―賞琴一杯清茗― 第三十四回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の三十二    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇七年三月号第五九五号掲載

「山棲は是れ勝事なるも、稍々[やや]一たび縈戀[ゑいれん]すれば、則ち亦市朝なり。書畫の賞鑒は是れ雅事なるも稍々一たび貪痴すれば、則ち亦商賈なり。詩酒は是れ樂事なるも、少しく一たび人に[狗-口+日][したが]へば、則ち亦地獄なり。客を好むは是れ豁達[かったつ]の事なるも、一たび俗子の撓[みだ]す所となれば、則ち亦苦海なり」

山家住まいの隠棲はけっこうなことだが、多少なりともこれにとらわれ恋着すると、都市に住むのと同じようにわずらわしいこととなる。書画を鑑賞することは高雅なことだが、少しでも欲心がおきると商売人とかわりがない。詩を吟じ酒を飲むのは楽しいことだが、少しでも人にしたがい機嫌を取ろうものなら、地獄の所行となる。客を招くのは心楽しいものだが、少しでも俗物の客にかきみだされるなら、苦海と同じである。

 例えば芸事にたずさわっていると、それがいつのまにか人が好むようにしたり、大衆迎合して賞賛を得たいと願うようになってしまいます。人が喜ぶのを見て満足を得るようになってしまい、自娯に徹したり、自ら風流を楽しむというのが出来なくなってきてしまいます。自娯というものがわびしいものに思えたり、ひとりで楽しむ孤独が耐えきれなくなってしまうからかもしれません。人はいつまでも孤独ではいられないものです。お互いに喜びを分かち合うことこそ、人が人として生きる道ならば、自分だけがよかれと思い、自分ひとりだけが楽しもうと思い、あるいは自分を差し置いて人だけを楽しませたりするは最も嫌悪すべきことです。もしも才能ある人が、ただ自分のためだけにそれを使うなら、勿体なく残念なことです。自分の才藝を無償でも人にも分け与えたいと思うのが高潔な人士でしょう。見返りなど期待しなくとも、与えられたほうは喜んで答礼します。こんないいものを独り占めするのは申し訳ない、みんなに教えたいと思うのが、芸術家の心、詩人の心だと思います。自娯というのは、おのずから人も共感し楽しみを得るものだと思います。自娯に徹するなら、あえて人に媚びたりへつらったりしなくとも、人のほうからその楽しみ喜びを得ようとするでしょう。
 俗世間から遠く離れ、山中に隠棲することは多くの人が憧れるところのものです。人生の最終到着といってよいものかもしれません。ただ現実問題として、市井から社会から隔絶して自然の中で生活することは無理ではないでしょうか。現代人にとって、電気やガス、通信のない生活は全く考えられないことです。もしもそれを自分で供給するとなるとたいへんな労力を必要とするでしょう。読書する時間も失われてしまい、かえって市井生活より忙しくわずらわしい日々を過ごすことになってしまいます。大きな山荘を建てて使用人を何人も雇えばそんな生活も可能かもしれませんが、それなら別に電気やガスを引いたほうがよっぽどよいでしょう。わずらわしい市井生活から逃れ山中に隠棲したと思っても、その実、市井生活をそのまま山中に持って来たということに過ぎなくなります。そうなれば山中に隠棲する意味がなくなります。古人は、市井にあって世を逃れる者を大隠と言いました。要は胸中に山水を持てるか否かにあると思います。胸中に山水があればどこに行っても世を逃れた隠遁者です。たとえ市井にあっても、もちろん山中にあってもです。そこまで達観するに至るのはたいへんなことですが、ただ形だけ山中に隠棲するのではだめだということをこの条は言っているように思います。
 書画鑑賞は、純粋にその美を深く堪能すればよいですが、そこに経済価値を見てしまえばたちまち商売人となってしまいます。この書画は高価なものだから素晴らしいとか、売ればお金になると考えたり、投資のために書画を収集したりするのは決して書画を鑑賞することにはならないでしょう。裕福で財産があっても経済価値を通してしか鑑賞ができないのはたいへん貧しいことです。書画の美しさより、お金の美しさに目をうばわれているわけです。たしかに日本の紙幣は鑑賞にあたいする精巧な美しさですが。しかし書画をお金に換算できる人は、その価値を十分知り尽くしているからと言えます。そこが危ういところで、書画骨董などをあつかっておりますと、往々にして風流人士だと思い込んでしまうことが多い。収集した書画を並べ、所有することの喜びとその量の多さに悦に入る者も同じです。書画そのものを見ようとしなければ何の意味もありません。書画鑑賞を文人は「清玩」と言いました。「清玩」とは書画を書画として娯しむことにほかなりません。そこに付加価値を見いだすなら、藝術の創造性のみでしょう。すなわち傑作の書画を前にして、自分も制作してみたいという衝動、字や絵を描きたいと思う気持ちです。たとえ模写であっても自娯として描くなら、必ず文人の片鱗をうかがうことが出来ると思います。
 接待や付き合いのために飲む酒ほど旨くないものはありません。必ず二日酔い悪酔いの原因になってしまいます。権勢者の中には、人は自分に尽くすものだ思う輩が多く、そんな者と酒宴をともにしようものなら、終始機嫌をとっていなくてはなりません。もしもその席で詩を吟じるようなことになれば、その権勢者を誉めたたえるものでなくてはならないでしょう。尽くすほうも権勢者から見返りを期待しているので、奴隷のような立場にあまんじて自ら我慢してるのです。まさに閻魔にしたがう鬼のような図で、地獄の所行というわけです。酒は気心が知れた友と飲むにかぎります。酒は立て前を払いのける効能があるので、お互い地位や年齢などの垣根を越えて、肝胆相照らして酌み交わすべきです。友がいなければ、ひとり酒杯を傾け、古書をひもとき詩を吟じ、窓外の月を眺めながら琴を弾じます。飲酒は、誰を満足させるわけでもないひたすら自娯に徹すべき所行と言えましょう。
 客人の訪問は心楽しいものです。朝から室の掃除をして、どのようなもてなしの趣向をしようかと思案し、季節の花を生けたり、とっておきの名茶を用意したり、いかに来客に気分よく過ごしてもらうかを考えます。しかしその客が風流を解さない人物で、花の名前も知らず、茶の味もわからず、飾られた書画を見ても値踏みしかしないのであれば、せっかくのもてなしもしつらえも空しいものになってしまいます。したくもない噂話や金儲けの話に付き合わなければならないとしたら、まさに苦海に沈む心地がするでしょう。そういう客人を招かないにこしたことはありませんが、主人が風流の達人であったなら、そんな客でも心みだすことなく、少しでも高雅な雰囲気を味合わせ、浸らせることができるはずです。これもなかなか難しいことではありますが。









金農 清代 竹種圖



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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