*ほわいとでー小話08*
(黎深・絳攸)


【2】

その翌日。
呼び出された絳攸は、再度書翰を持って尚書室を訪れた。
「黎深様! 今日という今日こそは、署名捺印、くださ……い、って……、な、なんですか…………?」
黎深の机案に近づくなりパタパタと扇であおがれた絳攸は、出鼻をくじかれて困惑の表情を見せた。
困惑する養い子を前に、黎深はふんと鼻を鳴らす。
「………………使っていないな」
「え?」
「何でもない。ああ、用はそれだけだ。もう行っていいぞ」
「…………………………へ?」
室に来ただけで"用はそれだけ"とはどういうことだろう。顔を見たいが為に呼び出したということもあるまいに、と思いつつ、とりあえず絳攸は手にしていた書翰を上司へと突き出した。この養い親兼上司の思考が読めないのはいつものことだし、とにかく今優先すべきは仕事なのだ。
「本当は昨日中にあげなきゃいけなかったんですよ!! もうっ、今日は絶対仕事していただきますからねっ!!!!!」
「――……ああ、いいだろう」
「黎深様に決裁いただかないと吏部どころか朝廷中、いや国中に迷惑が……って、え、え、えっ? 本当に仕事していただけるんですか、黎深様!?」
思いがけない上司の言葉に、絳攸は目をしばたかせる。
「ああ。ただし、きみがここに留まって私の輔佐をするのなら、な」
「もちろんですっ!」
「ならば、少々待っていろ」
そう言うと黎深はなぜだか香炉を取り出し、香を焚き始めた。ふわりと周囲に漂い始めた香りに、絳攸はあることに気付いた。
(そういえば黎深様、さっき俺のことを扇いで「使っていないな」って仰ってた……)
用とはそういうことか、と気付いた絳攸は、書翰に目を通し始めた上司に頭を下げた。
「申し訳ありません黎深様。昨日黎深様からいただいた香は、まだ使っていないのです」
香炉の具合を確かめていた黎深は、頭を下げた絳攸をちらりと一瞥しただけですぐに視線を香炉に戻した。
視線を合わさぬまま、養い子に問う。
「なぜ使わない? お前は普段からあまりそういったものを好まないな」
「は、はい……」
黎深や楸瑛のような生粋の貴人であれば香を嗜むのはごく当たり前のことなのだろうが、子供の頃に黎深に拾われた絳攸は、香というものには馴染みが薄かった。もちろん、そういった趣味を身につけておいた方がいいのは分かっているし、いい香りをかぐのも好きだ。だが絳攸はあまりそういうことに興味がわかなかった。
(それに、自分が強い香を焚いていると他人の香りに鈍くなるし……)
黎深様の室に入った時に"いいにおい……"と思う瞬間が結構好きなんだよな、と思いながら、良い機会だからと絳攸は昨日から気になっていたことを思いきって聞いてみることにした。
「あの、黎深様に聞きたかったんですが」
「何だ?」
「――俺、そんなにいつも臭かったですか?」
昨日、"ばれんたいんのお返し"と称して黎深から香水やらせっけんやら匂い袋やらを贈られた絳攸は、初めこそ黎深からの贈り物に喜んだが、次第にある疑念を持ったのだ。「ひょっとして、黎深様は俺が臭いからこういったものを贈ってくれたのか」と……。
「……………………そういうわけでもないが」
妙に沈黙が長いのが非常に気になった絳攸は、慌てて言い募った。
「た、確かに残業で邸に帰れず風呂を使えない時もありますし、朝廷中を歩き回って汗をかくことも多いですがっ」
「…………だから違うと言っているだろう」
「でっ、ではなぜ! 突然あんなにたくさん香りのつくものを贈ってくださったのです!?」
「……………………。知る必要はない。いいから使いなさい」
「そんな理由では使えません!」
「――"使いなさい"と私が言っているんだよ、絳攸。……で? きみはこの書翰に私の決済が欲しかったのではないのかな、吏部侍郎?」
「…………っ、はい…………」 言外にそれ以上追及するなら仕事はしない、とにおわされては、絳攸は折れるしかない。
渋々ながら無理矢理自分を納得させた風な養い子を見て、黎深は扇の裏でそっと微笑んだ。
「お前は知らなくていい。本当に気付くべきなのは…………」
「え? 何か仰いましたか、黎深様?」
「いや? ああ絳攸、墨がないな。すりなさい」
今まで尚書がどれだけ仕事をしていなかったのかが如実に分かる、干からび切った硯に墨をするところから始めなければならなかった絳攸は、それからたっぷり数刻は尚書室にて香を浴び続けた。

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