―賞琴一杯清茗― 第四十四回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の四十一    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇八年二月号第六〇六号掲載

「千載の奇逢は、好書良友に如くは無く、一生の清福は只茗椀爐烟に在り」

千歳一遇の奇縁というものはよき書物やよき友人に出会うことで、それ以上にまさるものはなく、生涯の清福というのはただ茶と香だけである。

 『醉古堂劍掃』には好書に出会うことの尊さを述べた条がたいへん多く見られます。文人にとって書物はなくてはならないものだからでしょう。文人と読書人とは同義のものであり、書を読む行為はまさに文人の姿そのものです。しかし、好書と言っても世間で名著名作と呼ばれるものがはたして好書とはかぎらず、それらを書棚に陳列したところで何の意味もありません。なによりも自分がその書を読んで感動、あるいは共感することが大事なことで、どんなに善いことが書かれてあっても自分にとって得るものがなければ好書とは言い難いものです。読書はきわめて個人的な体験と言ってよく、自己と同じ感性、思想が共鳴しあうような書こそが好書と呼ぶべきなのです。好書は得難く、多くの書物を読まないとなかなか出会うものではありません。読書というのは、本来この好書に出会うための営みなのかもしれません。人が語った言葉をありがたがって批判せずに一字一句一生懸命読むというのではなく、自分が求め欲している言葉を多くの書物の中から探し出すこと、自分の今の心境をずばり言い当ててくれる言葉に出会うために人は読書するのではないかと思います。そしてもし自分の心情や考え方とぴったり合う言葉を見出したなら、それこそが「千載の奇逢」と言うべきでしょう。
 環境や心境によって読書が違った味わいを持つことを、明治の随筆家市島春城は「讀書八境」の中でこう述べています。
 「古語に居は氣を移すとあるが、居所に依つて氣分の異なるは事實である。讀書も境に依つて其味が異なるのは主として氣分が違ふからで、白昼多忙の際に讀むのと、深夜人定まる後に讀むのとに相違があり、黄塵萬丈の間に讀むのと、林泉幽邃の地に讀むのとではおのづから異なる味がある。忙中に読んで何等感興を覚えないものを間中に読んで感興を覚えることがあり、得意の時に読んで快とするものを失意の時読んで不快に感ずることもある。人の氣分は其の境遇で異なるのみならず、四季朝夕其候其時を異にすれば亦同じきを得ない。隨つて讀書の味も亦異ならざるを得ないのである。」
 春城は読書の境を八つあげています。
 「羈旅、醉後、喪中、幽囚、陣営、病蓐、僧院、林泉」
 それぞれ読書にふさわしい環境とその長所を述べておりますが、やはり文人にとって「林泉」の境が最も適しているでしょう。おそらく春城も常にこの境地にいて読書していたものと思われます。
 「林泉も亦讀書の一境である。人里遠き山や林に市塵を避け、侘びた草庵を結んだり、或は贅澤を極めた風景地の別莊など皆此の境地に屬する。寛いだ氣分で讀書を爲すはかゝる處であらねばならぬ。日夕接客に忙殺され、交際に日も亦足らぬ繁劇の人が靜かに讀書に親しみ得るは此境が最も適してゐる。或は温泉場を讀書の處に選ぶのも、山海の旅館を假りの住居として夏時暑を避けつゝ讀書三昧に入るのも亦同日の談である。連續的に書物を讀む必要がある時、著述の爲めに書を讀む時には、何人も林泉の境を喜ぶ。清閑である外に精神を養ふ自然美の環境が備つてゐるからである。僧院生活に似て、類は乃ち異なつてゐる。」
 読書三昧に耽られる自然美と清閑の環境がととのえば、多くの好書に出会える好機が生まれるに違いありません。
 良友に出会うということも、また好書と同じで、いくら「千載の奇逢」と言っても有名人や地位にある人、貴人に会うことではありません。上下関係もなく、気心が知れて、己が心情や思想を理解してくれ、同じものを共感を持って共有できるような友の存在は、まさに人生の宝です。それはまた幼年期からの同郷の友や仕事上お互いに助け合う友とも違ったものです。「讀書八境」を以てなぞられるなら、やはり「林泉」の境において共に生き味わうことが出来る友こそが良友となるのではないでしょうか。

 この「茗椀」というのは『醉古堂劍掃』が書かれた明代は煎茶や淹茶が流行した時代ですので、やはりその類いのお茶でありましょう。馥郁とした一杯の茗椀の中に人生の清福を見出すことができるならとても幸福なことです。お茶の味と香りは衣食住に必要不可欠とは言い得ませんが、生活を豊かに美しくさせるのがお茶の効能というものです。お茶の無い生活は、好書良友の無い人生と同じことで、日々の生活に意味を与えてくれ、人間の精神生活にとって無くてはならない必要不可欠なものと言えましょう。
 夏目漱石の「草枕」に玉露を喫す有名な場面があります。
 「茶碗を下へ置かないで、そのまま口へつけた。濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へ一しずくずつ落して味って見るのは閑人適意の韻事である。普通の人は茶を飲むものと心得てるが、あれは間違だ。舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉[のど]へ下るべき液はほとんどない。ただ馥郁たる匂が食道から胃のなかへ沁み渡るのみである。歯を用ゐるは卑しい。水はあまりに輕い。玉露に至っては濃[こまや]かなる事、淡水の境を脱して、顎を疲らすほどの硬さを知らず。結構な飲料である。眠られぬと訴ふるものあらば、眠らぬも、茶を用ゐよと勧めたい。」
漱石も一煎の茗椀に生涯の清福を味わったに違いありません。
 漱石が生きた明治時代は最も煎茶が興隆した時代です。全国各地で催された書画会において煎茶は供されました。詩を吟じたり、書画の揮毫、観賞の合間に茶を喫したわけですが、ここは堅苦しい抹茶ではなくどうしても煎茶でなくてはなりません。お茶だけの世界に神経を集中するのではなく、書画を眺めるために茶を喫し、あるいは詩を吟じたあとに茶を喫するのです。逆もしかりで、美味しいお茶を喫するために書画をながめ、お茶の味に想を得て詩を吟じるわけです。雅会に集う人々の心を和ませ、儀礼を排してひたすら美味なる茶を追求する煎茶は、自由を求める文人精神に最もよく適うものです。抹茶は茶人の茶であり、煎茶は文人の茶であると言われる所以です。一茗椀の中の清福とは文人世界そのものだと言えるでしょう。

 「爐烟」とは炉に燻[くゆ]る香ということです。これもまた衣食住には関係のない事柄ですが、雨露や寒暑を避けるための居室が、一炷[しゅ]の香によってたちまち別天地となります。香を燻らすだけで、日常から非日常へと生活に豊かなゆとりが生まれ、その中に座せば清福を感ぜずにはいられないでしょう。一炷の香は居室を仙界に変えてしまう演出効果があります。








『古今畫藪後編』宋紫石 明和八(一七七一)年より



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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