―賞琴一杯清茗― 第五十二回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の四十八    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇八年十一月号第六一五号掲載

「世路中の人、或は功名を圖[はか]り、或は生産を治め、儘自[ひたすら]正經、爭奈[いかん]せん天地間の好風月、好山水、好書籍と了[つひ]に相渉らず、豈[あ]に一生を枉却[わうきゃく]するに非らずや」

世の中をわたる人は、功名を立てることをはかり、あるいは生業に従事してまじめ一途であるが、どうやらこの世の美しい風月や山水の自然美、よい書物とはまったく没交渉のようである。あやまった生き方をして一生をむなしく過ごしてるとは言えないだろうか。

 日本人は世界の中でも最も勤勉な国民だと言われます。資源のない国でありながら経済大国となりえたのは、働くことがそのまま善であり喜びとなり、遊んでいたり休むことは無駄なこと、それは悪いことだとされる道徳観に支えられて発展をとげたのではないかと思います。そのせいで確かに物質的には豊かになり、世界中のどんなものでも手に入るようになりましたが、その反面、心や精神はますます貧しくなってしまいました。それは何故かというにやはり「遊び」あるいは「休む」ということを忘れたからというのが一つにあると思います。いくら経済成長をとげても、どこか日本人は貧しく感ぜられるのはそのためではないでしょうか。忙しく働いているときは、無我夢中になって仕事をやりとげることの喜びを感じておりますが、しかしふと、暇になって時間ができたとき、遊びや休みというものを置き忘れていますのでその意味がわからなくなっている。効率を優先して競争社会に勝ち抜くためには休日さえ有効利用しなければならない、よけいなことにとらわれるより、仕事に毎日打ち込んだほうが人生を迷いなく過ごすことができる、と考えてしまうようです。しかしそんな生き方には無理があるとは言えないでしょうか。せっかくの休日もただ身体を休めることでしか過ごせない、夢中になってお金を稼いだはいいけれど、ただ貯めこむだけでそれを何に遣っていいかわからない、仕事一筋に来たせいで定年退職をしたらその後何をしていいかわからない、というようなことになってしまう。それではあまりにさびしい。いくら働いてもお金を貯めても決して豊かな生活は望むべくもありません。
 ほんとうの豊かさとは人生を遊ぶことをしなければならない、と言えば語弊があるかもしれませんが、「遊び」とは欲望を刺激するばかりの賭博などといった低俗なものではなく、遊ぶことによって生まれる心のゆとりを言います。ゆとりとは窮屈な生活の中に余白として広がる世界です。ゆとりが無いから遊べないというのは言い訳でしょう。遊ばないからゆとりが出来ないのだと思います。ゆとりは休んだり遊んだりしなければ生まれません。「遊び」は生活の中にゆとりという余分な余白をつくることです。「遊び」は芸術文化の源となるものであり、日常的な善悪の価値を超えたものと言えましょう。余白は無駄だからと、そこにまた生業とすべく仕事を持ってきてもしかたがありません。いつまでも豊かな生活には至りえません。その余白をどう活かすか、ただ遊ぶにしくはありません。余白とは自由の場所、そこにどんなものでも描けますし、自由に遊ぶことができます。一煎の茶もここでこそ味わえるものですし、一曲の琴韻はここに響きわたります。常に余白を持って生きること。文人的生き方というのは、この余白を作り、余白で遊び、余白に生きることだと思います。自然もまたこの余白にあります。文人的生活とはまさにここにあるでしょう。まだひもとかぬ良書、風光明媚な山水的風景は余白がはてしなく広がった世界です。文人的生活の神髄は余白を徹底して遊ぶことにあると言えます。






湘陰郭画 光緒丙子(1876年)



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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