―賞琴一杯清茗― 第五十回
 
琴楽譜『碣石調幽蘭第五』について    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇八年九月号第六一三号掲載

 今回は『碣石調幽蘭第五』という琴[きん]の楽譜についてお話ししたいと思います。
 この曲はたいへん古く、およそ一五〇〇年前のもので、唐代の写本(七世紀〜八世紀前半)が日本にのみ伝来して今に遺されています。音楽譜でこれ以上古いものは中国にも日本にもありません。東アジア最古の現存楽譜と言ってよいでしょう。現在は、国宝として東京国立博物館に蔵されております。この琴譜が伝来していることによって、日本は琴の国である証となるものです。
 この曲を伝えたのは、魏晋南北朝時代梁末期に生きた丘明(四九三〜五九〇年)という琴の名手です。楽譜の冒頭の序文にはこうあります。
 「丘公、字[あざな]は明、会稽(浙江省紹興)の人、梁(五〇二〜五五七)の末に九疑山(湖南省)に隠れ棲んだ。楚調に絶妙な曲がある。特に「幽蘭」一曲は最も精絶であり、その曲風は微妙にして志は遠く、人に伝授することができなかった。陳(五五七〜五八九)の禎明三年(五八九)に宜都王叔明に伝授し、隋の開皇十年(五九〇)に丹陽県に卒した。享年九十七。子は無かったので、その琴声はわずかなものが遺るだけとなった。」
 丘というのは孔子を尊ぶゆえに名付けられたものです。丘明は九十七歳の長寿をたもち亡くなりましたが、琴の子弟もいなかったと思われます。おそらくその音楽が高尚にすぎて人々に受け入れられなかったのでしょう。まさに孤高の琴人でありました。
 『碣石調幽蘭第五』(以下「幽蘭」)は、孔子の思想を尊びその聖徳を慕って大切に伝えられました。「幽蘭」と孔子については、後漢の蔡[巛+邑][さいゆう]が著わした『琴操』に次のような逸話があります。
 「孔子は諸国を歴訪して諸侯に謁[まみ]えたが、官につくことができなかった。衞国から魯国へ帰る途中、幽谷にひとり蘭の茂るを見て嘆じて言う、『蘭はまさに王者の香である。雑草の中にあってひとり茂る、譬えるなら、愚者の中にあって賢者に逢えないようなものだ』と。そこで孔子は車を止め、琴を援[ひ]きこれを弾じた。」
 孔子は、衆草の中にあって毅然として王者の香りを放つ幽蘭に、己れの姿を重ねて見たのでしょう。いずれの国も己れを受け入れてはくれず、疲れきって帰途につく孔子の憤懣やるかたない思いが伝わってきます。この時に孔子が弾じた楽器が現在見られる琴であるか断定できませんが、おそらく琴に似た弦楽器であることは確かでしょう。孔子は思想家であると同時に音楽家でもありました。
 この「幽蘭」という言葉の意味は、艶やかな蘭花をさすのではなく、雑草にまぎれて咲く「フジバカマ」のことを言います。古代中国において幽蘭とは神聖な植物でした。幽蘭を浸した香り高い蘭湯で禊[みそぎ]の儀式をしたり、身に帯びて邪気を祓ったり、乾燥させた葉を揉んで頭髪の中に隠したり、匂袋に入れて身に佩[はい]することなどが、中国の古い習俗としてありました。蘭室とは鉢植えの「蘭花」がならぶ室ではなく、刈り取った幽蘭を干して保存する室でした。
 「幽蘭」の曲調は、孔子の思いを偲ぶように沈鬱で憂愁にあふれています。文献的には漢代から「幽蘭」曲の系統はあって、別名「猗蘭」などとして明清代の琴譜に伝えられておりますが、多くの人に弾き伝えられる間に当然ながら変遷があり、作曲当時の面影をとらえるのは困難です。しかし、「幽蘭」はそれらの系統とは別にあり、一五〇〇年もの間大切に保存され原曲をとどめています。古代の音楽がそのまま現代に伝わっているというのは奇跡と言うしかありません。それにまた絹絃を張った琴では、その時とまったく同じ音色で奏でられるのです。
 雅楽には古い楽譜として「敦煌琵琶譜」や「天平琵琶譜」がありますが、これらは反古紙に伶人(職業的演奏家)が曲の覚え書きとして書き付けたものです。経文の裏面に書かれ、紙は貴重でしたので捨てられることもなく偶然的に今に遺ったに過ぎません。しかしながら「幽蘭」は専門の書家の手によって丁寧に書写され、完成した楽曲として伝えられました。名曲であるという自覚からそれを記述し、後世に伝えなければならない意志が存在しました。伝承者の名も確かに特定できるのは他の古楽譜にはあまり見られないことです。またその書写の美しさも唐代書風の神髄をあらわしており、美術品としても国宝にあたいする貴重な宝物と言えましょう。
 内容を見てみますと、音程や演奏方法が綿密な文章として書かれてあります。たとえば曲の冒頭、

中指を耶に臥せて十の上半寸許りに商を案じ、食指中指で宮商を雙牽す。
(中指を斜めに伏せて、第二絃九八徽を押さえ、右人差指中指で続けさま第一絃(解放絃)第二絃を手前に弾く。)

 というような記述の連続です。「徽[き]」というのは絃を等分にした十三個ある勘所の位置を言います。「宮商」とは絃名。このような文章が連綿と、縦二七・四cm、全長四二三cmに書かれてあるわけです。文章で書かれてあるから「幽蘭」は楽譜としては未熟であるというよりも、文章だからこそ普遍性があり、一人の楽人だけがわかる楽譜ではなく、後の時代の誰もが解読し演奏可能な楽譜だと言えましょう。琴の楽譜は後に「減字譜」という琴独特の記号楽譜に発展してゆきますが、減字譜に使われる同じ用語が「幽蘭」の中には多く見られます。
 「幽蘭」の曲趣は、変調を多く用いて複雑な曲構成を持ち、あたかも現代音楽のように難解です。指法も煩雑で高度なテクニックを要し、序文に言う通り「精絶にして微妙」なる趣きのある曲です。曲の終局に至って、二つの和音を泛音(ハーモニクス)で奏でる箇所があります。幻想的で神秘的な響きのある音色ですが、それを丘明は「神仙のような音」と注をそえています(挿図参照)。「幽蘭」は「志は遠く」高い芸術性をそなえた古代の名曲であり、西洋近代音楽に比してもなんら遜色のない楽曲です。まさに東アジアの至宝というべき音楽作品です。
 「幽蘭」の解読、研究は江戸時代の儒学者荻生徂徠(一六六六〜一七二八)にはじまります。徂徠は古代の礼楽制度を探究し、この「幽蘭」に出会いました。徂徠はこの曲について「其の譜は明朝の琴譜と大いに異なる。乃ち古楽は中華に傳を失ひ我が邦これあるを知る。其の譜を按じ琴を鼓するもまた容易なるのみ。」と書簡の中で述べています。彼は「幽蘭」譜を前にして実際に琴を弾じました。徂徠の「幽蘭」研究著作には『幽蘭譜抄』があり、返り点句読点を付し、左右に傍線を引き右手左手指法を区別し一般にもわかるようにしました。
 「幽蘭」はもともと京都西賀茂の神光院に伝来しており、弾琴が盛んであった平安時代には琴の曲として受け入れられていたようです。菅原道真の『菅家文草』の中に、

慙將碎瓦報幽蘭 慙づらくは碎けし瓦を將ちて幽蘭に報いむことを
(砕けたかわらのような身であっても、幽蘭曲のような高い顧みに酬い奉ろうと思う。)

 という詩句があります。しかし平安時代に弾琴の記録は残っておりません。「幽蘭」弾琴は江戸時代まで待たなければなりませんでした。
最も古い音楽こそ最も新しく現代的であること。「幽蘭」の音楽史的意義、芸術的価値はいくら贅言をついやしても言い尽くせないでしょう。






『碣石調幽蘭第五』部分。丘明の注。



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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