―賞琴一杯清茗― 第三十七回
 
米子での琴会    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇七年六月号第五九八号掲載

 かつて江戸の琴人、浦上玉堂や鳥海翁雪堂は琴を抱え諸国を旅した。そんな先人の姿を慕いながら五月十二日、米子へ琴を弾きに行きました。
しかし現代は便利さが最優先される時代。江戸の旅など夢のまた夢、東京から米子まで二時間たらずで着いてしまう飛行機に否応なく乗るしかありません。旅を楽しむなら列車がいいとは言いますが、それとて同じこと。江戸の旅に比べたら、「旅すること」はもはや「移動すること」にほかならないのが現代の旅のあり方でしょう。
 演奏しに行くときはいつも肩から琴をぶらさげて出かけるのですが、これがあやしまれる恰好のようなのです。大切なものですから機内に持ち込むのですが、空港では何を疑うのか二度も金属探知器の中を通されました。さらに中身は何かと聞かれ、「琴[きん]」と答えると金塊と誤解されてはいけませんので、ただ「楽器」と答えます。それで納得するらしく、それ以上中身を見せるようにとは言われずに無事通過します。
 機内では、始終琴を抱き抱えているわけにもいかず、かと言って荷物とともに押し込むわけにもいかず、見かねた乗務員が特別に格納する場所を作ってくれて、膝掛けを何重にもしてくるんで安置してくれました。楽器に対する扱いは慣れているようでした。
 無事米子空港に到着すると、今日の講演・演奏会の主催者である山陰歴史館の学芸員の人が迎えに来ており、車で移動。海沿いを走り、延々と続く老いた松林を眺めながら、遠く米子までやって来たという旅の情趣が満たされました。
 本日の演目は、「源氏物語と王朝文化−琴の音によせて−」というものです。『源氏物語』には多くの琴の場面があり、光源氏も当代随一の琴の名手として描かれているのですが、源氏が弾じた琴が七絃琴であるということはあまり認知はされていないようです。琴をキンとは読まず、コトと読んでしまうとどうしてもお箏[こと]になってしまい、それなら多くの人の知るところの楽器で、源氏は女性にかこまれて自らもお箏を弾いたとするのが一般です。国文学者の間では源氏が弾いた琴は七絃琴だというのは常識になっておりますが、なかなか一般の人々の知るところとはなっていません。そこで講師に米子高専の国文学者H氏を迎え、「源氏と琴」の話をしていただき、筆者の実演をまじえながら雅な王朝文化を伝える演奏会となりました。
 会場は古風な煉瓦作りの米子市役所旧庁舎会議室で、定員以上の満席となりたいへん盛況でした。演奏した曲目は「酒狂」「流水」「漁樵問答」。初めて琴を耳にする人がほとんどで、いつもそうなのですが、その音の小ささに一様に驚かれます。歴史館では来場者にアンケート調査を行い、その結果を読ませていただきました。
 「落ち着いた静かな響きを楽しみました」
 「素朴な音ながら雅な平安の時を思い起されました」
 「古代に返った気持ちでした」
 「静かな音色で、非常に内省的な雰囲気で人工の光のない灯明の世界にぴったりだと思う」などの感想が書かれてありました。
 マイクを通して多少音を拡声したのですが、しかしスピーカーからの音を消してくれという人がおりました。スピーカーからの音色はやはり電気的に作られたもので、楽器自身の本体から発する音色が本来のものでしょう。
 音楽としてそんな当たり前のことを琴という楽器はいつでも気づかせてくれます。それに琴は、両手指で直接絃に触れて音を奏でなければならないので、演奏者の体調、気分や心情、さらに思想的なものまで露骨に音色にあらわれ出てしまいます。そういう意味ではたいへん厳しく恐ろしい楽器であると言えます。
 ところで、主催者の米子市立山陰歴史館には二台の琴が所蔵されています。いずれも江戸時代の製になるもので、明治時代、米子町長をつとめた杵村源二郎の旧蔵になるものです。杵村源二郎、号は小雅。彼は昭和の時代まで生きた人で、二五〇年続いた東皐心越琴學の道統、最後の琴人のひとりです。小雅は「瀟湘水雲」を好んで弾じたと言います。この曲は大曲で且つ難曲に数えられるもので、小雅の琴の腕前、琴境はかなりの或まで達していたと思われます。小雅には「琴道を復興すべきことを論ず」という一文があります。果せるかな、日本における琴道の復興を見る前に小雅は亡くなり、自身とともに絶絃してしまったのです。今に江戸琴學の音を聴くことができないのはまことに残念でしかたありません。
 琴には胴内に墨書きで製作者の名が書かれてあることがあります。この二張の琴にもそれぞれ銘があり、浦上玉堂、田代元春とあります。両方とも法隆寺伝来の唐琴(現東京国立博物館蔵)を模したもので、雷氏琴と呼ばれる琴です。玉堂は生涯に十三張の琴を製作しました。中でも法隆寺雷氏琴は当時の琴界で好まれた琴式で、玉堂に依頼することが多かったようです。杵村源二郎がこの玉堂琴を入手した時の喜びをあらわした詩が今に残されております。もう一つの田代元春作の琴についてですが、製作年月が「文化四年丁卯二月日」とあります。田代元春は米子に在住した国学者で、何よりも驚かされたのは、米子は杵村源二郎から初めて琴文化があったのではなく江戸時代以来の深い琴縁のある地だったということです。玉堂製琴もそうですが、これは大きな発見でした。
 翌日、観光もかねて米子から車で三十分ほどの赤崎町篦津というところにある、三百年続く旧家河本家を訪ねました。河本家は学問を重んじてきた家柄で、館号を「稽古有文館」といい、数千点におよぶ古文書が所蔵されています。家に一歩入ると、柱や壁、天井にいまだ江戸時代の空気が充満しており、遠く日常から古えの世界に連れて行かれた心地がしました。古えをこよなく愛す筆者としては、このような雰囲気は喜びにたえません。琴を弾きに行くということは事前に知らせておりましたので、何人か河本家縁りの人々が待っていてくれました。
 仏間を通って、南北に庭が眺められる客間に案内されました。床の間の掛け軸は、偶然にも抱琴図で、琴童を従えた淵明の山水画でした。庭の新緑は陽の光に輝き、障子戸は開け放されて五月の爽快な風が座敷を吹き抜けていきます。このような場所にいて、遠い昔日のころを偲ばずにはいられません。おもむろに琴服から琴を取り出し、経机に琴を置きました。弾じた曲は「陽關三畳」「關山月」「良宵引」でした。風になびく木々の梢の音と、絹絃の上を走る指の音が実によく協和しておりました。
 河本家をあとにして、米子空港へ向かいます。伝統文化が息づく米子の地で、人々の温かな心に触れ、深く心に残る「旅」となりました。
 帰りの飛行機では、今度は琴に一人分の座席があてがわれました。







河本家での弾琴風景



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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