―賞琴一杯清茗― 第四十二回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の三十九    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇七年十二月号第六〇四号掲載

「霜降り木落つる時、疎林深き處に入り、樹根の上に坐すれば、飄々たる葉は衣袖に點じ、而して野鳥樹梢より、飛び來りて人を窺ふ、荒凉の地は、殊に清曠の致あり」

霜が降りて、初冬にいたると木々の葉は地面に敷かれる。まばらな林に分け入り散策し、樹の切り株に坐れば、ハラハラと落ち葉は衣服の袖に降りかかる。見上げれば、野鳥が樹上より飛び来たりて、我が動向をうかがっているようだ。冬の初めの荒凉とした空しい風景は、我が心を清爽ならしむ趣がある。

 関東近辺では雑木林がどこにでも見られましたが、今ではほとんど失われつつあります。今は石油が燃料として使われていますが、昔は櫟[くぬぎ]や椎の木を植林して管理をし薪にしたり炭焼きにして燃料としていました。そのために都市部周辺には雑木林は無くてはならないものでした。山中の林よりも平地の雑木林はさほど深くはなく疎林というべく、散策するのにとても適しており、植林ゆえに自然であっても庭園のような趣があるものです。子供のころ、夏の日盛りの雑木林は昆虫たちの宝庫で、まさに楽園、迷い込めば日が暮れるまで一日中出て来ることがなかったことが思い出されます。しかし大人になるにつれ、葉が落ち尽くし虫たちが死に絶えた冬の雑木林のほうがよくなってきて、想いに沈みつつひとり分け入り、枝ばかりなった木々を眺めながら寂寥感に身をゆだねることが心地よく思うようになるものです。
 この「清曠の致」すなわち、荒凉とした枯林の風景を美しいとする心は、血気盛んな若年では理解できない至りえない境地かもしれません。若さにおいて美しいとするのは、誕生、豊穣、盛大といった生命力あふれる美であって、終わりゆくもの、衰えゆくもの、滅びゆくものは美とは正反対に嫌悪すべき醜悪なものとして映ります。しかし盛大なものは必ず衰える時が来ますし、命あるものは必ず死がおとづれます。それを知った時にはじめて本質的なものを理解し、「清曠の致」なる境地に至り得るのでしょう。若さは単に未熟だということです。誕生、豊穣、盛大のあとに成熟した「清曠の致」があるわけです。長い時間をかけて最後に到達するというのは老いを重ねなければならないということです。この「老い」というのもまた嫌悪すべき醜悪なものとするのが世のならいですが、「若さ」だけが支配するようでは浮薄な世の中になってしまうでしょう。現に今の世の中を見ますとそうなっているように思います。老人は「老い」を恥じ、若者は老人を敬いません。経済を成長させることや欲望を満足させることを目的とした「若さ」にばかり価値をおいて「老い」の価値を見失っているような気がします。老人もまた、若々しく、生き生きと若者のように人生を送ることが善であるとしているようです。「老い」の価値というものは、内面的精神的に成熟老成してゆくことです。老いることでようやく理解できることや、発見するものがあるはずです。それがおそらく人類の深い叡智というものでしょう。老化というのも、一日の終わりの黄昏や秋の夕暮れのように人生の終焉を生きることに他なりません。老いてますます華やぐというのは、花々しく春爛漫を生きることではなく、夕陽が沈むその終わりゆく輝きの中にこそあるべき姿だと思います。豊穣にして盛大なる世の中を内面的に守り支えているのが老人の存在です。
 明治の文豪、国木田独歩の「武蔵野」には『醉古堂劍掃』のこの条によく似た情景が描かれています。
「眞直な路で兩側共十分に黄葉した林が四五丁も續く處に出る事がある。此路を獨り靜かに歩む事のどんなに樂しからう。右側の林の頂は夕照鮮かにかゞやいて居る。をりをり落葉の音が聞こえる計[ばか]り、四邊[あたり]はしんとして如何にも淋しい。前にも後にも人影見えず、誰にも遇はず。若し其れが木葉落ちつくした頃ならば、路は落葉に埋れて、一足毎にがさがさと音がする、林は奧まで見すかされ、梢の先は針の如く細く蒼空を指してゐる。猶更ら人に遇はない。愈々淋しい。落葉をふむ自分の足音ばかり高く、時に一羽の山鳩あわたゞしく飛び去る羽音に驚かされる計り。
同じ路を引きかへして歸るは愚である。迷つた處が今の武藏野にすぎない、まさかに行暮れて困る事もあるまい。歸りも矢張[やはり]凡その方角をきめて、別な路を當てもなく歩くが妙。さうすると思はず落日の美觀をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染て、見るがうちに樣々の形に變ずる。連山の頂は白銀の鎖の樣な雪が次第に遠く北に走て、終は暗憺たる雲のうちに沒してしまふ。
 日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武藏野は暮れむとする、寒さが身に沁む、其時は路をいそぎ玉へ、顧みて思はず新月が枯林の梢の横に寒い光を放て居るのを見る。風が今にも梢から月を吹き落しさうである。突然又た野に出る。君は其時、

山は暮れ野は黄昏の薄かな

の名句を思ひだすだらう。」

 ここに引用された俳句は松尾芭蕉の句と思われがちですが、与謝蕪村の句です。蕪村は芭蕉を生涯を通して敬愛し慕っておりました。蕪村の句には若々しく色彩的で絵画を想わせるものが多くありますが、この句のように芭蕉的な「寂び」たものも多くあります。「寂び」というのはなかなかに難しく、何が「寂び」なのか言い尽くせないものがありますが、この「清曠の致」と共通した美意識があるように思います。荒凉として、終わりゆき、衰えゆき、老いゆく姿であり、もの皆すべて無に帰す風景、結局は何もかもが無になってしまうことを暗示させるのがこの「寂び」であり「清曠の致」なのではないかと思います。
 文人は「若さ」よりも「老い」を愛します。「老い」を嘆き悲しまず、愛することができるなら、それこそ内面的に豊穣かつ盛大な人生が送れると信じます。








『芥子園畫傳』より



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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