紺屋職人と吉原高尾太夫の恋
  神田紺屋町
 かんだこうやちょう
     現在の名称: 千代田区神田紺屋町
  神田お玉ヶ池 かんだおたまがいけ
     現在の名称: 千代田区神田岩本町
落語:紺屋高尾(こうやたかお)
神田に紺屋町という、染物屋が軒を並べた一区画がある。そこの紺屋で吉兵衛という染物職人の店には奉公人が15,6人もいる。その奉公人の一人の久蔵というのが、この話の主人公・・・・。
「おい、お光っ、久蔵のやつが、三日ばかり仕事に出てこねえようだが、どうしたんだ?」
「それがねぇ、親方、布団被っちまったまま寝ちまって、あたしが行って、声をかけても返事もろくすっぽしないでさ」
「寝たっきりで・・・・どうしたんだ、食い物は?」
「何も食べないんだよ」
「それぁいけねえやな。そのままうっちゃっといたら困らぁな」
「医者に見せないとねぇ」
・・・・(そこでお玉ヶ池の医者に見てもらうことにした。医者が診ると恋わずらいである。久蔵が医者に告白した)
「(吉原で花魁道中を見たところ)初めてあっしゃ見たが、きれいなもんですね、花魁てぇもんは・・・・なかでもこの高尾太夫、絵のようだなんて譬えを言うが、あぁ、とんでもねえ、絵どころじゃねぇ、人間にもあんな人があるかと思ってねぇ・・・・ああいう花魁から杯をもらえねえかったら、『ばかを言うな、ありゃぁ大名道具といって、てめえたちは側えも寄ることが出来ねえんだから諦めろ』といわれてね・・・・しょうがねえから、仲見世でこの錦絵を買って帰ってきたんですが、諦めきれねえ、それからってものは、花魁の顔が目先にちらついてしょうがねえんです」
・・・・(医者は十両あれば会えるという。そこで、1年3両の給金を3年ため、それに医者が1両を加え3年後に花魁に会いに行くこととした。病気は全快し、3年が経過した。蓄えの9両に親方から1両をもらい10両持って流山の大尽というふれこみで医者と吉原へ行き、首尾よく高尾太夫に会うことが出来る。)
「主(ぬし)はよう来なましたな。おまはん、今度はいつ来てくんなますえ?」
紺屋の職人だから、「明後日(あさって)来ます」といえばいいのに、久蔵はもう魂が抜けて陶然として、何がなんだかわからない。感極まって。
「へえ・・・・へへへへ・・・・」
と泣き出した。
「どうしなました?おなかでも痛いのざますか?」
「いいえ・・・へへ、・・・又いつ来てくれるとおっしゃいますが、今度来る時は丸三年経たなきゃ来ることが出来ないのでございます」
・・・(久蔵はすべてを正直に告白する)
高尾のほうも聞いてぽろっと涙をこぼした。
源平藤橘、四姓の人に枕を交わすいやしい身を、3年も思いつめてくれるというのは、なんと情けの深い人か、こういう人に連れ添ったら、よし煩っても見捨てることはない、と・・・。
・・・・(そして高尾は、年季の明けるのが来年の2月15日なので久蔵さんのところへたずねて行きます。私をもらってくれますかという。久蔵は「ありがとうございます」といって高尾を拝む。)
明くる年の2月15日。紺屋町の吉兵衛の店先に新しい四っ手駕籠がぴったっと止まった。中から出てきたのが、元服をした高尾太夫。親方吉兵衛へしとやかに挨拶をして、
「これはどうぞ、久蔵様へのおみやげに・・・・」と花魁のほうから持参金。
「おほほほほ・・・・いやぁ、久蔵、えらい!よくとった、よく取った」まるで猫が鼠を捕ったよう・・・・駕籠屋へ祝儀をつけて帰した。
久蔵と高尾は、親方の仲人で夫婦となり、店においておくわけにはいかないから、近所に手ごろな店があるというので、これに新しく紺屋を開かせた。
さてやってみたが、新店なのでなかなか客がこない。久蔵は考えた末に、早染めというのを始めた。これは、店にきた客を待たせておいて、持ってきた布切れをその場ですぐ染めてわたすという新商売で、瓶のぞきという色の染物である。これで店は大繁盛したという。
               
落語特選 上  麻生芳伸編 ちくま文庫

さらに編者が解説している。「<紺屋高尾>は六代目というが、史実の確証はない。一介の紺屋職人が3年分の給金を一夜で使い果たすことなど所詮、考えられず、しかも大名道具の花魁にまごころが通じて女房に出来る・・・というのは話の上の夢のまた夢で、落語を超えて、人情美談というべきものだろう」と。

私自身これまでは単なる物語として聞いていたものですが、調べてみると、「夢が叶った話」と思いたくなったのです。そのあたりをご説明しましょう。
「ぬれほとけ」に描かれた「高尾太夫」 1670年頃
「吉原下職原」に描かれた『高尾太夫」 1680年頃
「娼妓画ちょう」に描かれた「高尾太夫」 1700年頃
いずれも「新編稀書複製会叢書より
高尾太夫
歴代高尾太夫
三浦屋四郎左衛門抱への高尾、七代あり。

初  代      妙心 高尾   我生みたる子を乳母に抱かせ道中せしゆへ
                    子持高尾ともいう
二代目      仙台 高尾   
1660没西方寺参照

三代目      西條 高尾   御蒔絵師西條吉兵衛請け出す

四代目      水谷 高尾   水谷庄左衛門請け出す

五代目      浅野 高尾   浅野因幡守(五万石)請け出すこの家今は
                    断絶
六代目      だぞめ高尾   だぞめや九郎兵衛請け出す、神田の紺屋也
                    享保十年
(1725)
七代目      榊原 高尾   延享寛延
(1743-50)のころなり
                    
(城主榊原政岑請け出し。それをとがめられ姫路
                       から越後高田へ転封のうえ隠居)


「洞房語園抄書」に記載   「新編稀書複製会叢書」より

(注:「洞房語園異本」は吉原の開祖庄司甚右衛門の六代孫の庄司勝富が書いたもので享保5年(1720)の刊行とされているが、上の記載六代目および七代目は刊行より後のことである。「抄書」とは追加されたものか、どこかが間違っているものなのか不明である。)

確かに六代目高尾は神田の紺屋に請け出されているのである。ただし、久蔵ではないが。
三浦屋四郎左衛門抱えの「高尾」は10代とか11代とかいわれているが、この時代以降に存在した「高尾」を含めてのことかもしれない。
         
高尾太夫の位置付け
吉原大絵図  三浦屋
  元禄2年(1689)
同上  吉原の遊女の編成
元禄2年(1689)の吉原大絵図によれば京町の三浦四郎左衛門抱えとして太夫3人格子12人が掲載されている。そして吉原全体でも太夫は3人であり、この時点では三浦屋だけが太夫を抱えていたのである。そしてその筆頭が「高尾」である。

元禄前後の太夫の人数についてみてみよう。「吉原と島原」 小野武雄によると次の通りである。

寛永年間(1624-1644)   70余人
万治3年(1660以下新吉原) 25人
寛文7年(1667)        18人
延宝3年(1675)        50人
元禄年間(1688-1704)     2人
宝永6年(1709)         4人
享保年間(1716-1736)    10人
享保19年(1734)         4人
寛保年間(1741-44)以降  2〜3人

吉原大絵図の解説には「元禄の吉原はそれまでの大名、旗本等の武家を本位としていた寛文延宝の盛時を経て、漸次町人の手に移ろうとしている過渡期にある」と書いてある。元禄以降、遊ぶ人たちは町人が多くなり、格安の遊女が増え、太夫はごく一部の人を相手にする存在であったのだろう。
なお、三浦屋は宝暦8年(1758)に店じまいした。

太夫の揚代であるが、「吉原と島原」では「太夫を上げて遊ぶには金がかかる。揚代が銀60匁(金一両)でも、諸費を合計すると、その5倍以上かかる」とある。落語にあるように十両用意していなければ万全ではないのかもしれない。

太夫を妻にする場合、年季奉公中であればそれを解除してもらわなければならず、多額の金を必要とした。三浦屋抱えの太夫薄雲を身請けした時(元禄13年1700)の証文では350両を支払っている。しかし、年季明けであれば「出廓」といわれており、全く普通の人を妻にすることになるのであろう。落語では「元服」した高尾が店に現われる。この「元服」はどのようなものかは後述する。

高尾太夫を「不特定の人と枕を交わすいやしい身」とは久蔵は考えなかった。一目ぼれに加え、人物にも惚れ、諸芸に通じた最高の女性を妻にしたのである。
○印三浦屋の位置
紺屋
一方の久蔵はどのような職業であったのか
「紺屋」は「こんや」とも「こうや」ともいう。藍染に用いられる藍草は、蓼科の蓼藍といわれる植物で、江戸時代には阿波(徳島県)藍が全国の生産の殆どを占めていた。
藍染をするには藍を建てるといって、藍の染液を作ることからはじめる。藍は他の植物と違って水に不溶解性なので、まず藍草を自然発酵させて「すくも」というものをつくる。これを泥状にして瓶に入れ石灰、麩、木灰、冷水などを混ぜて攪拌し、一昼夜置いて過熱すると徐々に発酵が始まる。それから幾日か経つと藍染ができる状態になる。
江戸時代の藍は庶民に親しまれた色である。濃い色から淡い色に向けて順に「紺」、「花(色」、「空色」、「浅葱色(浅黄色)」がある。さらに、極く薄い「瓶のぞき」がある。
    
江戸職人図聚  三谷一馬  立風書房
久蔵はこのような店で働く奉公人の一人であった。
紺屋町とお玉ヶ池
江戸切絵図  日本橋北神田芝町
現代の紺屋町とお玉ヶ池
2003/12
紺屋町
この界隈は慶長年間(1596-1615)に徳川家康から軍功として関東一円の紺の買い付けを許されていた紺屋頭土屋五郎右衛門が支配していた町でした。そのため町には五郎右衛門の配下の染物職人が多勢住んでおり、いつしか「紺屋町」と呼ばれるようになったのです。江戸を代表する藍染の浴衣と手ぬぐいの大半は紺屋町一帯の染物屋でそめられました。
 
千代田区町名由来板
紺屋町
町名由来の説明板
お玉稲荷
お玉ヶ池跡標柱
児童公園
児童公園の説明板
お玉ヶ池
現在の岩本町の辺りには、昔不忍池をも凌ぐほどの大きな池があり、そのほとりに桜の木が植えられていたために桜ヶ池と呼ばれていたといわれています。そして、京都から奥州へと向かう道筋に位置するこの池のほとりの茶店にはお玉という美人がいて、二人の男に言い寄られた彼女はどちらか一人を選びかねて桜ヶ池に身を投げた、との伝説が残っています。そしてこの話からこの池をお玉ヶ池と呼ぶようになったといわれています。現在祠の見られる繁栄お玉稲荷も、もともとはお玉の霊を慰めるためのものであったそうです。
 
千代田の文化財探訪
 千代田区教育委員会
三遊亭圓窓師匠のファンクラブ「窓門会」に参加しませんか。師匠と、そしてお弟子さんの師匠たちと身近なところで落語と歴史を楽しめます。会員のIDカードは「寄席文字で書いたあなたの名札の携帯電話ストラップ」です。もし見かけたらその人は「窓門会員」です。もちろん私も携帯電話には名前のストラップがついています。

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                 圓窓落語大百科事典  だくだく
神田紺屋町
名所江戸百景  広重
高尾太夫代々についていくつかの異説がある。噺家三遊亭圓窓師匠の落語ファンクラブ「窓門会」に参加している江戸研究家「落柿庵」さんが紹介しているものを引用しよう。

7人説 幕府御留守居番与力原武太夫
初代 仙台高尾。西方寺に墓あり。
2代 さい上高尾。紀伊中納言家臣身請。
3代 水谷高尾。
4代 浅野高尾。
5代 紺屋九郎兵衛請出す。だぞめ高尾。
6代 榊原高尾
7代 年明け候て出候や、不知。

12人説 文化9年(1812)発表
初代 西方寺で尼となり没
2代 石井高尾。高尾は自害。石井は僧に。
3代 西条高尾 蝋問屋西条吉兵衛身請。
4代 島田高尾 (島田に気を残す)高尾に振られた伊達綱宗は薄雲(太夫)を仙台に連れ帰った
5代 駄染高尾 お玉ヶ池駄染屋の妻。
6代 子持高尾 行方知れず。
7代 六指高尾 足の指六つあり
8代 高尾
9代 高尾
10代 榊原高尾
11代 高尾   この時三浦屋絶える
12代 高尾   玉屋で名を継ぐが最後となる。
落柿庵 江戸シリーズ
久蔵、紺屋の主人、職人が駕籠から降りる高尾を見たときの初印象は強く心に残るものでありましょうが、特に「元服姿」というのは衝撃として皆の心を打ったものでしょう。その姿を前出「落柿庵」さんはこう説明します。

「江戸では、武家・町家を問わず、男子は原則として十六才で 前髪を落として成人になります。これを「元服」と言うことは、ご存じかと思います。
 女性も同じように、十六才になると歯を染め始めます。歯だけ染めることを「半元服」と言います。更に成人して結婚年齢となると眉を落とします。歯を染め眉を落とすことが江戸の女性の『元服』です。
 さて、吉原のお女郎さんですが、歯を染めますが眉は落としません。髪型は、ご存じの通り特殊な型です。町中に逃げても、そのままだと直ぐに、何処で働いていた女性かが誰にでも知れてしまうのです。逃亡予防策の一つだったのでしょう。
 お女郎さんは十八才から十年の年季ですから、この世界を卒業するのは二七才になります。一般社会でこの年齢の女性はほとんどが既婚者でしたから、既婚の女性達にならい、改めて歯を染め直し眉を落としました。
普通の家庭の娘なら十六才の頃に行うことをこのときに行うのですから、『元服』と表現したのです。正式な表現ではなく、一寸洒落てみた言い方とでもいいましょうか、川柳的表現とでも申しましょうか、まぁそう言うことなのです。」

つまり、過去とすっかり縁を切り生まれ変わった姿で、久蔵が最も望む姿で現われてくれたのです。
非常に素敵な噺であります。
万治2年(1659)12月5日吉原三浦屋の名妓高尾死す。転誉妙身信女と云う(山谷春慶院に墓あり。又同所西方寺にもありて、万治3年とするは誤りなり。辞世、さむ風にもろくもくづる紅葉哉。これより後高尾10人あり。山東翁の「奇跡考」に其の考あり。また、柳亭翁の「高尾考」一冊あり。未だ梓に上せず)。イン(竹冠に均)庭云う、「高尾考」は太田南畝の著述、京伝の補考あり。なお、さまざま説あるなり。無声いう、種彦の著述は「高尾年代記」なり、なお、京山又雀庵の「高尾考」(写本)あり。 
       
増訂武江年表 平凡社より

この部分今後の研究のために記載しておきます。
新吉原仲の町植桜 名所江戸土産 広重