―賞琴一杯清茗― 第二十五回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の二十四    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇六年六月号第五八六号掲載

「余嘗て一室を淨[きよ]めて、一机を置き、幾種の快意の書を陳[つら]ね、一本の舊法帖を放[お]き、古鼎に香を焚き、素麈[そしゅ]塵を揮[ふる]ふ。意思少しく倦めば、暫く竹榻に休み、餉時[しゃうじ]にして起れば、則ち苦茗を啜り、手に信[まか]せて漢書幾行を冩し、隨意に古畫數幅を觀る。心目の間、洒洒靈空を覺え、面上の俗塵、當に亦三寸を撲[う]ち去るべし」

私はかつて、一室にあってそこを掃き浄め、一つの机をすえて、我が意[こころ]にかなった数種類の書籍を座辺にかさねて置いている。机の上には古い法帖を一冊おいて、年へて古色をおびた鼎[かなえ]に香を焚き、白い毛の払子[ほっす]で塵をはらい、心とともに居室の清澄を保つ。そして意思の少し疲れたのをおぼえれば、竹でできた榻(長椅子)にしばらく寝そべり休む。つかの間にして竹榻を離れ、茶をすすりながら、手にまかせて漢書(漢の歴史書)の中のいくつかの行を写してみたり、気分のおもむくままに数幅の古い画をのべひろげて目を楽しませる。この時、心と目の間には清らかでさわやかなる気が満ち、精神は無心となって空の境地に入って、顔にふりかかるが如き俗世に生きる三寸の苦労や憂いが消え去ってしまうのである。

 この条は、書斎にある文人のイメージの典型的なものと言えましょう。文人の日常を想うとき、このような場面が出てくるのではないでしょうか。かつて文人たちが至り得た境地の一端でも、今において垣間見たいと思います。書画にかこまれ、芸術的気分につつまれて知的な活動をする。宗教的な真実の追求によって俗世間を離れるというのではなく、美に埋没することで俗世間を超越してしまうのが文人です。美はただ単に鑑賞するものではなく、創作することでさらに深く美に入っていくのだと思います。悟りに至った僧侶が精神の貴族であるなら、文人は美を生み出す精神の労働者と言ってもよいかもしれません。

浮名[ふめい]を戀[こ]ふる莫[なか]れ。夢幻泡影[むげんはうえい]限り有り、且[しばら]く樂事を尋ねよ、風花雪月窮[きはま]り無し。

水に浮くような名誉に執着するな。浮名[うきな]というのは、夢まぼろしのように水の泡のように限りがあるもので、いつの間にか消えてしまうものだ。それよりも心を楽しませることを考えるがよい。風花雪月の自然は限りがない。

 社会的な名誉を追い求めるのはたいへんな心労をついやすものです。功名心のために齷齪[あくせく]と貴重な人生の時間を使い、それで得たものにしがみついていても、いつまでも変わらずにあるわけではない、とこの条は言っているのですが、なかなかその境地に至るにはむずかしいものです。衣食住の物質欲が満たされれば、次に名誉や社会的地位を求めるのが人間の情です。名誉欲というのは簡単には捨てきれるものではないでしょう。それがどんなものであるか実際に経験してみないとどうしてもわかるものではないと思います。しかし名誉や地位を得たとしても、それで満足できるかと考えると、やはりできないのではないでしょうか。それが人生の最高の目的かと問われれば、否と答えるしかありません。社会的に世のため人のために貢献するのが人の道でありますが、功を遂げ、名を遂げそのみかえりとして名誉や地位を与えられたとしても、はたしてほんとうに自分が満足するかどうか。人々から賞賛されることはたいへん嬉しいことに違いありませんが、それだけですべてよいのか、おそらく疑問に思います。毀誉褒貶[きよほうへん]は表裏のものです。世の中の浮き沈みに惑わされることなく、ふと我に返ったとき、そこに変わることのない風花雪月の世界がある。これこそ楽事の世界ですが、そこへ至るためにはやはり世の中の俗事雑事をくぐりぬけて来なければならないでしょう。風花雪月の世界は初めからあったものですが、そういう道筋を経て来ないとほんとうの風花雪月の世界に気づかないのではないかと思います。風花雪月の世界に心を楽しませること。もしも人生に目的があったなら、まさにこの境地へ至ることにあるのではないかと思います。

「白雲天に在り、明月地に在り、香を焚き茗を煮、偈[げ]を閲[けみ]し經を翻[ひるが]へせば、俗念都[すべ]て捐[す]てて、塵心[ぢんしん]頓[には]かに盡[つ]く」

白雲は悠々と天空を流れ、皎々[こうこう]と輝く明月は地をあまねく照らす。香を焚いて茶を煎じて、偈頌[げじゅ](教理や仏をほめたたえた詩)や経巻を読みふければ、心の中の俗念や妄執はことごとく捨て去られ、世俗にそまった心がたちまち消え去るのをおぼえる。

 明月の良夜にひとり書斎で茶を煎じ、それを喫するだけでも心が清浄になってゆくのをおぼえます。そして古人の言葉や仏典を精読するなら、さらに心が磨かれていくような心地がします。常に心を清浄に保つことはたいへんむずかしいことですが、世の中を超然としてながめることができるなら、己の意のままに物事をおこなうことができるに違いありません。

「酒を嗜み睡を好みて、往往[わうわう]門を閉ぢ、俯仰進趨[ふげうしんすう]、意の在る所に隨[したが]ふ」

酒を飲んで眠くなったら眠り、門を閉じて俗世間を避け、起きるも寝るも歩くも走るも、自己の意のままにふるまう。

 自由は文人が最も希求するところのものです。それは美を求めることと同じく価値があると言ってよいでしょう。自由とは傍若無人にふるまったり、わがままになって他人に迷惑をかけることではなく、いつでもどこにいても心が満足していることだと思います。貧窮しても富んでも、世の中に受け入れられても除け者にされても、悠々と飄々として心に満足感をおぼえることが最高の生き方と言えましょう。







武侯高臥圖 宜宗皇帝(朱瞻基)明代(北京故宮博物院藏)



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



<<前回  次回>>

鎌倉琴社 目次