隅田川両岸 すみだがわりょうがん
落語 文七元結(ぶんしちもっとい)
本所の達磨横町に、左官の長兵衛という、腕のいい親方。ふとしたことから博打に凝って、これが負い目になって今では抜き差しできないほど深間にはまってしまった。そこへ一人娘のお久が、昨夜から姿を消してしまった。どうしたのだろうと、夫婦で途方に暮れていると、
「ごめんくださいまし、ごめんくださいまし」
「だれか来たよ・・・・・えへえ、おまえさん、どなただい?」
「どうもお久しぶりでございまして。あたくしは、佐野槌の藤助でございます」
「あのう、さっそくでございますが、女将さんのお使いでまいりましたんですが、親方がおいでんなりましたらば、すぐさま同道願いたい、というお伝言でございますので、お店までお出ましを願いたいもんでございますが。」
(佐野槌は吉原の出入りのお店(檀那場)。そこをお久がたずね、ここで抱えてもらい、身代金を出していただこう。その上で女将さんに強く意見してもらい父親に立ち直ってもらおうと言うお願いをしたのである。この親孝行な気持ちに感動した女将さんは1年間は店の手伝いとしていてもらうが、1年後お金が返せない場合には以降女郎として奉公してもらうという約束で50両の金を長兵衛に貸し出す。)
闇の夜は吉原ばかり月夜かな
五十両の金を懐中へ佐野槌を出て、大門をそこそこに、見返り柳を後にして、土提の道哲、待乳山、聖天町、山の宿、花川戸を過ぎ、吾妻橋・・・・
「おい、待ちねぇ」
「へぇ、・・・・あたしは生きていれないことがございまして、これから身を投げます。どうぞ離してくださいまし」
「いや、はなさない」
・・・・・・・・・・
「おめぇはどこのもんだ」
「私は横山町二丁目の近江屋卯兵衛と申しまする鼈甲問屋の手代で文七と申します」
「うん」
「小梅の水戸様がお出入り先でございまして、今日お屋敷へお掛け金を頂戴にまいりまして、五十両、たしかに懐中に入れて、あのぅ、枕橋の上までまいりますと、風の悪い方が、とんと、私に突き当たりました。ああ、ああいう方が他人の懐中を狙う方だなと、手をやったときにはもう遅うございました。五十両取られてしまいました」
(死のうとしている文七を見てはおれず、長兵衛は自分の持っている五十両を渡してしまうが、店に戻った文七を待っているのは水戸様に忘れた五十両のお金である。この話を聞いた主人の卯兵衛が感激し、五十両の金を持ち長兵衛宅を訪ね、今後親戚付き合いをとお願いする。角樽のいい酒を取り出し、そして)
「つきましては、お肴でございます」
「(表に向かって)おぉい、栄次郎、ここだよう」
「へぇい」
刺青揃い、三枚のできたての四つ手駕籠が、長兵衛の長屋へ たたたたたっ・・・と入ってくると、家の前でぴたっと止まった。駕籠屋がたれをぐいと上げると、中から出たのが、娘のお久、昨日に変わる立派な姿になって、
「おとっつあん、あたしゃ、この旦那様に身請けをされてきました。おっかさんは・・・・?」
・・・・・・・・・
この文七とお久と、夫婦になって、麹町貝坂へ元結屋の店を開いた・・・・文七元結、元祖のお噺。
落語百選 麻生芳伸編 筑摩書房
吾妻橋(大川橋) 江戸名所図会
作者の三遊亭圓朝は幕末から明治初期に活躍した師匠であり、上の江戸名所図絵にある場所を噺の舞台に取り上げたのだろう。
江戸名所図会では吾妻橋を中心に、橋のすぐ右側に長兵衛が住んでいた本所達磨横町がある。その北側に小梅の水戸家下屋敷。左側中央に小高い待乳山(まつちやま)が見え、その奥が吉原である。
女将さんに呼ばれた長兵衛は吉原の「佐野槌」を訪ねる。吉原については別のページ「吉原」をご覧いただきたい。
吉原の帰り、見返り柳を過ぎて長兵衛は山谷堀の土提を歩く。
現在この堀は暗渠化され、その上は遊歩道となり「山谷堀公園」として住民に親しまれている。
土提を東に歩き最初に通り過ぎる寺は「西方寺」である。この寺の住職「道哲」が土提に立ち、仕置場(小塚原刑場、現南千住駅付近)に引かれていく罪人を念仏を唱えながら見送っていたところから「西方寺」が「土提の道哲」と呼ばれていた。古地図にあるが、現在は存在しない(豊島区西巣鴨に移転)。
その先に「待乳山」があり、山頂には「聖天(しょうでん)宮」がある。
当山に伝える縁起録によれば、推古3年9月20日、浅草観世音出現の先端として一夜のうちに涌現した霊山で、そのとき金龍が舞い降り、この山を守護したことから金龍山と号するようになった。その後、推古9年夏、この地方が大旱魃に見舞われた時、十一面観世音菩薩が悲愍の目を開き、大聖歓喜天と現れたまい、神力方使の御力をもって、この山にお降りになり、天下万民の苦悩をお救いあそばされた。
待乳山本龍院 パンフ
待乳山聖天宮 江戸名所図会
聖天宮
待乳山本龍院のパンフレットには「聖天様・大聖歓喜天」について「十一面観世音菩薩を本地仏とする聖天さまは、仏法を守護する天部の神さまであります」とあるのみで、仏像の写真も無い。そこで、わき道にそれるがこれを解説しておこう。
もともとはヒンズー教の知恵及び学問の神といわれる「ガネーシャ」であるが、日本では除災招福の神として信仰され、象頭人身の神として信仰され、象頭人身の男女が結合した形になっている。(単身のものもある)
秘仏とされる聖天像をみだらな目で見るとたたりがあるといわれ、この像のまつり方には厳しいおきてがある。
この抱擁象のうちの一方が足の親指で、他方の足を抑えているが、抑えているほうが観音の化身である。
日本の仏様がわかる本 松濤弘道 日本文芸社
長兵衛はさらに隅田川沿いに歩き吾妻橋で文七に出会う。
吾妻橋は東橋とも大川橋ともいわれ、江戸古地図ではそれぞれが使われている。
雷門2丁目・花川町1丁目の間と、墨田区吾妻橋1丁目とを結んで設けられた隅田川にかかる橋。永代橋、新大橋、両国橋、千住大橋と並んで江戸時代大川(隅田川)にかけられた五大橋の一つ。五大橋の中では最後にかけられたもので、安永3年(1774)竣工。明治20年鉄橋に架け替えられた。関東大震災で破損、現在の橋は昭和6年(1931)の架設。
日本歴史地名大系 東京都の地名 旺文社
一方文七は水戸家下屋敷を出て南へ。屋敷の隣は川になっており、枕橋がかかっている。この橋ですりと思われる人にぶつかる。
古地図ではこの橋は「源林橋・枕橋とも言う」と書いてある。
水戸家下屋敷は現在墨田公園となっている。
文七は枕橋の隣にある吾妻橋で長兵衛に投身自殺を止められる。
現在の吾妻橋
水戸家下屋敷跡 墨田公園
枕橋 線路の向うが水戸家下屋敷跡
文七の勤める鼈甲問屋「近江屋」は吾妻橋の下流にある両国橋の西にある。ここは現在も「横山町問屋街」としてにぎわっており、江戸時代の姿を伝えている。
文七元結の舞台はまさに町人の町である。
2003/01
横山町 両国広小路から左下に下がる町並み
現在の横山町問屋街
元結としての「文七元結」 補追
題名の「文七元結」は髷を作る道具の一つ「元結」の種類の名前であり、細くて強く、従来無かったものである。この発明によりその後いろいろの髷が作られるようになった。この落語によれば、ここに出てくる文七が発明したようにも取れるが、どうであろうか?
「文七元結」の創製
太宰春台の『独語』にも、「寛永(1624-44)の比までは、婦女細き麻縄にて髪を束ねて、その上を黒き絹にて巻きしに、その後麻縄をやめて、紙よりにてゆう、越後の国より、粉紙にて元結紙というものを作り出して、海内の婦女皆之を用ゆ、それより絹にてまく事やみぬ、我が父まさしく是をみしとてかたりき」とある。寛文(1661-73)に摎元結(こきもとゆい)が提供された。文七元結のように精巧ではなかったろうが、結髪の形式を多様化した効力は偉大なものである。
延宝(1673-81)にはキンカ元結という細いのが出来、天和・貞享(1681-88)の浮世草子には隠し元結というのがある、元結はますます繊細になったらしい。
元結屋 江戸商売図絵
小間物売り 江戸商売図絵
髪結 江戸商売図絵
『類柑子』に、文七という者とあるより、基角が茅場町の家近き辺に、さる名の元結摎がいたようでもあるが、この者の字は、筆耕の誤りで、無いのがよろしいと思う。原文も、者の字を抜い読んで、なんの差し支えが無い。それをそのままにしておいて、基角の時代に文七という者が居たとしても、文七元結はその男から起こったのではない。「摎元結、寛文の頃より起る。紙捻(ひねり)を長くよりて水にひたし、車にて撚りをかけて水をしごく、ゆえにしごき元結なり。また、文七元結というあり、是は紙の名なり、至って白く艶ある紙なれば、この紙にて製するを上品とする」(『近代世事談』)寛文から摎元結があったというのは、無稽(むけい)な説とも思われぬ。
文七元結は銭車で紙を捻り、その銭車が、背面に「文」の文字のある寛永通宝の中で、一番重みのある銭を選んで六枚七枚重ねたのであったから、「文七」という名が出たのではなかろうか。我々は人名でもなく、紙の名でもなく、銭車の名称だと思うと共に、文七元結とは、捻った元結、細い元結のことと考える。
江戸の生活と風俗(鳶魚文庫23 中公文庫)
三田村鳶魚
三田村鳶魚は大正時代に江戸の出来事、風俗、名所など江戸時代の多くの事柄について解説書を出しました。「その内容、考証はほぼ正しいだろう」と松本清張が対談の中で太鼓判を押している作家であります。
したがって、「文七」という名称は人名ではないのでありましょう。
とすると、落語は「文七を人名に見立て、素敵な人情話を作り上げた」ということになりましょう。
噺家三遊亭圓窓ファンクラブ「窓門会」の会員で、江戸研究家の落柿庵さんは以上の話をまとめて次のように説明してくれました。
文七元結と落語の触れ合い
「元結は髷の根元をきっちりと縛る紐のことですから正しくは「もとゆい」というのでしょうが、江戸弁では訛って「もっとい」といいます。今では大相撲の力士が大銀杏を結う時や、女の人が自分の毛で日本髪を結うときにしか使わないでしょう。「文七元結」の語源は定かではありません。文七と言う人が考案したと言う説が有力のようですが、あのような生活必需品は誰が考案したかなど判然とはしませんでしょう。
2004/06
それまでの太い元結や幅広の元結では髪の毛をきつく縛ることが出来ませんので、文七元結は髷を細く見せたいとの要求に応えて考案されたものです。紙を紙縒り(こより)にして膠(にかわ)で細く固めてあり、とても丈夫なものです。扱いを間違えると手が切れる程です。この元結が考案されてからは、縄や布や糸で作られた太い元結や幅広の元結は流行らなくなりましたから、文七元結とは、細く硬い元結の総称と考えてよろしいかと思います。
落語の原話は江戸末期に作られたものと推察されます。細い元結は江戸中期には作られていたと思います。従いまして、世間に言われている「文七元結」が先にありこの噺は後から作られた、と解釈すべきかと思います。落語を聴いた客が、この噺に出てくる文七が売り始めたものが「文七元結」の始まりなのだ、と勝手に解釈したとしても差し支えはありませんでしょう。正しい事を知りたい人は髪型や元結の歴史を調べればよろしいのです。
二年程前に三遊亭圓窓さんが『徂徠豆腐』を演じました。その噺では、荻生徂徠が火事で焼け出された豆腐屋に新しい家を造ってやるのですが、それは歴史上の真実か?と詮索することなど野暮の骨頂だと思います。噺は真実らしく聴かせても実は真実ではない、ことが許された話芸なのです。歴史小説が史実とは限らないのと同じです。だから落語は文学なのだ、いうのが私の自論です。」
落柿庵