―賞琴一杯清茗― 第四十六回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の四十三    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇八年四月号第六〇八号掲載

「衡門の下、琴あり書あり、載ち彈じ載ち詠ずれば、爰に我が娯を得、豈他の好み無からんや。是の幽居の樂み、朝に灌園を爲し、夕に蓬廬に偃[ふ]す」

二本の柱に横木を架け渡しただけの祖末な門の住まいには、琴があり書物がある。琴を弾じ詩を詠ずれば、それだけで我が最上の娯楽は尽くされる。他に好いものがないというわけではないが、このひっそりと俗世間を避けた暮らしを楽しんでいるのだ。朝には畠に水をやり、夕暮れには草葺きのあばらやで手足を伸ばして寝るのである。

 「衡門」は冠木門[かぶきもん]の一種、屋根を持たず門扉も無いような質素な門で、貧しい隠者の住居のことを言います。この条は、もともと陶淵明の詩「答龐參軍(龐參軍に答ふ)」にある詩句でそのまま『醉古堂劍掃』に載せられています。
 世間的な制約を一切受けず、自由気ままに自然とともにある隠者の生活はまさに人生の理想とすべき暮らしと言えましょう。衡門と蓬廬は山水画の点景のように実に絵になる風景です。そうは言っても、我々は豊かな暮らしを求めて生きているのであって、祖末な門構えや雑草生い茂る家など、そんなもののために毎日働いているわけではない、と批判されそうですが、もちろん立派な門扉を衡門に仕立てたり家を蓬廬に建て替えところで何の意味もありません。一生をかけて内面の充実、自己の本性の達成を求めていたら、自ずとなるがままにそのような生活になってしまうということです。自己の本性とは、すなわち自由と自然を求める心です。たしかに豊かな暮らしは貧困よりはるかによいものであって、貧しい生活は人々の最も嫌うものでありますが、人の幸福とは何か、人生の目的とは何かを考えると、豊かな暮らしだけでは至り得ないものがあるように思います。
 陶淵明は一族を養えるだけの収入が得られる官職を捨てて、田園へ帰りました。それだけに淵明には自己の本性を達成しようという強い願いがあったことがうかがえます。田園へ帰った淵明は愛すべき家族に囲まれて、酒を飲み詩を吟じ琴を弾じ充実した日々を送っております。彼は豊かさと引き換えに幸福を手に入れたのです。
 たとえ貧しくとも家には琴と書がある。この二つのものは極め尽くしてもきわめ尽くせず、奥深い無限の世界の広がりを持ち、一生を費やす価値があるものです。否、すべての時間を費やしてさえも至り得ることは難しい。「書」とは淵明にならって詩を詠ずるとするなら、よく言われることですが「人生は短く藝術は長い」ということでしょう。琴と詩と。この二つのものを最上の娯しみとした淵明は最も幸福な人生を送った隠者であり文人です。貧しい生活の中にも至福の時を生きた理想とすべき姿が淵明にはあります。琴を弾じ詩を詠ず。琴と詩は精神的な豊かさの象徴とも言えます。文人を理想とし、また文人を自称するなら、この二つは無くてはならないものです。
 詩については多くが語られ、漢詩についての書籍は今でもたいへん多く出版されています。漢詩を学び漢詩をたしなむ者は、幕末明治の最盛期と同じくらい、否、それ以上に隠れた漢詩人が存在しているかもしれません。しかし琴についてはあまり語られず、残念なことに現代日本では忘れられ失われた音楽となってしまっています。琴を弾ずる者はまれで、琴と言えば十三絃箏や和琴[わごん]と同じ類いの楽器と思われ、陶淵明がこよなく愛した同じ楽器と理解する者さえ多くはいません。弾ずる者がいないというのは、今も昔も隠者や文人が少ないことの証なのかもしれません。
 琴はもともと中国の楽器ですが、奈良時代の昔から日本にありました。平安時代に興隆の時期がありましたが、江戸時代が最も流行した時で、幕末までの約二〇〇年の間に実に六五〇人もの弾琴者の名をあげることができます。他の邦楽器とくらべこれだけ多くの名が残っているというのは、琴を弾く者はすべて文人だったからで、詩文や伝記、日記などに文字として記録が残されているからです。江戸の琴人たちは、中国への憧憬、あるいは孔子を慕い礼楽の復興のために琴を弾じました。そしてなによりもその静謐で幽玄なる音色は、隠棲する文人にとって最上の娯楽となり慰めとなるものでした。
 浦上玉堂の詩に「掃石彈琴」というのがあります。

掃石彈琴隱益眞  石を掃[はら]って琴を彈ずれば隱益々眞なり
寂然虚室絶來賓  寂然たる虚室 來賓を絶つ
坐移白日松間色  坐[いなが]らにして白日移る 松間の色
夢破幽禽竹處頻  夢は幽禽の竹處に頻りなるに破らる
心遠自親人外境  心遠[はろ]けくして自ら人外の境に親しみ
身清殊覺世中塵  身清くして殊に世中の塵を覺ゆ
塵埃不到門不鎖  塵埃到らず 門鎖[とざ]さず
這裏青山朝夕新  這裏の青山 朝夕新たなり
(石を掃き清め、その上に坐して琴を弾けば、いよいよ世を遁れたことが身にせまる。たった一人静まりかえった室にいて、来る客も無い。琴を弾いて一日が過ぎてゆき、松林に夕日が映って、日が暮れたことを知る。朝は竹林の陰でしきりに鳴く鳥に目を覚まし、心は遠く遙かに、自ら世外の境地に親しんでいる。身は清潔だからこそ、俗世の汚れを知ることができるのだ。塵埃はここには来ない。だから門を閉ざすこともない。ここから眺める青山は朝夕新たに美しく変化する。)

 玉堂もまた自己の本性を達成するために官職を捨てた人です。幼い二人の我が子を伴い、脱藩という武家社会からの逸脱は、その後の玉堂親子の生活にとって窮乏の日々だったに違いありません。そうせざるを得なかったのは、豊かな暮らし以上に価値のあるものを求めたからです。玉堂のような隠者にして文人がかつて日本にいたことを誇りに思い、かつ理想の境地を得た人物として憧憬しないわけにはいきません。









『邊氏画譜』より「淵明歸去來」渡邊玄對 文化四年(一八〇七)



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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