―賞琴一杯清茗― 第二十八回
 
北鎌倉浄智寺 琴会録 ―文人たちの琴会を偲んで―    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇六年九月号第五八九号掲載

今回は、神奈川県鎌倉の浄智寺で行いました琴会の報告をしたいと思います。

 二〇〇六年八月五日、「日本琴學研究会」第一回会合を北鎌倉の浄智寺茶室で行いました。参加者は、筆者以外すべて国文学研究者の方々です。
 この日に弾じた琴の曲は、日本の文学、芸術に影響を与えた琴曲という題目で、「流水」「風入松」「昭君引」「白雪」「帰去来辞」「漁樵問答」「陽春」などを披露しました。いずれも日本の琴人によって弾奏された曲です。それぞれ各人が所蔵の詩文書を持ち寄り、鎌倉の地酒で一献かたむけ、茶を供し、残念なことに煎茶までは用意が調いませんでしたが、大服の急須で沖縄の「さんぴん茶」を煎れました。ジャスミンの香りが酔いを醒まさせ、涼を運びます。茶菓子は味噌風味の麩焼煎餅「明庵」。「无」字がほどこされ、鎌倉寿福寺の開山栄西禅師にちなんだものです。床飾りは、書斎の机上にあったものをそのまま飾りました。古えの詩文書をひもとくなら、古紙のほのかな香りが遠い時代へ心を旅させ、興味は尽きず話が続きました。
梅雨が明けたばかりの炎夏の日、蝉時雨の中、文人たちが愛した清雅の時がなつかしく思い出される一日でした。

 江戸時代、かつて日本の文人たちは風流な集いを催しました。日時場所を決め寺社や某家の座敷を借りて雅会を開いたのです。琴の弾奏と共に、碁を打ったり、時には参会者自らが書いた書画や骨董を持ち寄りそれらを鑑賞し、その間に煎茶や酒肴を供したりしながら、またその場で揮毫や漢詩の創作も行う。集まる人士たちは漢学などの教養があり風流を解する、すなわち文人的美意識を持つ人々でした。文人の理想的世界、中華文化への憧れをもって雅会を開いたのです。それは中国宋代、元祐元年(一〇八六)に王晋卿の邸・西園に当代の文人たちが集い雅宴を催したという「西園雅集」に倣ったものでした。西園に集ったのは、蘇軾、蘇轍(蘇軾の弟)、黄庭堅、米芾、蔡肇、晁補之、張耒、秦観、李公麟という錚々たる人物でした。その時の様子を米芾は「西園雅集記」に著わし、李公麟は「西園雅集図」を描き、のちに南画文人画の絶好の人物画題となりました。しかし今日では、実際にはそのような雅集は無かったとされております。これほど歴史的な雅会ではなくとも、日常的に文人の集いは行われていたでしょう。後世、「西園雅集」は文人たちの清雅な集いの典型となりました。

宝暦二年(一七五二)、千住(東京)にある徳川幕府の棟梁甲良家の屋敷、雲和亭で琴会が開かれました。『東都嘉慶花宴集』という詩文集が残されております。成島錦江( 一六八九〜一七六〇)による序文にこうあります。
「夕刻、隅田川に接岸してある舟に行くと、すでに雲和亭に向かう参会者が舟に乗っていた。琴、碁、書画の用意がしてある。出発すると早くも詩を作り歌う。中国音で「小曲」を歌う。華服を着たものは琴曲「秋風辞」を弾ず。一里ばかり川をのぼると李花の香りがしてきた。雲和亭に着くと、琴を弾いたり、碁を打ったり、書画をしたためたりするのである。私は能がないので酒を飲み李樹の下に臥して夢見心地になる。夜も更けて粥と茶をよばれて諸客は席を辞し、風を恐れて陸路を帰った。私は主人と舟で帰途についた。」
舟にゆられて文人たちの心楽しき清遊が彷佛として思い浮かべられます。
琴は希有な音楽であり、一部の人々のみが嗜むものでしたから江戸時代でも琴会はあまり広まることはありませんでした。それがかえって俗とはならず、文人清遊のため欠かすことができない必需の楽器となりえたのです。江戸時代はもっぱら町人文化華やかりし時代とされていますが、琴は武家文化に属すものでした。

 また、琴人にして幕臣であった児玉空々(一七三四〜一八一一)主宰による牛込安養寺で行なわれた琴会、「真率会」に琴会約という会則があります。門人新楽閑叟(一七六四〜一八二三)が起草したものです。

一、集まるのは社人であるが、甚だしい俗人でなければ客人として連れて来てもかまわない。富貴を見せびらかす人、文字を解さない人はお断りである。
一、毎月一回か二回、忙しくない日に開く。風雨による期日変更はしない。午前九時から十一時に集まり、午後五時から七時に解散する。期日を忘れて欠席しても罰はない。 一、会場は牛込門外の安養寺とする。事情によっては変更もある。当寺に別の催しがある時、近所の雑踏を避けるためである。
一、会の方で用意するのは、茶菓、琴二張、琴机二台だけである。もし余裕のある人で酒肴を出して下さる方があれば断ることはない。
一、会の中では弾琴のほかに、詩を作り、書物を朗読し、書画をなし、中国の詞曲を歌い、絲竹を奏するなど各人の好むようにしてよい。経史文章を大いに論じ、俗事を論難するのはかまわないが、市井の噂話をすることは許さない。(岸辺成雄『江戸時代琴士物語』より)

 これをみますと、決して権威主義的に排他的ではなく、町人も武士も俗人でないかぎり可とした自由な雰囲気があります。すでに江戸期においては茶会や俳諧席などの風流人士たちの集まりが盛んにありましたが、この雅会はあくまで琴を中心とした文人たちの集いであり、新しいサロン文化の誕生を思わせます。岸辺成雄先生(東洋音楽史)によると「琴会」とは「琴士たちは相集い、琴を弾き琴を聴いて楽しむ。一般に琴会という。多くの聴衆が集まって聴く今日の演奏会とは違う。それに琴楽は元来身を修めることを旨とする音楽であり、琴会は聖者・文人の集りである。弾琴できない文人も聴きに来るが、文人に価しない俗人は入れない雰囲気である。また純粋な琴会ではない文人の集いに雅会がある。琴棋書画を嗜む人々の集りで、漢学者、詩人を含む遊宴である。集う人の多少は問わない。清遊にふさわしい地を選ぶことが多い。送別の雅会も少なくないし、追善を目的とする大会もある。」と言っております。(同書)

中華文化への憧憬とその学究の人々、漢学者、漢詩人、南画文人画家は高度な教養を持っていたことを鑑みるならば、当時において最高水準の芸術家集団だったことが想像できます。かつて文人たちが楽しく心遊ばせた「琴会」の片鱗を少しでも伺うことが出来たならと望みまして、この会を催した次第です。








浄智寺 山門



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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