―賞琴一杯清茗― 第三十一回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の二十九    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇六年十二月号第五九二号掲載

「園中竒花異石を辨ずる能はざるも、惟[ただ]一片の樹陰、半庭の蘇跡[そせき]、差々[やや]心を會すべし。忘形の友來り、或は膝を促して劇論し、或は掌[たなごころ]を鼓して歡咲[くわんせう]し、或は彼談じ我聽き、或は彼黙して我喧[かまびす]しくして、賓主兩[ふた]つながら忘る」

貧しくて我が庭に珍しい花を咲かせたり、奇石を置いたりすることはできないが、それでも少しの木陰があり、庭の半分ほどは苔が生していて、我が心は慰め満たされる。この質素な我が家に、形式や礼儀にこだわらない友が訪ねて来るのである。ある時は膝をつき合って大いに議論を戦わせ、ある時は手を叩いてお互いに歓びあって談笑し、ある時は友がしみじみ語る話を聴き入り、ある時は友は黙して我大いに語る。主客は相まじり合い、心は通い合う。

 園丁が入り、きれいに刈り込まれた樹々の間に石がならべ置かれ、手入れが隅々までゆき届いた広大で立派な庭というのもよいものかもしれませんが、たとえ猫の額ほどの庭であっても自然の推移、四時の変化は感じられるものです。外にあって絶えず風雨にさらされているのが庭ですから、自然の有り様がそのまま見てとることが出来るわけです。窓の下の地面の上でさえ、春夏は緑の草が生え、秋冬は枯れ草となってその上に雪が積もり、四季の移り変わりを感知できます。自然の有り様、自然の気に触れた時、あたかも原初の故郷に帰るように人の心は慰められ癒されるのでしょう。
 詩人、小説家の室生犀星(一八八九〜一九六二年)は作庭家としても有名で、この「一片の樹陰、半庭の蘇跡」の庭を愛した文人です。故郷の金沢や軽井沢にも庭が残っており、「庭をつくる人」など庭に関する随筆や評論が数多くあります。東京田端や馬込に居住したときも必ず庭を作りました。犀星の庭というのは石と苔と土だけで作られた小庭で、彼は光を帯びてしっとりと濡れたむき出しの土が最も美しいと言っております。作為がほどこされない自然のままの地面に大地を地球を宇宙を観じていたのだと思います。わずかな空間であっても庭は宇宙に繋がっています。
 英国の詩人で画家でもあったウィリアム・ブレイク(一七五七〜一八二七年 William Blake)の詩の一節にこのようなものがあります。

To see the world in a grain of sand,
And a heaven in a wild flower,
Hold infinity in the palm of your hand,
And eternity in an hour.
"Auguries of Innocence"
(一粒の砂に世界を観じ、一輪の野の花に天界を見る。掌のうちに無限をおさめ、一刻のうちに永遠を掴む。「無垢の予兆」)

 小さなものの中に広大無辺な宇宙を観るというのは文人の宇宙観と一致するものです。ブレイクのこの詩はまさにわずかな空間の小庭を眺めている姿と言えましょう。遠くヨーロッパにあってもブレイクの詩心は東アジアの文人の心に通底しています。
 「一片の樹陰、半庭の蘇跡」の庭がある住まいに居て、友の来訪はこれもまた心慰められるものです。形式や礼儀などおかまいなく、おたがい気心が知れ、市井の出来事や艶思、すなわち人々の交わりや金儲けの話題など一切のぼらず、ただ静かに香り豊かな茗をすすり、苔むした庭を眺めている。同じ感性、同じ人生観を持った友を得ることはたいへん難しく稀なことでしょう。どんな財産をもってしても人生における最良の友は得難い。仕事仲間や世間で生きていく上で必要な友人はたとえ親密になっても、心の深いところで共感し合うことはなかなかありません。利害や共通した職業などで意気が合ったとしても、その場限りであったり長続きはしないものです。昔の親友に再会したとしても、初対面のように人が変わっていたりします。かえって遠い存在の異国の人であったり、年がはるかに離れていたりしていたほうが意外と共感するものを見いだすことがあります。それで思い出すのが、浦上玉堂と田能村竹田です。
 文化三年(一八〇七)冬、玉堂と竹田は大阪持明院に四十日間同宿しています。その時の玉堂の齢は六十三、竹田は三十一でした。『竹田莊師友畫録』の中で竹田は玉堂との出会いと大阪持明院での暮らしぶりをこのように述べております。
 「玉堂老人、備前の人。奇士なり。予一日間坐す、一片紙の突然に到る有り。廼[すなは]ち書して曰く、「子能く來りて我が琴を聽くや否や」と。又書して曰く「玉堂老人」と。字殊に古怪にして俗を絶つ。此れを詳らかにすれば則ち紀春琴の尊甫[そんぽ]なり。白髪童顔、鶴[敞+毛]衣[かくしゃうい]を服し、琴を担[にな]ひて昂然[かうぜん]として往來し、之れを望めばその常人ならざるを知る。後同[とも]に坂府の持明院に寓し、最も相ひ親善す。毎朝早く起き、室を拂ひて香を焚き琴を鼓し、卯飲[ばういん]すること三爵なり。常に言ふ「若し天子勅[ちょく]ありて、音律を考正せしめば、我焉[これ]に與[あづか]る有って必ず其の力を致さん」と。山水を畫[ゑが]きて蒼古莽密[さうこばうみつ]なり。予別に論有り、山中人饒舌内に載す」
(玉堂老人は備前(岡山県)の人で、変わった人士である。私はある日家でのんびりしていたとき、突然一通の手紙がまい込んだ。それには「あなたは私のところへ来て琴を聴きませんか」と書いてあり、また「玉堂老人」と署名がある。その字はまことに古怪でどこにも俗気がない。よく調べてみるならば、紀春琴の尊父である。白髪で童顔、鶴の羽の道服を着て、琴を担って意気揚々として歩き、遠くそのすがたを見ても、ふつうの人とは違うことがわかる。のちに一緒に大阪の持明院に寓居し、たいへん親しく交わった。毎朝早くに起き、部屋を掃除し香を焚いて琴を弾き、朝酒を三杯飲むという生活であった。玉堂老人は常に次のように言っていた、「もし天子から命があって音律を考正させ給うようなことがあったときには、わたしはこの琴をもって力を尽くしてお役に立とう」と。その山水画は古色を帯びて細密である。玉堂老人のことは別に論じて『山中人饒舌』に載せてある。)
当代最高の文人二人が出会い、意気投合し、寝食を共にし朝から酒を酌み交わす様はなんと異彩を放っていることでしょうか。二人が持明院で生活した四十日間の様子を伺い知るにはわずかに「毎朝早く起き、室を拂ひて香を焚き琴を鼓し、卯飲すること三爵なり」という記述のみではありますが、この『醉古堂劍掃』の条のように「ある時は膝をつき合って大いに議論を戦わせ、ある時は手を叩いてお互いに歓びあって談笑し、ある時は友がしみじみ語る話を聴き入り、ある時は友は黙して我大いに語る。主客は相まじり合い、心は通い合う」さまが彷佛としてきます。そしてお互いに画の応酬や詩を賦し合ったりしたことでもありましょう。竹田にとっては玉堂は師のような存在であったかもしれませんが、玉堂にとっては三十二も年下ではありますが、よき理解者、最良の友を得た喜びは大きかったと思います。
『竹田莊詩話』には、この時に詠んだ玉堂の詩が載せてあります。

倦酒倦琴倚檻時  酒に倦み琴に倦み 檻に倚る時
満園祇樹雪華飛  満園祇樹 雪華飛び
雪華個々風吹去  雪華個々 風吹き去る
不染琴糸染鬢糸  琴糸を染めず 鬢糸を染む
(酒に飲み飽き、琴にも弾き飽きて、僧坊の手すりに寄り掛かって寺院の庭を眺めやると、折から降りだした雪が庭の木々に花のように舞い落ちてくる。風が吹くと雪片はあおられて飛び去る。琴絃には雪も積もらないが、私の鬢毛は雪が付着して白く染められていく。)

玉堂の画は今でこそ国宝ともなっておりますが、当時は誰も認めるものはおらず、かえって息子の春琴のほうが画家としての名を欲しいままにしていました。ただ一人、田能村竹田だけが玉堂画の真価を余すところなく認め、他の画家とは抜きん出て高く評価しておりました。








清代 陳崇光畫



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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