浄土宗 弘願山 西方寺
ぐがんざん さいほうじ
住所:豊島区西巣鴨四 最寄り駅:都営三田線西巣鴨駅
江戸切絵図 浅草 (1853)
「 闇の夜は吉原ばかり月夜かな
五十両の金を懐中へ佐野槌を出て、大門をそこそこに、見返り柳を後にして、土提の道哲、待乳山、聖天町、山の宿、花川戸を過ぎ、吾妻橋・・・・」
上は落語「文七元結」の一節で、左官屋の長兵衛が吉原から吾妻橋へと辿る道筋であるが、見返り柳の次に出てくる「土手の道哲」というのは「西方寺」を意味するのである。小塚原(現南千住駅周辺)の刑場に引かれていく囚人を日本堤の土手で念仏を唱えながら見送っていた和尚が「道哲」で、道哲の開基した寺を「西方寺」といったため、西方寺そのものを「土手の道哲」と称していたものである。
この道哲にまつわる話をご紹介する。
西方寺
浄土宗西方寺の草創年代は不明。境内は浅草寺領年貢地と遍照院からの借地からなる。本尊阿弥陀如来は汗拭の弥陀、汗かきの弥陀とよばれ、開基道哲の念持仏と伝える。寺は日本堤南東端に位置することから土手の道哲とも俗称された。吉原三浦屋の傾城二代目高尾(万治三年没)の墓、その150回忌に建てられた高尾塚があった。高尾の墓には目印に紅葉が植えられ、高尾が紅葉とよばれた(江戸砂子)昭和2年(1927)現豊島区巣鴨に移転。
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西方寺の開山は一説には念誉上人、別説には寛文年間記録に正覚上人、他の説には、道哲道心が開山したともいう。本尊は汗かき阿弥陀とよばれる。石門は南面し、一柱に招き猫の像を安置する。
寺には吉原で嬌名をうたわれた高尾が、一刻も肌から離さなかった小指よりも小さい襟かけ地蔵と、常用していた銅鏡とがあって、いずれも寺宝である。
寺が巣鴨に移されるとき、道哲の墓を掘ってみると、墓穴から二つの骨壷が発見された。一壺は道哲道心、一壺は二代目万治高尾という太夫の遺骨であることが判明した。そのとき高尾の遺骨と一緒に出てきたのが、この地蔵と銅鏡である。
さて、2つの壺が同じ墓から出現したときには人々は驚いた。
道哲は信心深く、人情に厚く、ことに遊女が死んだあとで浄閑寺などに投げ込まれることを哀れみ、発見しだい、ねんごろに埋葬してやったという。高尾は道哲の人情の厚きに感激し、その果ては恋に落ち入ったと伝えられているが、道哲は僧侶ではなく寺男であったともいう。
一説には、道哲は当寺の開山でなくして第二祖とした。そのわけは、高尾と恋仲に陥って破戒したから始祖としなかった。とも言われている。
この遊女高尾には、仙台藩二代目藩主伊達綱宗との仲がいろいろと伝えられている。将軍家綱の時、綱宗がふとした動機から吉原通いが始まり、高尾に魂まで打ち込んだ綱宗は、世をはばかってついに隠居することになった。そして世上有名な「仙台騒動」がはじまる。さて高尾には島田権三郎という名の秀麗な美青年が相思相愛の仲であったという。
高尾の最後は権三郎の手によって埼玉県坂戸の曹洞宗永源寺に葬られ、月桂円心大姉の戒名がつけられてある。庚子霜月27日と命日を記す。
高尾太夫のことについては、『反魂香』という冊子にも書かれてあるが、道哲のあとを追って自害したのを、人々が哀れに思って同じ墓に葬ってやったというのが正しいのか。寺の過去帖には万治3年(1660)12月29日に死んだと記入してある。道哲の死は12月25日である。
高尾は江戸で死んだといい、他方では坂戸で死んだという。また浅草山谷の春慶院にしばし身を隠して綱宗には合わなかったという話も残っている。
ちなみに初代高尾太夫(のちの榊原氏の室)の墓は、南池袋の本立寺墓地にある。
西方寺本堂のかたわらに舟型の墓があるが、高尾太夫の菩提供養の石仏であるという。それには「転誉妙心信女」と彫ってあり、円頂、立姿、珠杖を持ち、舟型光背の面に浮き彫りされており、そばに233年忌と墨書した榜示が立つ。
西方寺の石門を入って右方に西面して印章塚と彫った碑がたつ。不要になった印章や、製作の際失敗したものなどを一まとめにして土中に埋め、その上にこの塚を立て、長い間ご苦労さんでしたと印章の楼を供養する碑である。
三浦屋の抱え娼妓のうちに猫を可愛がっていた一人がいた。ある日、不浄に入ろうとしたところ、日頃可愛がっていた猫が着物の裾を加えてなかなか内に入れさせない。扉を開けて無理に中に入ってみたら一匹の蛇がいて遊女に飛び掛ろうとする。猫は踊って蛇を食い殺した。という説話に基づいて西方寺の右門の上に猫の姿を置いたのである。
武蔵野の地蔵尊
三吉朋十
右門上の「招き猫」
印章塚
入口と本堂 「浄土宗 道哲 西方寺」と表札にある
吉原と島原 小野武雄 挿絵より
江戸名所図会 新吉原 数人の花魁の道中が見える
「武蔵野の地蔵尊」には上に紹介したとおり「一壺は万治高尾という太夫の遺骨である」と書いてあった。「武蔵野の地蔵尊」という本自体は「奇書」ではなく、立派な資料である。しかし、この部分はもっとはっきりとした資料がほしい。お骨の移動が昭和2年のことであるからお寺には資料もあるのだろう、そう思い直接西方寺へ電話し、ご住職にお尋ねした。その結果は残念ながら「明確なものは無し」ということである。「西方寺はどちらかといえば娼妓など、無名大衆を供養する寺であった。住持は私度僧で、無住の時もあるという状態で、資料はどの程度作成されていたかも判らない。その上関東大震災での焼失で資料は残されていない。過去帖も紛失部分の再発行を重ねて作り直されたようなものである。むしろ落語など寺出所以外の伝聞がある状態である。」という。たしかに、「『反魂香』という冊子に書かれている」とあるが、これは落語の『反魂香』のことではなかろうか。私の住む府中市の図書館で検索したが「反魂香」という「本」は置いてなかった。従って、「武蔵野の地蔵尊」の内容はこれ以上真実に迫ることは出来ないが、ご住職の言われたことを含め、今でいうとボランティア的な寺もあった、ボランティア的な僧侶もいた、そのような僧の一人が「土手の道哲」であった。そして大衆に美化されていったのであろう。「やはり道哲はえらいのだ」といろいろを含めて「江戸の一部の再発見」になったと思う。
「史実に正直に」というご回答をいただいたご住職にも感謝申し上げます。
2003/11
神社仏閣 江戸名所百人一首 土手の道哲
稀書複製会叢書 臨川書店
刑罰場蹟
(刑場は浅草元鳥越橋際から西方寺の向、日本堤上り口に移された)此西方寺の門前すこしき所空き地にて、十間ばかりの長さ、巾は弐間余もあらんところに移されたり。この時道哲という浄土宗の道心者、かの罪人仏果得達のために昼夜念仏してありしが、滅後この寺に葬れリ。されば土手の道哲と唱へたりと。
御府内備考巻之十三
浅草之一 刑場蹟
土手の道哲 補追
土手の道哲並高尾
「吉原恋の道引き」(延宝6年(1678)板本)堤のかたはらに、いとかすかなる庵あり。これをいかにと問うに、さりし明暦(1655-58)の頃より、道哲といいし道心者、世を難しくや思いけん。所もおほきに、ここに庵をなん結びて住みしが、二六時中鉦の声たえせず。ねぶつかすかに聞こえて、いかなるも哀れをもよほさぬはなし云々。
「事蹟合考(じせきがっこう)」[割注]延享3年(1746)写本杏園蔵本」に、今戸橋(新鳥越橋か)の南、木戸際西方寺と云う寺の前、少し土高き所空地にて、十間ばかりの長さ、巾二間ばかりもあらん所、昔つみんどを刑せられたる所なり。その時道哲と云う道心者、彼罪人仏果得脱の為に、昼夜念仏したりしが、滅後西方寺に葬りしゆえに、道哲の昌あり云々。
「沾涼説」に、弘願山(こうがんさん)専称院西方寺は、開山念誉上人なり。巡誉(じゅんよ)道哲は住職にあらず。定念仏発起の願主道心者なり。得ある僧にて、世人当寺開山のように云い来たれリ云々。[割注]案ずるに、道哲在俗の時、三浦屋の高尾が私夫(まぶ)なりと云うは妄説なり。
「事蹟合考」の説の如く、罪人得脱抜苦の為、定念仏し、ここに吉原のうつらざる以前より住みし道心者なること疑いなし。土佐ぶし「三世二河白道」というに、高尾道哲が教化(きょうげ)にて、成仏したるよしを作りしより、虚妄を伝えしならん。予西方寺にいたりてたずぬるに、道哲万治3年(1660)12月25日、高尾と同日に寂(じゃく)すという。されど、「恋の道引」に、道哲庵の図出せるを見、「紫の一本(天和3年(1683)写本」(二本堤のきはに、道哲が寺ありと掲載)の文を考えれば、延宝、天和の頃まで、ながらへしよう思わる。道鉄が墓の年月を記(しる)さざるゆえに、詳らかならぬと見えたり。
<汗かきの弥陀>立像3尺、安弥作、道哲持仏、今西方寺本尊是なり。
<道哲の墓>同寺にあり。道哲の石像、定念仏の姿を刻む。法号年月等しるさず。
<高尾襟掛地蔵>銅仏立像、1寸8分、高尾守袋へ入れし仏なり。同寺にあり。
<同墓>同寺にあり。碑面に地蔵を彫る。上に紅葉の紋あり。右に転誉妙身信女。万治三庚子年十二月二十五。左に「寒風にもろくもつくる紅葉哉」とあり、墓の後ろに紅葉の木あり。高尾の紅葉と云う。今のは若木なり。
<同位牌>同寺にあり。法名前の如し。惣高二尺余。
<同所時羽子板>同寺にあり。図をあらわす。
<附云>同所三谷町春慶院にも、高尾の墓あり。法名辞世は同じと言えども、死せる年と日はおなじからず。万治二巳亥年十二月五日とあり。
近世奇跡考 山東京伝
土手の道哲庵図 延宝6年(1678)板菱川絵本の図を模す 近世奇跡考
高尾所持の羽子板
高尾墓
案内板に道哲墓は記載されていない
高尾墓石 舟型地蔵尊
現在の高尾塚
道哲墓の図 近世奇跡考
高尾墓石脇の地蔵尊
失った道哲墓を偲んだものであろう
高尾の襟掛地蔵
土手の道哲で通っている西方寺には、万治高尾の遺物だと言う手紙や色紙と共に櫛(くし)、笄(こうがい)、羽子板が残っていたが、今日では数度の火災で焼失し、ただ一寸二分ある木像の襟掛け地蔵が、一躯あるだけになった。それも先日搬出物の大部分が焼けて、本尊様さえ灰になった中に、厨子が壊れたのみで、不思議にも余燼のほかに、残っていたと云う。名妓高尾の生前に、襟にかけていた仏像とすれば、銅仏立像とある。現在の仏像ではあるが、木仏である。それを今更詮索しようと言うのではない。すでに高尾の遺物の全てが、真偽を考えさせるほどのものとは思われぬ。それらの遺物が、この寺にあるのは、高尾の墳墓があるからなのだが、「江戸鹿子」、「江戸砂子」などはこの寺にあるのが真実の墓だといえば、瀬名貞雄・太田南畝・山東京伝は山谷の春慶寺のが正しいと言っている。
今日は銅線で鉢巻をしている石像が、名高い道哲の形身なのだけれども、没後にも「かねをたたいて仏にならばサ、土手の道哲は気のとほつた仏じゃ」と唄われたのは、明暦(1655-58)の頃からここに庵居して、不断念仏を勤めていた、そこへ花廓が引っ越してきたのに、道哲は相変らずチャンチャン鉦をたたいていたから、小庵にやつれた道心坊と、全盛を唄われる遊女と、いかにも変った取り合わせであった。特に昼は賑やかな昔の吉原だけに、夜になっての道哲のチャンチャンは、妙に淋しさを加える。そんなことから、彼を名高くしたのである。高尾に搦んだ道哲の伝説は、好奇心が産んだ面白い嘘でなくて、何であろう。我らが嘘や偽物を知らないでもないのに、ご苦労様に、これらの訪問を何故するか。一体高尾などを研究の項目にすることは、いつ頃から起こったのだろう。そうして、洒落なのか、風流なのか、我らにはその方が考えたいのである。
三田村鳶魚全集 第9巻
仙台侯の狎妓かおる
仙台侯伊達綱宗が、伽羅の下駄を履いて吉原へ通ったとか、落籍した高尾を中州の三叉で堤げ切りにしたとか、盛んに訛伝(かでん)されたので、大名の傾城狂いの第一人者のように言われているが、延宝(1673-81)度に、遊女の腹から出た大名が23人ある(「長崎土産」)、といわれたのでも、大名の太夫買い、廓通いが仙台侯だけでないのが知れよう。陸奥守綱宗が、御茶の水開鑿の幕命によって工事を始めたのは、万治3年2月10日からで、牛込から和泉橋までの間を疎通するために、毎日6200人の人夫を使用した。在国であった綱宗が出府して自身で現場へ監督に出かけたのは6月1日からで、隠居させられたのは7月18日なのだ。綱宗は御茶の水への往復に吉原で遊んだ。この時は新吉原で、現在の場所なのに、仙台家の江戸屋敷は、今の新橋停車場のところにあったのだから、この間を往復されるのには、道寄りとか通りがかりとかでないのは明白である。年の若い仙台様は多数な人夫で盛んに工事を運ぶ、その景気に浮かれたのであろう。三浦屋の高尾を敵娼(あいかた)にしたと云うのは間違いで、京町高島屋のかおるを買い、それを落籍したと伝えたほうが事実らしい。
江戸の花街 鳶魚江戸文庫13
さて、ここに挙げた資料と高尾、道哲の事蹟を年代別に整理してみよう。
1655年頃 道哲西方寺で念仏始める
1659年12月 高尾死亡説
1660年6月 仙台侯出府
1660年7月 仙台侯隠居
1660年12月 高尾死亡説
1660年12月 道哲死亡説
1680年頃 道哲死亡説
1800年頃 近世奇跡考発表
1924年頃 鳶魚全集、文庫内容発表
1927年 西方寺が巣鴨に移転
1972年 武蔵野の地蔵尊発表
土手の道哲補追を作成して驚いた。説に一致するものは少なく、異説が多いのである。山東京伝、三田村鳶魚共に資料価値の高い作者として位置付けられているにもかかわらずである。寺社の由緒はいろいろのタイプがあり、明らかにありえない伝承によるものも多い(行基開山など)。それでも、その伝承をそのままに寺社を尊崇している。江戸時代まで来ると文献は結構残っているが、異なった内容のものが多いという、情報化は進んだが、一貫するまで高度にはなっていないと云う状態なのだろう、江戸研究者にとって反って定説を出しづらい状態にあるらしい。
私はもちろん自説を語ることはできない。「西方寺は土手の道哲といわれた念仏僧と、高尾太夫を頂点とする遊女に関係が深く、一つの役割を果たしてきた寺として有名である。」と理解しておきたい。
2004/06