―賞琴一杯清茗― 第三十回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の二十八    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇六年十一月号第五九一号掲載

「人生古より七十少し、前に幼年を除き、後に老を除けば、中間の光景多事ならず、又陰晴と煩惱とあり。中秋に到り了[をは]りて月倍々[ますます]明かに、晴明に到り了りて花更に好し、花前月下高歌を得ば、急に須らく謾に金尊を把りて倒[さかしま]にすべし。世上財多くして賺[あま]し盡さず、朝裏官多くして做[な]し了らず、官大に錢多ければ心轉々[うたた]勞す、自家に落し得て頭白蚤[はや]し 、請ふ、君細かに看よ、眼前の人年々一分は青草に埋まる。草裡多々少々の墳、一年一半人の掃ふなし」

人生は古えより七十歳を生きる者は少ない。前には幼年期をのぞき、後には老年期をのぞけば、その中間である壮年期はそれこそ少なくなってしまう。壮年期には順境や逆境もあり、また煩悩にもてあそばれる。中秋にいたる頃には月はますますその輝きを増し、四月のころは花咲き乱れ好き季節となる。このような時節になれば、花の前、月の下にて大いに酒を飲み酌み交わし、酒樽を空にして高らかに歌うべきである。しかしながら世の中の人々をみるなら、財産が多くあっても無駄にあまってしまい、高位高官にあっても無為に終わってしまう。高い地位にあり、齷齪と金儲けに奔走して、それを守るために心は苦悩する日々を送るばかり。いつの間にかおのれの頭髪が白くなるにまかせる有り様である。願わくば、君よ仔細に人生を看よ。目の前の人はその一分は死して墓地の青草の下に埋められる。そこかしこにある墓地はいたづらに青草が茂れるままに放っておかれ、一年半年のあいだ誰も手向けの水を濯ぐものはいないのだ。

 人生を楽しむべき時に楽しまないと後は空しく死すばかりである、とこの条は言っております。
 人生七十というのはよく言われる「古希」で、これは唐代の詩人杜甫の「曲江」の詩句にある「人生七十古来稀なり」に由来するものです。

  杜甫  曲江
 朝囘日日典春衣  朝より囘[かへ]りて 日日春衣を典し
 毎日江頭盡醉歸  毎日 江頭に醉を盡くして歸る
 酒債尋常行處有  酒債[しゅさい]は尋常 行く處に有り
 人生七十古來稀  人生七十 古來稀なり
 穿花蛺蝶深深見  花を穿つ蛺蝶[けふてふ] 深深として見え
 點水蜻蜓款款飛  水に點ずる蜻蜓[せいてい] 款款として飛ぶ
 傳語風光共流轉  風光に傳語す 共に 流轉して
 暫時相賞莫相違  暫時 相ひ賞して相ひ違ふこと 莫かれと
(朝廷から戻ってくると、日々春物の衣服を質に入れ、毎日曲江のほとりで泥酔して帰るのである。酒代の借金は普通のことで、行く先々にそれはある。この人生、七十まで長生きすることは滅多にない。花の間を飛びながら蜜を吸うアゲハチョウは、奥深くかすかに見え、水面に軽く尾をつけるトンボは、ゆるやかに飛んでいる。なあ、自然よ、そなたも私とともに転変して流れて行くのだから、ほんの暫くの間でもいいから、お互いに賞[め]で楽しみ合って、そむくことのないようにしようではないか。)

 人の寿命を七十年とすると、最初の二十年は人生の準備期間、そして五十歳から以後は余生となり、最も充実した期間が三十年間となります。日本は世界でも平均寿命が最も高い国と言われておりますが、それでも男性で七十八歳です。世界ではもっと低くなります。この三十年間の人生をいかに過ごすか。実質的な人生の時間として重要な問題です。これを長いと見るか、短いと見るかは人によって異なるでしょう。この壮年期というのは、世間の雑事俗事に大半の時間は奪われ、煩悩に苛[さいな]まれ、順境もあれば逆境もあり、荒波にもまれて生きなければならない時期です。ほとんどを自己を忘失し、自己の本性を犠牲にして過ごさなければなりません。はたしてどれだけ、陽春の花々や中秋の名月を眺めながら、この世に生まれたことを喜び祝い、謳歌することができるでしょうか。好季節の到来にこそ飲酒高吟すべきだと文人は言います。杜甫もまた「曲江詩」の中でそれを言っております。一般的な考え方からすれば、酔っぱらって無駄な時間を過ごすよりも、将来のために金儲けに専念したほうがよっぽどいいと言うでしょう。しかしそれにどんな意味、価値があると言うのか、貴重な人生の時間を名誉や地位を得るため、財産を増やすためだけに費やしてもいいのか、と文人は問います。人生を大切に生きるために、今のうちにせいぜい楽しもうではないか、そうしないと将来というものが青草の下に埋められてしまい、そうなってからでは遅すぎる、と言うのです。

 十一世紀ペルシャの詩人で天文学者、数学者、哲学者でもあったオマル・ハイヤーム(一〇四八〜一一三一年 Omar Khayyam)という人も飲酒をこよなく愛した文人でした。彼は、神の法則にしたがうよりも自然の法則にしたがって生命を観察すべきだという、きわめて東アジア的な考え方生き方をした人でしたので、戒律きびしいイスラムの世界にあって異端視されておりました。オマルが残した詩に有名な『四行詩[ルバイヤート]』がありますが、そこで詠まれているのは東アジアの文人たちと共通した人生観があります。

 一壺の紅の酒、一巻の歌さえあれば、
 それにただ命をつなぐ糧さえあれば、
 君とともにたとえ荒屋に住まおうとも、
 心は王侯の栄華にまさるたのしさ。

 月の光に夜は衣の裾をからげた。
 酒をのむにまさるたのしい瞬間があろうか?
 たのしもう!何をくよくよ? いつの日か月の光は
 墓場の石を一つずつ照らすだろうさ。

 人生はその日その夜を嘆きのうちに
 すごすような人にはもったいない。
 君の器が砕けて土に散らぬまえに、
 君は器の酒のめよ、琴のしらべに。

 春が来て、冬がすぎては、いつのまにか
 人生の絵巻はむなしくとじてしまった。
 酒をのみ、悲しむな。悲しみは心の毒、
 それを解く薬は酒と、古人も説いた。

 酒をのめ、それこそ永遠の生命だ、
 また青春の唯一の効果だ。
 花と酒、君も浮かれる春の季節に、
 たのしめ一瞬を、それこそ真の人生だ。
     (小川亮作訳 『岩波文庫』)

 文人と言えば酒。これは無くてはならない必須のものではありますが、要は人生という時間を楽しみにしてしまおうということです。もちろん酒以外でも楽しみはいくらでもありますが、酒の効果というものは絶大です。悲しみや憂いに満ちあふれ、この不可解きわまりない人生の意味をあきらかにしようと思えば、酒を飲んで酔わずにはいられないでしょう。古えの文人たちは、これ以上の人生の目的はないというくらい詩的に美的に酒を飲む方法を教えてくれるように思います。









董其昌書 明代 杜甫「飲中八仙歌」



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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