―賞琴一杯清茗― 第三十五回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の三十三    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇七年四月号第五九六号掲載

「如今[ただいま]休[や]め去れば便[すなは]ち休め去れ、若し了時を覓[もと]めば了時無し。若し能く行樂[かうらく]せば、即今便ち好快活、身上病無ければ、心上無事なり。春鳥は是れ笙歌、春花は是れ粉黛、閑一刻を得れば即ち一刻の樂たり。何ぞ必ずしも情欲を乃[すなは]ち樂と爲さん耶」

只今、事をやめようと思ったら、やめ去るにしくはない。もし事の終わりを待っていたなら、いつまでも続き果てしがないからである。もし楽しいことをしようと思ったら、すぐにそれをすべきで、そうすればよき快活を得るものである。我が身体が健康であったらなら、心も無事に過ごせる道理。春の鳥のさえずりを音楽のように聴き、春の花々を化粧をしたきれいな女性と見、それで一時の閑暇を得たなら、一時の楽しみを味わうことになる。なにも情欲を満たすことだけが楽しみを得ることではないのだ。

 ある事を始めるより、終わらせるほうが難しいものです。それが生活のための仕事だったり、長年勤めていた会社であったらなおのことです。それでも常日頃、自分が楽しいと思っていることをすれば、それはすぐにやめられるでしょう。クヨクヨと思いわずらい心の中で逡巡するより、すぐさま行動に移すことが肝要です。まして身体が健康であるなら、心も健康無事であるのは当然のこと、まずは行動に出ることです。その行動が情欲に走るようであったなら、またしても元の木阿弥、終わりなく果てしなく続くことになります。人には情欲を満たすだけではない楽しみがあります。鳥のさえずりを聞きながらきれいに咲く花々をながめたり、あるいは竹林を吹き渡る風や松に吹く風に耳をすませたり、自然の中に身を置いて、それらを味わうなら尽きせぬ楽しみがそこにあります。そしてひとときの閑が得られたなら、茗をすすり、琴を弾じ、書を読む。これだけで充分満たされ、これで人生すべて終わってもかまわないのではないでしょうか。そのような心境に至るにはよほどの人生経験を積んで達観しなければならないと思いがちですが、「如今休め去」るなら、いとも簡単なことに違いありません。茗、琴、書は一生を費やしても極め尽くすことはできないものです。
 会社などを定年退職をするというのは悲壮感がともなうものですが、ほんとうは幸福なことであるはずです。なぜなら、ようやく俗世間からのしがらみから解放されて閑を得られるからです。現代では「隠居」という言葉が死語になりつつあって、生涯現役であるとか、老人の社会貢献だとかで「閑」ということを少しでも無くそうとしているかのようです。まるで「閑」になることがいけないことであるような風潮が世間にはあります。今まで家族のため、社会のために一生懸命働いてきたのに、それでもまだ労働を強いるというのは酷なことです。「閑」というのは衣食住を得るために何の役にもなりませんが、衣食住以上の価値と意味があるものです。隠居となることはこの「閑」を生きることにほかなりません。
 古代インドにライフサイクルという考え方があります。人生を四つの時期にわけたもので「学生[がくしょう]期」、「家住[かじゅう]期」、「林住(りんじゅう)期」、「遊行(ゆぎょう)期」というものです。第一の「学生期」は、一人前の社会人になるために学校の勉強や修行に励む時期です。第二の「家住期」は、職業と家庭をもって社会生活を営む時期。第三の「林住期」は、仕事や家庭を捨てて森に住み、自然の中で自己と向き合う時期。第四の「遊行期」はその森を出て天下を周遊し、道なるものを伝え歩き、己の生涯の結実を世に残します。幸福な人生とはどういうものかという、古代インドの深い叡智のあらわれたものですが、現代では第三期と第四期が切り捨てられ無くなっているように見えます。第一の「学生期」と第二の「家住期」だけで現代社会は成り立っているように思います。資本主義経済社会にしてみればそれは当然のことかもしれません。なぜなら後の二期は経済的になんの価値も効果ももたらさないものだからです。豊かさを求めて経済発展をめざしてきたのに、いつまでも豊かにならないのはここに原因があるのかもしれません。なにしろ第一期と第二期だけに全部収めようとしているのですから。
 心理学者の河合隼雄氏は、「この四住期的生き方こそ、人間の『自然』に根ざしているともいえる。われわれ現代人の方がはるかに無理をしていきているのではなかろうか。無理をして生きた分だけ、われわれは老いることや死ぬことにも、相当な無理を強いられるのではなかろうか」と言っております。無理をしないこと、楽に生きること、好きなこと楽しいことをすること。それが出来さえすればなんと幸福なことでしょう。この『醉古堂劍掃』の条は、人生のちょうど第三の時期、「林住期」のありかた、それに至るにはどうすればよいかを言っているように思います。

「人生は閒なるに如莫[しくな]し、太[はなは]だ閒なれば反って惡業を生ず。人生は清きに如[しく]は莫[な]し、太だ清ければ反って俗情に類す」

人の世にあるは閑なるにしくはない。しかしあまりに閑散にすぎるとかえっていらぬ妄念が起きて悪事をなすことになる。人の世に処するは清なるにしくはない。しかしあまりに潔癖にすぎるとかえって俗人の心情と等しくなってしまう。

 「小人閑居して不善を爲す」という言葉がありますが、「閑」を得ても碌[ろく]なことを考えないようでは仕方ありません。「閑」とは自由な境地を言いますが、自由といっても何をしてもいいというような蒙昧[もうまい]な考えですと必ず不善を行うでしょう。「閑」とは得難く尊いものです。若いうちに「閑」を得ては害悪となるばかりで、やはり人生の第三の時期、「林住期」にこそ最も必要とされるものです。そこに至れば、茗を快く堪能したり、幽玄な琴に耳を澄ましたり、詩を深く味わうことができるでしょう。
 清閑を文人はこよなく愛しました。清閑におぼれることなく、小人であるより君子でありたいと思います。









金農 清代 脩篁圖



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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