論理哲学論考 1-7 5.1-5.6 5.41-5.47
      
5.45 論理的諸原記号が存在するならば、まっとうな論理学は、それらの相対的ポジションを明確にし、そして、それらの存在を正当化する必要がある。論理の諸原記号からの当の論理の構成が明確にならなければならない。
5.451 論理が根本的諸概念をもつならば、それらは互いに独立しているはずだ。ひとつの根本的概念が導入されているならば、それは、そもそもそこにそれが現われ得る総ての結びつきにおいて導入されているはずだ。ひとは、だから、それを、まず或るひとつの結びつきで、そしてまた別の或る結びつきでというように導入することはできない。例えば、否定が導入されているならば、我々はそれを現に「〜p 」という形式の諸文において、「〜(pq )」や「(∃x ) .fx 」等のような文においてと同じように理解しているはずだ。我々は、それを、まず諸ケースの或るクラスに、そして別の或るクラスにというように導入することは許されない。というのは、その場合、当の意義〔Bedeutung〕が両方のケースで同じかどうか疑わしいままだろうし、また、両方のケースで同一の記号結合法を用いる理由など何も無いだろうからだ。
(要するに、原記号全般の導入については、フレーゲ(『算術の諸根本法則』)が諸記号の定義による導入について述べているのと同じことが、必要な変更を経て〔mutatis mutandis〕、当てはまる。)
5.452 論理のシンボリズムにおける新たな便法の導入は恒にゆゆしい出来事なはずだ。論理においては、新たな便法が――謂わば全く無邪気な表情で――括弧の中や脚註において導入されることなど許されない。
(例えば、ラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』では、或る種の定義と根本法則は言葉において現われる。何故ここで突然言葉なのか? このことは正当化を必要とするだろう。それは欠けており、また欠けている他ない。そうした措置は実は不当なのだから。)
一方、或るところで或る新たな便法の導入が必要なことが明らかになっているならば、ひとはとにかくただちにこう自問しなければならない: この便法はそれにしてもいったい何処で適用される必要があるのか? 論理におけるそのポジションがとにかく説明される必要がある。
5.453 論理の総ての数は正当化される必要がある。
むしろ、論理においては数など存在しないことが判明するに違いないのだ。
特別な数など存在しない。
5.454 論理においては並存など存在しない。クラス分けなど存在し得ない。
論理においては比較的一般的なものに比較的特殊なものなど存在し得ない。 〔5.4541


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