論理哲学論考 1-7 5.1-5.6
      
5.4 ここで、(フレーゲとラッセルの意味での)「論理的対象」、「論理定数」などというものは存在しないことが自ずと明らかになる。
5.41 というのは、諸真理関数に対する諸真理オペレーションの結果で、諸基本的文の同じ真理関数であるようなものは、総て同一だからだ。
5.42 ∨、⊃ 等々が右と左等々の意味での関係ではないことは明白だ。
フレーゲとラッセルの論理的「原記号」一般の相互定義可能性は、それらが原記号などではないことをまさに示しており、何の関係も表示しはしないことをいよいよもって示している。
また、我々が「〜」と「∨」を用いて定義する「⊃」は、「∨」を定義するのに「〜」とともに用いるものと同一なことは明らかであり、そして、この「∨」がはじめのものと同一なことも明らかだ。以下同様。
5.43 p というひとつの事実から、それとは別の無限に多くの事実、つまり、〜〜p、〜〜〜〜p、等々が帰結することになるというのは、もともと信じ難いことなのだ。また、論理(数学)の無限箇の文が半ダースの「根本法則」から帰結するというのもそれに劣らず奇妙だ。
ところが、論理の文は総て同じことを述べる。何も述べないのだから。
5.44 真理関数はマテリアルな関数ではない。
例えば、ひとが二重否定によって肯定を生み出し得るとき、否定は肯定のうちに――何らかの意味で――含まれているのか? 「〜〜p 」は 〜p を否定しているのか、p を肯定しているのか、それとも両方なのか?
文「〜〜p 」は否定をひとつの対象のように扱ってはいないが、しかし、肯定の可能性は否定のうちに予め定められている。
また、もし「〜」と称される対象が存在したとすれば、「〜〜p 」は「p 」とは別の何ごとかを述べるはずだろう。というのは、その場合、一方の文はとにかく 〜 を扱い、他方は扱わないだろうからだ。 〔5.441-5.442
5.45 論理的諸原記号が存在するならば、まっとうな論理学は、それらの相対的ポジションを明確にし、そして、それらの存在を正当化する必要がある。論理の諸原記号からの当の論理の構成が明確にならなければならない。 〔5.451-5.454
5.46 論理記号全般を適切に導入したならば、ひとはそれによってもう既にそれらのコンビネーションの総ての意味〔Sinn〕を導入し了えていることだろう。だから、「pq 」だけでなく「〜(p ∨ 〜q )」等々も既に。ひとはまたそれとともに既に可能な限りの括弧のコンビネーションの総ての効果を導入し了えていることだろう。そして、それとともに、本来の一般的原記号は「pq 」や「(x ) . fx 」等々ではなく、それらのコンビネーションがもつ最も一般的な形式であることが明らかになっていることだろう。 〔5.461
5.47 総ての文がもつひとつの形式についてそもそもはじめから述べられ得ることがらの総ては、一挙に述べられ得るはずなのは明らかだ。
ひとつの基本的文には総ての論理的オペレーションがもう含まれているではないか。「fa 」は
「(∃x ) . fx . x = a
と同じことを述べるのだから。
合成性が在ればアーギュメントと関数が在り、アーギュメントと関数が在れば既に総ての論理定数が在る。
ひとはこう言うかも知れない: 総ての文が本性上互いに共有しているものが、唯一の論理定数だ。
それは、だが、一般的文形式だ。 〔5.471-5.476


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