「やせっぽちの小さな黒い犬」をどう感じるか、決めるのは登場人物と読者だけです。そしてその登場人物の感じ方や行動をどう受けとめるか、信頼するか否か、好ましく感じるか否か. . . すべては読み手にゆだねられています。
  だからこそ、子どもたちの一人一人が、それを「自分の物語」だと思うのではないのかな. . . 。


  私はフィリパ・ピアスもマーガレット・マーヒーも好きです。マーヒーと ピアスと カニグズバーグは、三者三様、それぞれが独自の素晴らしい創造性とスタイルを持っていると思います。

  物語や本というものを、病気か何かに対する処方箋だと考える人々とっては、カニグズバーグの作品には「何かが足りない」のかもしれません。
  だけど、子どもたちが夢中になって読み進む本、何度でも繰り返し読みたくなるお話、そして成長してからも心のどこかにずっと残っている物語、それだけで充分ではありませんか?

  カニグズバーグの物語を愛せないのであれば、(たとえ大人向けのトーク集でも)彼女の本を翻訳してはいけなかったような気がします。せめて「解説」だけでも、別の人に書いてもらうとか. . . 。

  とにかく、「私たちに風景が見えだすのはどんな時か。」の "私たち" の中に、私のことは入れないでほしい。― 風景はずっと見えています。


*3.  「だが、子どもたちは、たとえそれが人間(じんかん)の問題にきりきり舞させられる十二歳前後の時であっても、ふとした瞬間にこの世の深い闇を足もとにのぞき見ることもあれば、天上の光をはるかにかいま見ることもあるのではないだろうか。」

  この一文から、解説者はずいぶんとのんびり育った人なのだろうか、と奇異な感じを受けました。

  カニグズバーグの描く子どもたちは、当然そうしています。だって、周りの人々や世界との関係において苦戦している子どもたちほど、この世の深い闇も天上の光も見やすいでしょう?  「ふとした瞬間に」などではなく、ほとんど恒常的にかもしれません。
  そして、一人一人が「不条理の哀しみ」もイヤと言うほど抱えています。子どもにとって、自分が何も悪くないのに世界に受け入れてもらえない、この不条理よりも哀しいことってそうはないと思う. . . 。
  だからこそ、カニグズバーグ作品の子どもたちは、いつも一所懸命に、自分の居場所や、よりどころになるものを探しているだと思います。

  「闇」だの「天上の光」だのを「彼は今見た」とか、いちいち作者が説明しなければ、読者には解らない、とでも考えているのでしょうか。

  「この世のものさしでは計れないものの存在に、この作家の目は向けられてはいない」と、カニグズバーグのことを論じながら、目に見えるものしか見ていないのは、論者の方ではないかしら?  いいえ、もしかしたら、目に見えるものにさえ気づかないのかもしれません。




  「トーク・トーク」の中で、肉料理のブリスケットのくだりが、「私が胸をつくる」と訳されていることに、私は「深く失望した」と書きました。まず、それが、日本語として無意味なのに、そのままにされている(第2刷)という杜撰さに。そしてもう一つには、相手の文化的背景を少しも考慮しない姿勢に対してです。

  なぜなら、ブリスケットはユダヤの人々にとって代々受け継がれる家庭料理であり、祝祭料理だから。カニグズバーグは、米国のハンガリー系ユダヤ人です。彼女はその講演の中でも何度も、ユダヤの人々やその信仰や伝統について、深い誇りと帰属意識をもって語っています。その彼女の講演集を訳しながら、なぜブリスケットが胸なのか、簡単に調べられることなのに、なぜこんなに大事なことを見落とすのか、不可解でなりませんでした。
  (実験として、brisket Jewish の二語をインターネットで検索してみてください。きっと何百ものレシピを手に入れることができると思います。)


  けれど、この「解説」を読んで、その理由がわかったような気がします。

  解説者は、カニグズバーグがユダヤ教徒だと知っています。彼女が移民の娘で1930年生まれだということを知っています。子どもたちにヘブライ語を習わせたことも、アンネ・フランクに対して特別な感情を抱いているだろうことも、ユダヤの人々がkike(ユダ公)と差別的に呼ばれていたことも、知っています。
  でも、たぶん知っているだけ. . . 。
  そうした一つ一つのことが、どんな意味を持つか、あんまり想像はしてみない。そして、その作家について「その関心は徹頭徹尾人間にあり、人間(じんかん)にあるのではないか」と言う. . . 。

  1930年、アンネ・フランク誕生の1年後に生まれたカニグズバーグは、どんな気持ちで「アンネの日記」を読んだでしょう。何度、'kike' と呼ばれたことでしょう。幼い頃は少数派だということをどう受けとめていたのでしょうか. . . 。



  カニグズバーグの作るブリスケットは、どんな味なのかな. . . 。
  きっとすごーく美味しいに違いありません。^^



* * *



*4.  ごめんなさい。「買うんじゃなかったなぁ、3045円もしたのになぁ. . . 。」はやっぱり取り下げます。

  「カニグズバーグ作品集 別巻」は、私にとってはその価値がありました。
  多くのことを考えるきっかけになったし、親しみを感じ信頼するに値すると思える人たちと、そうでない人々を区別するラインも、また少しはっきりしました。
  そして、私はE.L. カニグズバーグという女性をとても素敵だと思っている、ということも、再確認ができました。



* * *



*  "TalkTalk" の中で、カニグズバーグは何度か アンネ・フランクの日記を引用しています。私はその部分が大好きです。
  「生き残る」ことの切なさは、もうとうに昇華させて、生かされることでアンネと の「約束」をはたしているのよ、とでもいうような優しい感じがして. . . 。 以下、ジャーナリストになりたかったアンネを思うところ. . . 。


I wish I could tell Anne Frank that she has gone on living. She has helped many children shape the masks of the ghosts of their childhood.


  あなたは生き続けているのよ。アンネ・フランクにそう言えたらと思います。アンネは、多くの子どもたちをずっと手伝い続けてきたんですもの。 ― その子の幽霊 が、大人になっても仮面をつけて棲息していけるように。
("TalkTalk" P.159 より)




私もいつか、友人たちとの 「約束」をはたせるといいな. . . 。


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