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カニグズバーグ作品を透して

* * *

はじめに


  数ヶ月のあいだ、屋根裏のそのまた裏でずっと迷い続けていました。
  どうしよう. . . ? どうしよう. . . ?
  そして、岩波書店と E.L. カニグズバーグ(米国の児童文学作家)のそれぞれに手紙を書くことにしました。
  はじめに、そのいきさつと、その間の悩みぐあいをお話させてください。

  ― ― *  お急ぎの方は、次のページ へどうぞ♪


  きっかけは、今年(2003年)2月、カニグズバーグ作品の日本語訳:『ティーパーティーの謎』『800番への旅』(ともに岩波少年文庫)を読んだことでした。
  姪っ子 ― 両親の離婚やらなにやらで、彼女の年頃にしては少々重すぎるものを引き受けてしまっているかもしれない子―に、カニグズバーグのその二つの物語を渡したかったのです。

  「え? 」
  読み始めてすぐに、胸騒ぎを感じました。そして、それは次第におさまりのつかない「悲しみ」のような気持ちに変わっていきました。
  二冊の本は、原作とはまったく印象の違うものだったのです。

  その理由が、文章の技術によるもの ── たとえば、日本語として美しくないとか、その分かりにくさといったら読み通すのも大変なくらいで、物語の魅力も半減していて、── というようなことだけだったら. . . 、もちろん、それだけでも大問題で、「子どもの本でなんてこと!」と、残念に思ったでしょう。でも、たぶん、悲しいほどつらい気持ちにはならなかった. . . 。
  それは、現実に確かに存在しているものを無いことにされた時の、不信と焦りと無力感の合わさったような気持ちでした。

  私にとって、カニグズバーグの魅力の一つは、彼女の物語の主人公である子どもたちが圧倒的な実在感を持っていることです。
  それぞれが、まだいくぶん自己中心的で、視覚や聴覚にじかに届くことが好きで、細かいことに惹かれたり、何かに集中・没入する癖があったり、怖いものや繰り返しが好きだったり、実にリアル。
  そして、どの子も、未成熟がゆえの、激しさや混乱― 疎外感や孤独、表現することに対する憧れと恐れ、強すぎる正義感、危ういほどに理詰めな考え方など― を抱え、時にはそれを持てあましたり、持てあましすぎて暴発したり. . . 。
  だから、どの子も等身大に、抱きしめたくなるほどに愛しく感じられるのだと思ってきました。

  でも、日本語版では、主人公たちの激しさや危うさは、ことごとく薄められてしまっています。まるで、「そんな子はいるわけがない」「いては困る」とでもいうように。
 たしかに、彼らの多くはいわゆる「子どもらしい子ども」ではなく、ある意味では「大人が扱いやすいような子」でもありません。けれど、そんな部分を含めた全部が、彼らなりの「子どもらしさ」なのではないかしら?   現に、彼らは子どもそのものなのです。たとえ、「カニグズバーグ的な」と限定されるような子どもだとしても。


  とにかく、岩波少年文庫の中には、私の好きなナディアもイーサンも、マックスもサブリナもいませんでした。かろうじて感じ取れるのは、カニグズバーグの楽しいストーリー展開や、登場人物たちの粋な会話の残骸だけ. . . 。

  なぜ?  なぜ、こんなことが起きているんだろう?

  日本語版に関わった人たちには、そこに息づく存在が、ほんとうに見えないのか、それとも見ないことにしているのか、私にはわかりません。見えない(見ない)ことと、日本語として解りにくい「児童書」が出版されてしまったことに関係があるのかどうか、それもわかりません。 児童書に携わる人たちは、子どもに向けた作品こそ、より明快に美しい日本語で、と、誰だって考えていると思います。なので、ますますわかりません。

  もしかしたら、現代の子どもたちが巻き込まれている様々な痛ましい事件の根っこも、同じところにあるのかもしれない。子どもたちに大切なことを教えないばかりか、都合の悪いことはすべて「例外」や「無いこと」にし、一人一人の子どもを決して見ようとしない大人。悲惨な光景を目にしてもただ「信じられな〜い」と無邪気に言う大人のなんと多いことか. . . 。
  日頃感じてきたことも、オーバーラップして見えるような気がしました。


  私は何度も泣きました。作家やその作品の主人公たちに、そして日本語に肩入れして泣くだなんて、大げさで、馬鹿みたいだと思われるでしょうね。自分でも思います。
  でも、その涙は、「正義のための戦争(襲撃)」という名のもとに殺された(殺される)人々のことを、為す術もなく、ただ呆然と眺めているときにあふれてくるものと似ていました。
  そして、後から沸き上がってくる想いも同じでした。

  ここで「異議あり」って言わなかったら、私、生きていかれないよね?


* * *


  そうして、私は岩波書店に訂正を要請する手紙を書くことに決めました。カニグズバーグの作品を、子どもたちが読むのに値する「本」にしてほしいと。
  (注: 8/7にメール。 お返事がないので、8/13 訂正依頼の手紙を郵送。)

  そして、カニグズバーグ本人にも、素敵な作品へのお礼と、私の思う日本の現状を伝えることにしました。
  (8/13 NYの出版社 Simon & Schuster 宛てに郵送。)


  けれど、その手紙を書き出すまでに、また長い遅疑逡巡. . . 。
  何をグズグズ悩んでいたかというと、たとえば. . .
  考えれば考えるほど、難しいことに思えました。
  私がしたいのは、五つの星のマークを指標にして「この本はお薦めよ」とか「買わない方がいい」ということではなく、「本」を良いものにすること。
  けれど、どんな表現を持ってすればそれが正確に伝わり、実現に向かうのでしょう。文筆のプロフェッショナルにさえ難しいことのようにも思えます。そして、私がそのような表現力を持たないのはあまりにも明らか. . . 。


  力不足のせいで無理と自明のことに無理をする、ということには抵抗はありません。けれど「マジメになりすぎる」ような状況は、怖いと思いました。
  もし私から 「ふわふわ」や「チャラチャラ」や「遊び半分」を引いたら、私は形をなくし、シャリンと壊れるか、修道院へ行くかのどちらかになってしまいそう。(そういうのもロマンチックかもですれど。^^ ) そう思って、今までずっと、ケアレスミスの許されない場所や、過度の緊張を強いられるようなことを避けてきたのです。複雑なことに巻き込まれそうになると、猫の着ぐるみをかぶって踊ったりして。(笑)

  批評をするためには、一定の視点やテンションを保たないといけないし、その都度自身の価値観も顕わになって、それも含めて分析をしなくちゃなりません。それは、私には大きな負荷のかかることだと思いました。

  真剣に取り組まないと出来そうにないし、そうでなかったら批評する対象に対しても失礼だし、だからといって四角四面では伝えにくいこともあるだろうし、けど、チャラチャラしていたら、それこそ「ふざけとんのか?」でしかないような. . .
(ホントに、どうしよう? )
  と、心は千々に乱れ. . . 。

  でも、未経験のことをやってみるのだもの、少し怖くても、ギリギリまで真面目にならなくちゃ。もしかしたら着ぐるみだって脱がなくちゃ. . . 。

  きっと、私に足りないところは、皆さんが助けてくださるはずですし (これは確信というよりもほとんど自慢です ^^)、 もとい、お力添えよろしくお願いします。

  そうして続けているうちに、きっと一つ一つ、答や方法が見つかっていくのに違いない. . . 。
  と、最後はやっぱりふわふわ思っているのでした。


  「子どもの本」や「ことば」をめぐる冒険. . . に、
  小さな葦舟で漕ぎ出したいと思います。 どうかおつき合いください。





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