―賞琴一杯清茗― 第三十八回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の三十五    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇七年七月号第五九九号掲載

「江湖相期し、煙霞相許すを以て、同心の雅會に付し、意氣の良遊に託し、或は戸を閉ぢて書を讀み、累月出でず、或は山に登り水を玩び、竟日歸るを忘る、斯れ賢達の素交、蓋し千年の一遇なり」

 志を同じにする人々と風光明美な川べりや湖に、世を逃れて隠れることをお互いに相約束し、霧にけぶる自然の美しい風景をともに観賞することで心を許し合い、友人らとともに集って風雅な会合を催し、心は相投合し連れ立って自然の中に遊ぶのである。あるいは門戸を閉ざして書を繙[ひもと]いて、読書して歳月が移り変わるのも忘れて戸外に出ず、また山に登り、川の流れに舟を浮かべて、日が暮れるまで家路につくことを忘れてしまう。このような交渉は、賢人達士の古くからの日常の交わりである。しかし千年に一度遇えるか遇えぬか分からない清遊である。

 気心の知れた友人とともに隠遁生活を楽しむこと、あるいは終日、書斎にこもって読書にふけることはどちらも得難く、それこそ大袈裟ではない千歳一遇の風雅な時の過ごし方でありましょう。なぜならそれを求める高い志と深い学識、それと美を愛する心がなければそれを楽しむことができないからです。これは財産や地位を求める続ける社会生活からは決して得ることのできないものだと思います。財産があれば閑暇を得ることはできますが、そのために多くの時間を犠牲にしなければなりません。一日の閑を得るために、それこそ三六四日を労働に費やすこともあります。それで得た一日はなんと貴重なものでしょう。要は財産を求めるか、一日の閑を求めるかの違いです。どちらが人生にとって大事なものか、答えはおそらく両方ともに同等な価値があるものでしょう。
 また高い地位を得たとしても、風流を解する心が共にそなわるかはわかりません。人柄も厚く人望も高い人があるていどの地位につくことはありましょうけれど、自然への思いや詩的な心というのは地位とは関係ないところにあります。かえって世のはぐれ者やすね者になることが多いのが文人のあり様です。歴代の文人たちはもともと地位を保証されていましたが、それでも社会的に認められず清貧を余儀なくされた文人がいかに多いことか。人生の目的を財産や名誉に求めなかったのですからそれは仕方のないことです。それでも身近な人々からは尊敬されていました。風雅に生き、風雅に死すことを求めた彼等を畏敬の念をもって見守っていたことでしょう。死後にいたってはじめて、その偉業が認められたり、多くの人々から高い人格者として尊敬されるようになるのです。文人はいつも憧れの対象です。憧憬を抱くというのは、自分からは遠い存在だからかもしれません。文人になることは、この『醉古堂劍掃』の条のように千年に一度遇えるか遇えぬか分からないことと言えます。
 それにしても気心が知れて志も同じくする友人たちと、風流な雅会を催すことは楽しいものです。雅会というのは文人たちの集いのことです。文人雅会、文人雅集のはじまりは中国宋代の西園雅集(『煎茶道』二〇〇六年九月号「―賞琴一杯清茗―第二十八回」参照)がその魁[さきがけ]と言われていますが、魏の時代の竹林七賢人や、東晋の王羲之らの詩の会、蘭亭曲水の宴に遠くその淵源を求められるかもしれません。集いのための媒介となったものは、酒であり詩であり清談であったわけです。もちろん琴や茶などはそれらに伴い供されました。琴や茶は文人雅会になくてはならない必需のものです。馳走を饗応するような宴だけなら宮中でも行われていましたし、結婚の宴などごく普通にあったことでしょう。文人の集いというのはそういった俗世間の生活習慣的な集まりではなく、風流をこよなく愛し、俗なるものを否定する気概をもった人士たちが引かれ合うように集まった会ということです。竹林七賢人にしろ西園雅集にしろ、同じ志をもった人士が集まるというのは、千年に一度しかないことでしょう。現代にこういった文人雅会を行うとしたら、ちょうど千年目にあたることを願うばかりです。
 日本の戦前までは漢詩結社が全国に多くあり、文人の気概をもった人士たちが集まって煙霞ただよう明媚な地を清遊して漢詩を吟じました。文人雅会の伝統が生きていたわけですが、現代では煎茶会にその血脈が流れているように思います。また俳句会など全国各地で盛んに行われておりますが、これは文人雅会の理念とは違った趣の集まりと言えます。
 もう一つ、千歳一遇の営みに終日読書があります。これはすぐにも実現可能のようですが、いざ実行してみるとなると日常生活のわずらわしさを片づけなければ、そんな時間はなかなか得られません。老年期にいたれば、そういう時間は多く得られると思いますが、盛年期においては一日の閑など一年に一回あるかないかでしょう。老年期でさえ、長生することはまた稀なことで得難いことです。ある中国文学者の老碩学が晩年にいたって、もう読書するしかできないと嘆いていました。人間の最期の営みは読書しかないのではないでしょうか。死を迎えて何もできない状態で、人間らしいことをすれば書を目で追うことだけかもしれません。読書することは人間であることの唯一の証となるものだと思います。
終日読書に耽ること。やはり人生においてそれは最も幸福な時間です。








松壑會琴圖 洪子範 宋代



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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