―賞琴一杯清茗― 第三十六回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の三十四    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇七年五月号第五九七号掲載

「香は人をして幽ならしめ、酒は人をして遠ならしめ、茶は人をして爽ならしめ、琴は人をして寂ならしめ、棋は人をして閒ならしめ、劒は人をして俠ならしめ、杖は人をして輕ならしめ、麈[しゅ]は人をして雅ならしめ、月は人をして清ならしめ、竹は人をして冷ならしめ、花は人をして韻ならしめ、石は人をして雋[せん]ならしめ、雪は人をして曠[くわう]ならしめ、僧は人をして淡ならしめ、蒲團[ふとん]は人をして野ならしめ、美人は人をして憐ならしめ、山水は人をして奇ならしめ、書史は人をして博ならしめ、金石鼎彝[きんせきていゐ]は人をして古ならしむ」

 香は人を奥ゆかしい幽玄な気分にさせます。馨[かぐわ]しい香がただよう書斎はくつろいだ気分にさせるとともに、香には格式張ったところもあり、人を謹厳な気持ちにもさせます。
 酒は人を遠く彼方にはこぶ気分にさせます。酒の酔いは心を大きく広く茫洋とさせ、わずらわしい俗世間の生活の疲れから解放させてくれます。酒の効能は自然と一体になるというのがありますが、それは酒に酔って自分を忘れてしまうところにあります。
 茶は人を爽快な気分にさせます。茶は酒の酔いを醒まさせ、また頭脳明晰となり人生の酔いからも醒まさせてくれます。酒とは正反対に自分を思い出させてくれるのが茶の効能です。
 琴[きん]は人を寂しい気分にさせます。琴の音色は小さく低く、心を躍らせる歌舞音曲とはまったく違う音楽です。琴の音に耳をすますと、心は深く沈潜して人を寂寞たる思いにさせます。静けさのうえにさらに静けさを増し、古人の心に触れる音楽と言えましょう。
 囲碁は人にゆったりとした時間を過ごさせます。碁を打つ者もそれを見る者も、時間が経つのを忘れてしまうものが棋、すなわち囲碁です。中国六朝時代の志怪小説『述異記』に「爛柯」という話があります。晋の時代、王質という名の樵[きこり]が信安郡の石室山に入ったところ童子たちが碁を打っているのに出会った。碁を眺めていた王質は童子から棗[なつめ]の実を貰い、それを食すと飢えを感じることはなかった。しばらくして童子にうながされ立てかけてあった斧を見ると、その柄が朽ちて腐っているのに気が付いた。いつの間にか長い時間が過ぎていたのである。王質が山をおり村に帰ると、知っている者は誰一人いなくなっていた、というものです。また囲碁のことを「坐隠」とも言います。『世説新語』(巧芸編・劉義慶)、「王中郎(担之)は囲棊を以て是れ坐隠なりとし、支遁(支道林)は囲棊を以て手談と為す」とあります。「手談」とは盤上の談義。囲碁は座りながらにしてすでに隠遁の世界へ入ってしまうからでしょう。
 剣は人を強くさせます。俠とは男気、男らしくさせるということです。抜き身の真剣を手にすると何か自分が強くなったような気持ちになります。武器の持つ魔力です。
 杖は人を軽くさせます。杖をつくことによって足取りを軽くさせるということです。杖は三本目の足となり歩行を助け、散歩が楽しくなるものです。近頃、杖をついて歩く人を見かけなくなりました。これは障害のための医療用の杖とは別です。健常者にあっても杖はたいへん重宝するもので、ある程度の年齢に達したなら常備することを奨めたいと思います。車に乗って足腰を弱らせ、なお且つ環境を汚すより杖一本で出かけるほうがよほど良い。杖の材は桜や樫、竹など多くがありますが、なんといっても藜[あかざ]の杖が第一です。藜は中国から渡来し、食用にもなり空き地の草原などでごく普通に見られる植物です。徒然草に「紙の衾、麻の衣、一鉢のまうけ、藜の羹、いくばくか人の費えをなさん」(五八段)とあって、貧しい食べ物の代名詞ともなっているものです。一年草で成長が早く、葉を落として茎を干すと白く木質化して硬くなります。それに柿渋を塗り、根の方を把手にします。軽くしなやかで丈夫で、なにより風流で雅趣があり文人の散歩にふさわしい友になります。俳聖芭蕉も藜の杖をつき旅をしました。その発句に、

やどりせむあかざの杖になる日まで

 が、あります。貞亨五年(一六八八)夏、岐阜市梶川町にある妙照寺内、己百[きはく]亭逗留のおりに詠んだ句です。
 払子[ほっす]は人を優雅な気持ちにさせます。払子はもともと印度で殺生をしないよう蚊や蝿を追い払うために用いられたもので、後に法具となり、禅宗などでは煩悩や障碍を払う象徴の具として、説法の時に威儀を糺すために用いられました。「麈」は大鹿の意味。その尾で作られたため「麈尾[しゅび]」とも言い、また「拂麈[ほっしゅ]」「白拂[びゃくほつ]」とも呼ばれます。煎茶席の床柱に時折掛けてあるのが見られます。麈を手にして払うなら優雅な貴人になったような思いに至ります。
 月は人を清冽な気持ちにさせます。冬の暗い空に煌々と冴えざえと輝く月を眺めていると、心が洗われるような汚[けが]れのない気持ちにさせてくれます。
 竹は人を涼やかな気持ちにさせます。夏の暑い日に竹林にたたずむと涼風が吹き抜け、火照った身体を冷やしてくれます。遠く竹林を眺めていても風になびくその姿は涼をさそうものです。
 花は人を心楽しくさせてくれます。花を眺めるなら季節ごとの興趣がわき起こり、詩心が生まれます。花は生活に彩りをそえ、リズムをあたえてくれます。
 石は人を気高くさせてくれます。雋は俊[しゅん]に通じ、すぐれたという意味。長年風雪を生き抜いた石には威厳がそなわり、不動で変わることのない姿はそれを愛でる者にとって襟を糺しむる思いにさせます。
 雪は人を広漠たる思いにさせます。雪に埋もれた景色はどこまでも白一色、広さというものを感ぜずにはいられません。そんな風景を前にして心は空しく広々としてきます。
 僧侶は人を淡白にさせます。修行をかさね、憂いも喜びも超えて悟達した僧は淡とした生を営んでおります。最も大切なもの本質的なものはすべからく淡であるべきです。『老子』三十五章に「道の口より出[い]ずるは、淡としてそれ味なし。これを視[み]れども見るに足らず。これを聽けども聞くに足らず。これを用うれども既[つく]すべからず」とあります。道というのは淡白で味がない、それは見つめてもよく見るほどのものではないし、耳をすましても聞くほどのものでもない。だがそれを用いればいつまでも使いつくせないほどである。淡とした味わいは、茶味にも通じます。
 蒲團は人を自然の中に居させます。この蒲團というのはよくある座布団ではなく、沢地に生える蒲[がま]、すなわち水草で編んだ布団の意味です。蒲の布団は夏に涼しく、熱を溜めることがなくいつもひんやりとしています。野趣があって、素足でじかに座るならあたかも沼沢の草辺に座っているような心地がします。
 美人は人に愛憐の情を抱かせます。これは男性にかぎったことだと思われますが、きれいな女性を見ると恋情がわいて心をせつなくさせます。
 山水は人を別世界へ誘います。自然は日常生活の外にある異質な世界。俗世間から遠くはなれたところに山水世界はあります。
 史書は人を博学にさせます。史書とは歴史書、また書物全般のこと。書物から知識を得、心が該博[がいはく]、すなわち物事によく通じるようになります。
 金石鼎彝は人の心を古めかしくします。金石は、石や金属に碑銘を勒[ろく]したもの。いつまでも堅固で変わらないために、深い友情のことを金石契[きんせきのちぎり]とも言います。鼎彝はいずれも青銅器で、鼎は神にささげる供物を盛る器、彝は宗廟につねに備え置く器。中国古代文明の殷、周代に作られたものでこれにも文字が勒されています。骨董の最たるものと言ってよく、これらを清玩、鑑賞することで古人の生活ぶりや心が知られ、自ずと古くさびたる人柄にさせてくれます。







『漢畫指南』安永九年(一七八〇)河村文鳳畫



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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