―賞琴一杯清茗― 第二十九回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の二十七    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇六年十月号第五九〇号掲載

「空山に雨を聽く、是れ人生如意の事なり。雨を聽くは必ず空山破寺の中に於てし、寒雨爐を圍みては、以て敗葉を燒き鮮笋[せんしゅん]を烹る可し」

もの寂しい静かな山で雨の音を聴く。これは人生において普通にあることである。しかし山中の人が至らない荒れ果てた寺にいて雨音を聴くなら、またさらに風流なものがある。しとしとと冷たい雨が降りしきり、爐に落ち葉をくべて暖をとり、新鮮な笋[たけのこ]を煮るならまた格別のものがある。

 空山で雨の音を聴くなど現代では稀なこととなってしまいました。普通に生活しているだけなら空山の雨音は聴こえて来ません。わざわざ山まで出かけて行かなくてはなりません。雨音を聴くために山中の廃寺を訪ねゆくのと同じことです。この条でもそうですが、古えは今に比べて生活音というものが極端に少なく、かえって自然音のほうが際立っていたことでしょう。かすかな物音でさえ自ずから鋭敏な耳とそれを味わう感性を持っていたと想像できます。空山の雨音を聴く風流、なお且つ廃寺においてそれを聴く風流を現代人はどれだけの人が持ち合わせているでしょうか。ただの雑音として聴くことは簡単なことです。微かで静かな音色なのですから耳障りでうるさいとも思いません。そんな音よりももっと楽しい音を今の時代はにいつでもどこでも聴くことができます。静けさの中で雨音や風音に耳を澄ますことは深く心を沈潜させることです。心の深い場所で聴こえてくる音、それが天籟であり地籟であるのでしょう。古えの人々はいつもそれに耳を傾けていました。その中で、もしも音楽が聴こえてきたとしたら、大きな感動をもたらしたのではないでしょうか。自然音と合奏できる音楽、それが琴であったわけです。琴は、雨音や風音を美しい音楽に昇華して聴こえさせてくれる楽器でした。
この笋は四方竹のこと。中国原産で十月頃に採れます。採れたてをすぐ煮ると心地よい歯触りと苦みがとても美味しいものです。竿の断面が四角なので四方竹と呼ばれます。

「飯後黒甜[こくてん]、日中薄醉[はくすゐ]は、別に是れ洞天。茶鐺酒臼經案繩床[ちゃたうしゅきうけいあんぜうしゃう]は、尋常の福地なり」

食後の昼寝、日中に飲む酒、これらを共に味わうならさながら仙人の境涯にいたることができる。茶を煮る鼎[かなえ]、酒を入れる樽、経机、縄を巻いた座布団、これらは精神の修養のための什器であり、この中に身をおけば日常の幸福なる境地を得ることができる。

 気分のよさ、心地よさは文人が最も希求するところのものです。それはまた誰もが好むものです。幸福感というのは身体的に快楽をおぼえることだと思います。その最たるものが食後の昼寝、日中に飲む酒というわけです。もっと他に幸福感をおぼえるものがあるはずだと言われるかもしれませんが、しかしこういう些細なことにこそ大きな幸福を得るすべがあるというのが文人の考え方です。決して非日常な事柄に快楽を求めるのではなく、普段の日常の中に求めるということ。欲望の向くままに放恣に生きるなら、次々と欲望は湧いて出てきて、それを満たすためだけに生きることになり、ついには身を持ち崩すだけとなってしまうでしょう。ほんとうの幸福とはただ欲望を満足させることではないと文人たちは教えているように思います。昼間の酒にしても、夜も朝も飲まないでいるからこそ、心から美味い一杯の酒となるのです。朝から晩まで飲んでいたら、酒の深い味などわかるはずがありません。ケイ康は一杯の濁酒、一曲の琴に人生のすべてを満足させました。一煎の茶にこめられた至福を味わうことができたなら、他に何を求めるべきでしょう。身体とともに心をも満足させること。心を満足させることは難しく、最も得難いものです。どんなに多くの財産や名誉を得たとしても叶うものではないかもしれません。しかし茶を煎れる道具、酒が満たされた樽、経を読む机、縄の座布団さえ普段の生活にあれば身も心も至福の境地に至ることができると、この条は言っております。

「燈下[とうか]に花を玩[もてあそ]び、簾内[れんない]に月を看[み]、雨後に景を觀[み]、醉裡[すゐり]に詩を題し、夢中に書聲を聞く、皆別趣[べっしゅ]有り」

灯火の下で花を賞玩し、簾の内で月明かりを看[み]、雨が止んだ後の洗われた景色を眺め、酒に酔って詩を題し、夢の中に書を読む声を聞く、皆それぞれ格別な趣があるものである。

 夜、灯火のもとで花や盆栽を観賞するというのは、自然のものでありながら我がものとする人工的な趣があり、まさに掌中に自然をおさめる体[てい]を味わうことができるものです。
簾越しに看る明月というのは、直接に月をながめ、無辺の宇宙を感得するというより、書斎の内に月を招き入れ、一幅の画としてしまうものです。吉田兼好(一二八三〜一三五〇年)『徒然草』(百三十七段)に「望月の隈なきを、千里[ちさと]の外まで眺めたるよりも、曉近くなりて待ちいでたるが、いと心ふかう、青みたる樣にて、深き山の杉の梢に見えたる木の間の影、うちしぐれたるむら雲がくれのほど、またなくあはれなり。」(くもりなく光り輝く満月が、千里の空を照らしているのをながめるより、夜明け近くまで待って、ようやく出てきた月は情緒深く青い光を放って、深山の杉の枝に見えていたり、木の間の影や、時雨を降らせた雲間に隠れていたりする様子は、比べる物がないほどに美しいものだ。)と述べていますが、これと似た風情が簾越しの月にもあります。共通した美意識と言えましょう。兼好はまた、「すべて月花をばさのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いと頼もしうをかしけれ」(すべて月や花は、目だけで見るものだろうか。春は家から一歩も出なくても、満月の夜は寝室に籠りながら、心の中で想うほうが深くその情趣が味わえるものだ。)とも言っております。吉田兼好はまさに月を眺める第一人者と言うべき風流人です。
酒に酔って詩想を練ることは文人にっとて常なること。酒の酔いと共に湧き出た詩想は、紙幅に書き付ける前に詩人の心の中だけで満足してしまうものかもしれません。
うたた寝をし、夢うつつの中で遠くから聞こえる読書の声というのは文人にとって子守唄のようなものです。







石涛 水墨山水画册



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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