―賞琴一杯清茗― 第四十三回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の四十    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇八年一月号第六〇五号掲載

「日月は驚丸の如く、浮生と謂ふ可し、惟靜かに臥す是れ小延年。人事飛塵の如し、勞生と謂ふ可し、惟靜かに臥す是れ小自在」

歳月は弾丸のように勢いをもって飛び去るものだ。はかない人生である。ただ静かに寝そべることだけが、小さくも不老長生の術と言えよう。人事は浮遊する塵のようにさだめなく飛び回るものだ。苦労の多い人生である。ただ静かに寝そべることだけが、小さくも自由自在の境地と言えよう。

 生きると言うのは、面倒くさくわずらわしいものです。それは当然なことで、衣食住の確保のためにせっせと働かなければなりませんし、名声や地位を維持するため、贅沢をするためにあえて面倒臭いこともしなければなりません。その中にこそ生きる喜びもあり楽しみもあるわけですが、また悲しみも憂いも生まれます。古人は常に、人の営みとははかなく泡沫のようなものだと言い続けていました。人生など他愛もないことだと。それは悲しみに満ちた世の中を少しでもやわらげるための言葉なのでしょう。また快楽に自己を失わないための。
この「浮生」とは、李白「春夜宴桃李園序」の冒頭の句からのものです。

 夫          夫れ
 天地者萬物之逆旅也  天地は萬物の逆旅なり
 光陰者百代之過客也  光陰は百代の過客なり
 而          而して
 浮生若夢       浮生は夢の若し
 爲歡幾何       歡を爲すこと幾何ぞ
(そもそも、広大な天地とは、万物を迎え入れる旅館のようなもの。流れゆく光陰とは、永遠に絶えることなき旅人のようなもの。そして、定めなき人の生命は、夢のごとく、歓び楽しむ歳月は、どれほどもない。(松浦友久訳))

 短くもはかない人生であっても一生懸命生きなければなりませんし、窮屈な世間からもそう簡単には自由になれません。そんな己が人生を遠い出来事として眺め下ろすように、寝そべってぼんやりすることはとても心地よいものです。はたから見れば自堕落に怠けて過ごしてるとしか映りませんが、事実その通りですが、疲れきって休憩していると思えば誰も文句を言わないでしょう。これは一日の生活の休息のための睡眠とは違います。睡眠は一日の活動のためになくてはならないもので、生物としてのいとなみに過ぎません。日本人は勤勉を旨とし、労働を善とする民族ですので、遊んでいたり怠けていたりするとたちまち罪悪感にさいなまれ、追い立てられるように何かをしなければならないと思ってしまいます。「心のゆとり」というのは勤勉さや努力をしたところで生まれるものではありません。しばし人生を休憩すること。これができれば必ずや「心のゆとり」というものが生まれるに違いありません。
 わずらわしいこと、面倒くさいことをすべて投げ打って、何も考えず何もせず、夢見ているのか目覚めているのか、ただ寝そべって想いは遠い青山の彼方をさまよう。そんな過ごし方をすると、世間の外に出てまるで無用者になったかのように自由を得た心地がするものです。人のため、世の中の役に立たなくとも人は生きて行けるのだと心が報われる思いがします。
 『荘子』「人間世編」第四にこのような話があります。

 石という名の大工の名人が、ある時、斉の国を旅行して曲轅という土地にやって来、その地の社に聳えたっている櫟の樹を見た。鬱蒼と繁ったその木立の蔭に牛の群が憩えるほどの大木であり、幹の大きさを量ってみると百かかえもあり、その高さは山を見下ろすほどで、地上八十尺ほどしてやっと枝がついており、舟材に使えるほどの大きな枝が十幾つもあたりにひろがっているという世にも珍しい巨木。その巨木を見物しようとする人だかりが市場のような雑踏であった。
 しかし棟梁の石は、これに目もくれないですたすたとそのまま通り過ぎてしまった。じっとその樹に見とれていた弟子たちが、慌てて師匠のあとを追っかける。
――我々が斧やまさかりを手にして先生の弟子になってから、こんな素晴らしい材木は見たことがありません。にもかかわらず先生は、目もくれずに通り過ぎてしまわれますが、いったいどうしたわけですか。
――馬鹿をいうでない。あれは散木、無用の材木だ。あの木で舟を作れば沈んでしまうし、棺桶を作れば直ぐに腐るし、道具を作れば直ぐにこわれ、門や戸を作れば脂が吹き出し、柱にすれば虫がくう。全く何の使い道もない無用の大木だ。そして何の使い道もないからこそ、こんなに長生きできたのだ。
さて、大工の石は旅を終えて我が家に帰った。その夜のこと、ぐっすりと眠っていた彼の夢枕に立ったのは、あの神木の櫟の精。
――おい、石よ、お前はこの俺を何に比較しようして散木(役にたたぬ木)などとぬかしたのだ。お前はこの俺を文木(人の役に立つ材木)にでも比較しようというのか。
そもそも人間どもの珍重する柤[こぼけ]・梨・橘・柚などの木は、珍重されるが故に実が熟すればもぎとられ、あらぬ辱めを加えられる。大きな枝は折り取られ、小さな枝はたわめられ、とんだ災難を受けるが、これというのもその実が人間どもの口を楽しませるという取柄があるからにほかならない。だから天然の寿命も全うできずに、途中でくたばってしまうのだ。全く自業自得で世俗に掊[う]ち撃かれるというやつだよ。しかしこれは何も植物に限ったことではない。世の中の物、みな然りだ。けれどもこの俺は違うよ。俺はずっと以前から人の世に無用であることを願いとしてきた。その願いが死も近づいた今となってやっと叶えられ、お前から散木呼ばわりをされることができたが、これで俺も真に役に立つことができるというわけだ。ところでこの俺が何か取柄のある木ででもあったなら、とっくの昔に伐り倒されて、とてもこんな大木にはなれなかっただろうよ。それに一体全体、俺を役立たずというお前も、お前から役立たずといわれる俺も、もとはといえば、ともに同じ大自然のなかの一物ではないか。同じ自然のなかの一物であるとすれば、一切万物はみな斉同であって、どうして互に他を価値づける資格などあろう。お前のようなくたばりかけた能なしに、この俺が散木であるかどうかなど分かりっこないのだ。(福永光司訳)

 そんなとりとめもないことを考えながら寝そべっていますと、いつの間にか日が暮れてしまいます。あまり長い間、何もせずにぼんやりしていますと、身体もだるくなってきますし、弾丸のように過ぎ去る時間がどんどん失われていきます。英気も養われてきたことですので、起き上がって俗世間に帰るとしましょう。





『繪本直指寶』橘守國 延享二年(一七四五)より



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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