写真集 (**) (2) (3) (4)   ”気ままに鉱山・炭鉱めぐり”に戻る
    「東日本大震災」写真集  (1/4)   
 相馬市(福島)〜田老(岩手)まで     Photo : 2011年5/9〜5/14


 2011年3月11日14時46分、東北地方・三陸沖でM9の巨大地震が発生した。東日本大震災である。犠牲者は数万人にものぼると言われるこの未曾有の大惨事!約二ヵ月後に被災地に入り現場の生の様子を撮影。その様子とは・・・一言・・・ひどい!あまりにひどい!地震もだが津波がここまですごいものとは。その破壊力のすさまじさには言葉が出ない。どの光景を見てもただただ絶句するのみ。驚くのはその惨状のさなかたった二ヶ月しかたっていないのに人々が非常に冷静だった。内外のマスコミでもよく言われたが略奪や付和雷同に類するような行為が少なくとも普通に様子を見ている分には見当たらなかった。もちろんみんながみんな冷静だとは思わないが。
 大槌でだったと思うが写真を撮っていると買い物袋を持った初老の女性が近づいてきて”案内しましょうか”と静かに声をかけられた。気負いも何もなく。この惨状を写真に撮って皆さんに知らせて欲しい、という願いが込められた一言だったと思う。
 今回、南は相馬市(福島県)から北は田老(岩手県)まで海岸線に沿ってひたすら北上。北上川の橋が落下して通行不可だったりところどころ通行不可の箇所もあったがおおむね車で走れた。思ったのは海岸線はどこも全部なかなか立ち直れない程の被害にあっている。海岸線に沿ったJR線はほとんど全線全滅。南三陸や陸前高田、ほか小さな漁港付近のJRは線路もめくれ上がり水あめ状態。駅舎自体が、どこにあったのかな?と迷うほど跡形もない。
 ちなみに福島原発の周辺には近づいていない。



(福島県)相馬市〜新地町〜(宮城県)山元町〜亘理町〜岩沼市〜名取市〜仙台〜塩釜周辺。
 福島県相馬港周辺の様子。タンクローリーや電柱や建屋が津波でこんな風に。これでもかなり瓦礫類は片付いている方だ。


 :相馬地域の瓦礫集積地のひとつ。中:海岸近くの被災車。原型が分からない程だ。右:海岸近くでの被災車置き場。整然と置かれてはいるが手前の大型トレーラーなど津波のすごさが分かる。バックは新地発電所。


L:同場所にあったマイクロバス。逆さに引きずられたようだ。M:海底から引き上げられたのだろうか。R:車体が歪み中は泥だらけ。


L:こんなチラシも。M:こういうときこそ自衛隊の威力発揮です。R:瓦礫の中から見つけた誰のものかわからない貴重品。写真はもちろん位牌もあった。  


L:地元の人がこんなものを。”地震から日没まで津波を確認した男”とある。M:常磐線「山下駅」のすぐ南側の様子。線路上のトラックは応援できた車。その右の白い車(ランクルだったと思う)は被災した車。R:「山下駅」の様子。写真で見える車は全部被災車。黄色いのは復興用の重機。


L:山元町辺りだったと思うが破壊された部屋の奥には津波に押し流されたらしき松の木が。M:同家屋の土台部分。R:同所付近。家屋はほとんど基礎だけを残し上物はすべて押し流されている。  


L:亘理町辺りで家の玄関にはまってしまった被災車。M:墓地の墓石は全部倒されたり流されたりしている。土砂類は海底の砂か液状化現象の砂か分からない。R:被災車を運ぶレッカー車。手前には津波に流された車が畑に横倒しのまま。  


L:津波が引いた後残った土砂が乾きひび割れている。塩分が高いのでどうするんだろうか。M・L:畑や田んぼは全部こんな感じだ。流された車やいろんなものがどこまでも散乱している。  


仙台空港の手前、県道10号線が阿武隈川を越える辺りでは堤防が危険だからかこのように補強している。R:堤防のすぐ脇での光景。  


宮城県岩沼周辺の様子。車も船も畑も店舗も何もかも無茶苦茶だ。  


塩釜市内。L:津波で浸水して濡れたのだろう。こういう光景がいたるところで。M:店舗も浸水。ブルーシートで入り口や窓を覆っている。R:信号も停電。仙石線高架のすぐ右が塩釜港。


L・M:塩釜市内。R45を走っているといきなり目の前に漁船が!浸水防止策だろうか大きな土嚢がいたるところに。R:かなり奥まった山間の田んぼにも車が流されていた。  


(宮城県)松島〜東松島〜  
松島の磯崎魚港。桟橋が見えない。海面下に沈んでいる。  


地盤沈下して加工場も桟橋もすべて海の中に沈んでいる。出会った漁師さんに聞くと満潮にはもっと上まで水がくるとか。


仙石線「陸前大塚」駅辺り。海には瓦礫が流れ架線を支える電柱も傾いている。R:地元の名産かカキ殻が山積されていた。


「東名(とおな)駅」周辺の様子。ここもひどい。  


仙石線「東名駅」の様子。最初この光景を見た時、電車の「駅」とは分からなかった。


この光景を見たときには一瞬、絶句した。ここまでなるものかと・・・。L写真の上部方向が石巻方面。R写真の上部方向が仙台方面。(同じポイントから撮影)


まるで何十年も前に廃線になっている鉄道レールのように赤錆ている。その上には倒れたフェンスやがれきや海からのヘドロなどもかぶっている。向こうの高架は県道27号線。上の大きな写真二枚はこの高架上から撮影。


東名周辺の住宅地域を歩いてみた。M:何か使えるものはないかととりあえず最低限、生活に必要なものを探し出した感じである。R:空き巣防止策だろうかブルーシートが。被災地はどこもそうだが夜は真っ暗闇だ。明かりのない空間てこんなものかなと改めて感心する。  


L:5月なのでせめてもの鯉のぼりを。R:地震や津波があっても季節は確実にやってくる。一羽のツバメが。  


L:東名駅のホームの様子。左の垣根のようなものはレールの枕木。M:待合室は泥だらけ。R:西側から東側を見る。


L:住宅が線路をめくろうとしている。M:どこもかしこもこんな状態。R:「・・・全員無事です。」安否確認の意味でこういう風にしている家庭が結構あった。


L:全壊家屋の一角にあった時計は3時52分を指していた。津波が来た時間か。M:近所にあった鳥小屋。誰も餌をくれないせいか鶏がしきりに鳴いていたが。R:川と家の境目がない。流された車といい家といい剥き出しの被災家屋といい何をどうすればいいのか分からないというのが正直な気持ちだろう。  


L写真:東名運河に沈んでいる車。M写真:県道27号線・奥松島パークライン海岸沿いの松林(海は右側)。津波にやられたのか木の海側だけ泥が付着し表面が削られている。それでも倒れずに耐えたようだ。R:かんぽの宿「松島」。


L写真:玄関口の様子。M・R写真:鳴瀬第二中学校。ここは海岸から2〜300mぐらいの非常に近い場所なので被害も相当のものだったと思う。時計もほぼ先程と同じ時刻に止まっている。  

校内の様子。犠牲者を弔ったのかささやかながら祭壇が作られていた。中は壁も柱も天井ももう滅茶苦茶だ。


L写真:窓枠も壁も破られ基礎もえぐり取られている。M写真:「SOS」の張り紙が。見てはいないが屋上にも「SOS」があるのかもしれない。R:写真:自衛隊が入ってきている。


体育館の中の様子。ここの時計は2時48分で止まっている。地震直後のようだ。


L写真:体育館入り口のドア。M写真:理科室だろうか天井まで津波の跡が。R写真:何か残ったものはないかと一箇所に集めたようだ。靴にギターにアイロンにゴルフクラブにブースター・ケーブル・・・。  


J写真:プールがこんな風に。M写真:「野蒜」駅と「陸前小野」駅の中間で列車が停止状態。おそらく地震から二ヶ月ずっと止まったままではないだろうか。R写真:鳴瀬大橋のたもとのガードレールにはこんな安否情報があった。信号待ちの車が確認できるように。

石巻〜
L写真:田の向こうは航空自衛隊松島基地。M写真:第6戦車大隊からの災害派遣トラック。同隊は宮城県内にあるらしい。R写真:北上運河の側道が決壊している。


定川西側の農地。この惨状では田んぼか畑か分からない。しかしこの状態から復旧するには・・・気が遠くなる。


L写真:石巻港・西浜町方向。水に浸かりながら立っている男性に聞くとこの先はずっと地盤沈下していて5〜60cmぐらいは沈んでいるとのこと。常に冠水しているらしい。
M写真
:どこかから流されて来て北上運河の土手にひっかかった漁船。R写真:同所で。家もトラックも工場も全壊。  


同所で。ここは石巻港と北上運河にはさまれたエリア。  


同所で。L・M写真:逆さになっているのは大型トラック。R写真:ユンボもキャタピラーが外れこの状態。


左二枚:石巻港から流されてきただろう貨物船。右:海に浮かんでいるはずのブイがはるかこんなに遠くまで。  


犠牲者の仮埋葬地だろうか(県道251号線沿い)。子供の犠牲者だろうか小さな鯉のぼりが。

    東日本大震災写真集 **///  ”気ままに鉱山・炭鉱めぐり”に戻る    
(現在地は ”1/4” ページです。)