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ニューヨーク

私が最初にニューヨーク・マンハッタンに行ったのは1990年の10月のことだ。
ちょうどインディアン・サマーの一週間に当たり、Tシャツ一枚で行動できたのは
非常にラッキーであった。
そのわずか1週間後にハネムーンでマンハッタンに行ったご夫婦の写真には、寒々
とした空のもと、皮のコートに身を包む二人が写っていたのだから・・・。

このNY旅行は、めずらしく一人での旅であった。
1989年の春と夏にロスに滞在したことがきっかけで、どうしても東部、特に
ニューヨークに行ってみたくなったのだ。

今でこそNYは、ジュリアーニ前市長の功績により、安心して旅行できる都市に変貌
したが、その頃のマンハッタンは、世界でも最も治安の悪い場所として有名であった。
私が一人で行くと知った時の両親の動揺は、今でもよく覚えている。
しかも私は、いつも出発前日になってから
「明日から○○へ行ってくる」と伝えるという親不孝者でもあったのだから。
だって、下手に早めに伝えてその国の悪いニュースでも流れようものなら、反対され
かねなかったんだもんっ。

私はかなり緊張して旅の準備を進めていた。
NYの街中で地図でも広げようものなら、おのぼりさん丸出し、犯罪者に狙って下さい
と言っているようなものである。
私は頭の中に、マンハッタンの碁盤の目の様な地図を叩き込み、迷わずに「キャッツ」
のミュージカル劇場やらグレイ・ハウンド社のバス集合場所に行けるようにした。

そして初めてのマンハッタンに到着したその夜、時差ボケを防ごうと早速「キャッツ」を
観に行った。
着いた日は頑張って夜中2時くらいまでは起きていないと、翌日また変な時間に眠く
なってしまうからだ。

しかしっ!

あれほど有名で一度は本場で観ておきたかったミュージカルを目の前にしても、どうし
ても、どうしても眠気には勝てなかった私。
「寝ちゃいけないっ、チケット代だってもったいないっ、寝ちゃ駄目〜!!!」
といくら自分に言い聞かせても、頭がガクンガクンいってるのがわかる。
「ハッ・・・!」
と目を覚ましたのは、あの誰もが知っているフレーズ、

「メーモリ〜〜〜♪」

というサビのところであった。
「や、やばいやばい、クライマックスだわよ、ここだけは逃しちゃならないわっ」
というわけで、そこ以降はしっかりと鑑賞した私であった。
つまりまぁ、ツボは押さえたってところか。

さて、翌日からはずっと一人で行動するのは寂しく、能率も考えてグレイ・ハウンド社の
いわゆる「はとバスツアー」を何度か利用した。
そう、もちろん・・・ワールド・トレード・センターにも訪れた。
それから11年後に、まさかそこのツイン・タワーにあんな悲劇が訪れようとは、夢にも
思わずに。

後にジェット飛行機に突っ込まれ崩壊することになるビルの107階に、展望台は
あった。

ワールド・トレード・センター展望台より
ワールド・トレード・センター展望台より1990年10月

晴れ渡った空にNYの街は映えていた。
でも私の初めてのマンハッタンの印象は、「すばらしい!」とか「最高!」だとかいうの
とは少し違っていた。
それは、時代というものが大きく関係していたと思う。
1990年頃は、まだ日本のバブル経済が世界を動かすほどの力を持ち、日本人という
だけでどこでも堂々としていられるような錯覚に陥るほどであった。
それに比べアメリカ経済は最悪の状態で、何につけても

「日本が悪い!そうだよ日本が安くて良い製品をガンガン作ってくれちゃうからだよ!」

のノリでいわゆる「日本たたき」をしていた頃である。
ああ日本の古き良き時代・・・(遠い目)。
私はワールド・トレード・センターやエンパイア・ステート・ビルなどの高層ビルを見学
しては、何か虚しさを覚えていた。
それは、

「こんなに立派なものを作ったのは過去のことであり、今のアメリカは決して生き生き
してなんかいない」

という気持ちだった。
その国の経済状態は、道行く人々の雰囲気まで変えさせてしまうのか。
あるいは私が、単に「今はしょぼくれちゃってる国」という偏見で、NYを見つめていた
だけなのかもしれない。

その後のアメリカの復活はめざましい。
逆に今(2002年5月現在)の日本ときたら、10年以上も続く「失われた時代」に未だ
苦しんでいるのだから、皮肉なものだ。
きっと今私がマンハッタンを訪れたなら、

「なんて輝いてる街なんだ!さすがアメリカ、ニューヨーク!ブラボーハラショー!」

と叫ぶに違いない。

ところで、若かった私にとっては少々ショックな出来事もあった。
なんと白髪のアメリカ人のおじいさんに、ナンパされてしまったのだ。

「スキを見せてたんだろっ」

という声が聞こえてきそうなので言い訳をさせてもらう。
私はその前日、グレイハウンドはとバスツアーに参加して、カーネギーホールや
テレビスタジオなどの名所めぐりをしたばかりだった。
そのとき、ツアーで一緒になった車椅子のおばあさんに声をかけられ、

「あなたは日本から来たの?私はマイアミに住んでるのよ。
一人旅なんて素敵ねぇ。
きっと若い頃のすばらしい思い出になるわよ」

と、それは優しいまなざしで私と握手をしてくれたのだ。
「旅でのこうした人とのふれあいって、いいものだな〜」
と大層気分良かった私。
その白髪のおじいさんに5番街で声をかけられたときも、その様な会話をできるもの
とばかり思ってしまったのだ。

そして誘われるがままにカフェ・・・よーく見渡すと夜はパブになるであろう店に入っ
た。
しかし人間のカンというものなのか、何となく

「昨日のおばあさんとこのおじいさんは、違う」

ということを私が察するのにさして時間はかからなかった。
しかしそれを悟られてやばいことになるのは嫌だ。
私はひたすら楽しく世間話を続けた。

そうこうして10分、いやそれ以上経った頃、そのおじいさんは
「この間、私はケイコという日本人の女の子にネックレスを買ってあげたんだ」
とか、
「彼女とは素敵なときを過ごすことができた」
とかいうことを話し始めた。

「来たねっ」

と思った私。ここはきっぱりとした態度を見せねばならない。
「私には日本に婚約者がいるんです(もちろん大嘘)。
私と彼は大変愛し合っており、うんたらかんたら・・・」
と、相手を怒らせないように、だがしかし「その気は無い」ということをしっかり伝える
べく話をした。

そのおじいさんは、嫌な顔ひとつ見せずに
「そうですか・・・彼と幸せになってください。
私はもう少しここで飲んでいきますから、あなたは観光を楽しんでくださいね」
と言った。
私はアメリカ留学をしていた友人の言葉を思い出した。

「ここでは、ドラッグにしろセックスにしろ、誘惑は確かにたくさんある。
でもね、ちゃんと最初に断りさえすれば、絶対にしつこく誘ってこないんだよ」

運もあったのだろうが、なんとか危機?!を脱した私。
気の良いおじいさんだと油断した私が確かに悪かったのだと思う。
いや〜色と欲にトシは関係ないのだろうな〜。
それかあのおじいさん、見た目よりも若かったのかもしれない。
白人はフケるのが早いからな〜。
それにしても旅に油断は禁物!
私はこのおじいさん事件の後、かなりブルーになってしまった。

さて、次の年1991年の2月、再び私は友人と共にマンハッタンに行ったのだが、
絶対に2度と、冬のNYには行かないと決意させられるほど寒かった。
10メートル歩いてはカフェで暖をとり、また意を決して外に出ては10メートルで挫折、
の繰り返し。
毛皮のコートでも持っていれば良かったのだが、本当に日本の寒さとは比べ物に
ならない。
はっきり言って、カフェにいる記憶しか残っていないのが実情である。
毎年ホームレスの人々が凍死するのも納得だ。

行くなら暖かい時期に・・・これはヨーロッパにも言えることだが。