―賞琴一杯清茗― 第四十九回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の四十六    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇八年七月号第六一一号掲載

「聲色に情を娯しむるよりは、何ぞ淨几明窓一坐息の傾に若かん。利榮に念を馳するよりは、何ぞ名山勝概一登臨の時に若かん」

みだらな歌舞音曲や女色におぼれ、目や耳をたのします快楽にふけるよりは、少しの間でも、明るい窓から光が射し添うきよらかな机にむかい坐す方がどれほど幸福だろうか。名利栄達のために奔走して心労するより、風光明媚な名山勝地に少しの間でも分け入って、心身をたのします方がどれほど幸福だろうか。

 心踊らされる音楽や美食などに執心すると、それらはあまりに魅力的なものですからどこまでも止めどもなく追い求め続けてしまいます。人間の欲望には限りがありませんので、それを止めるのは不可能と言ってよく、それよりももっと魅力的なものに欲望を向けなければ止める手立てはないでしょう。自己の欲望を自在にあつかえるようになるには、まさに論語の「七十而從心所欲不踰矩」(七十にして心の欲する所に従って、矩を超えず)という境地に至らないと無理なことです。人生七十になるまで欲望に翻弄され続け、解放されないのですからあきらめなければなりません。
 美を味わい、美にひたることは人が生きてゆく上で最も大切なことですが、しかしそれによって心身を害したり自己を忘失するようになってはその美はたちまち醜に転じてしまいかねません。かえって快楽が苦痛のもとになってしまいます。美食を追求するあまり、粗末な食事がとれなくなったり、派手でにぎやかな音楽ばかり聴いていると、淡として無味な音楽がわからなくなったりします。欲望のおもむくまま盲目的に美をに追い求めるなら偏狭な見識しか持ち得ず、些細なことにとらわれて融通がきかなくなり、それこそ不幸におちいることになるでしょう。
 快楽や欲望に翻弄されないために、ふと我に立ち返るためには、塵ひとつない清浄な机に向かうことが一番です。何も置かれてない机上の前に坐ると、広漠とした世界があらわれるように思います。しばしの間、空虚なる世界に対していると俗情や煩悩が消えてゆくような気がします。その時に古人の至言つまった書物をひもとくなら、この上ない幸福なひとときが訪れます。書籍からあふれる高尚な気につつまれ古人と対話する快楽は何事にも代えがたいものです。読書に倦めばかたわらの琴をひき寄せ古曲を弾ずる。それに馥郁たる茗を喫すれば、これ以上の至福は無いかもしれません。
琴は、音楽といっても決して心躍るような派手な音楽ではありません。声色でありながら文学的な要素が多分にあるため、人を文雅な気分にさせます。その音色は心を落ち着かせ、弾き手も聴き手も瞑想にさそい、微妙で複雑で、淡とした無味の味わいは深く、低音も高音も他の伝統楽器にくらべ鮮烈です。楽器は新しく製したものであっても、二千年も前からの音色を今も変わらずに奏でることができます。
 琴を弾じ奏でることは、古人を慕いその心を理解することにあります。琴の曲は近代に作曲されたものはごくわずかしかなく、そのほとんどは古代からものもです。歴代聖賢たちが作曲したとされる曲が数多く伝えられています。菅原道真の詩に「偏[ひと]へに信ず 琴と書とは学者の資[たすけ]と」という句がありますが、学問することは単に知識を得るだけではなく、聖賢たちの心も理解しなければならない、そのために琴が必要だったわけです。「琴書」とならび称されるように、学問と音楽が同等にあった時代でした。
古代日本の法令集『令義解[りょうのぎげ]』には、「僧尼令」として「凡僧尼作音樂。及博戯者。百日苦使。碁琴不在制限。(僧尼は、音楽を作り、また博打をしたならば、百日間苦使する。碁や琴は規制の限りにあらず。)」とあります。また「學令」として「凡學生在學。不得作樂。及雜戯。唯彈琴習射不禁。其不率師教。及一年之内。違假滿百日者。並解退。(学生は在学中、楽を作り、また雑戯してはならない。ただし琴を弾き、弓射を習得するについては禁止しない。師の教えに従わず、また一年以内に不正休暇が満百日となったならば、いずれも退学させること。)」とあります。これをみると、琴を弾ずることは仏道修行や学問のさまたげにはならない音楽であったことがわかります。
 琴は禁に通じます。『白虎通義』班固(三二〜九二年)には「琴は禁なり。淫邪を禁止する所を以て、人心を正しうす」とあります。琴の音色は盛んなる情欲を優しくいなすかのように、静かに響きます。明窓淨几には常に書と琴が置かれてあります。

 営利栄達もまた限りないものです。これを望めば限度はないでしょう。世の中の活動の源はみなここにあると言ってもよいかもしれません。人は営利栄達を目的として生きていますが、その営利栄達の目的ははたして何かを考えると、そのことだけに専心してそれで人生が終わってしまってよいものかと思います。この条は、利栄に思いを馳せるより山に登ったほうがましだと言っておりますが、人生は営利栄達が最終の目的ではないと言っているように思います。もっと他にやるべきことがあると。自分の仕事を最後までやりとげること、おそらくその後ろに営利栄達というのはついてくるものなのでしょう。そうでありたいと思います。






『對山画譜』より 明治十二年刊



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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