―賞琴一杯清茗― 第二十四回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の二十三    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇六年五月号第五八五号掲載

「古人は特に松風を愛し、庭院皆松を植ゑ、その响[ひびき]を聞く毎に、欣欣然[きんきんぜん]として其の下[もと]に往[ゆ]けり。曰く、此れ十年の塵胃を浣[あら]ひ盡[つく]す可し、と」

古人は特別に松の梢[こずえ]を吹き渡る松風、すなわち松籟[しょうらい]を愛し、庭院にはかならず松を植えて、風が吹いて梢を鳴らすときは、喜びを満面にあらわし、そのもとへ至って言う、松風を聞くと俗世の塵埃に十年まみれ汚れた胃腸をきれいさっぱり洗いそそぐ感慨がある、と。

 松風は古来、文人に愛されてきた音の風景です。
 この条はもともと『南史』陶弘景伝の中の「特に松風を愛し、庭院は皆松を植ゑ、毎に其の響きを聞き、欣然として樂と爲す。有時は獨り泉石に遊び、望み見る者は以て是を仙人と爲した」によったものです。陶弘景(四五六〜五三六年)は、中国南北朝時代(四二〇〜五八九年)の文人、思想家、医学者です。茅山という山中に隠棲し、陰陽五行、山川地理、天文気象にも精通しており、国の吉凶や、祭祀、討伐などの大事が起こると、朝廷が人を遣わして陶弘景に教えを請いました。そのために「山中宰相」と呼ばれました。庭に松を植える風習は陶弘景からはじまり、松風の音をこよなく愛したものも陶弘景が最初です。風が吹くと喜び勇んで庭に下り立ち、松風の音に耳をかたむける陶弘景の姿はまさに仙人として人々の目に映ったことでしょう。自然にのっとり、道に則った者の耳には、松風は自然が奏でる心地よい音楽として聴こえているのです。
 実際に松風にじっと耳をすましていると、何か幻想的な気持ちになり、遠く彼方へ運び去られるような心地になります。心は深く沈潜し、魂は鎮められて松風の音と共鳴し合います。俗世の塵埃にまみれた胃腸をきれいに洗うというのもほんとうのことだと思われます。
 この松風の音を古人はどのように聴いていたでしょう。松風を詠じた詩歌は枚挙にいとまがありませんが、日本最古の文学作品集『懷風藻』(七五一年)にはこのような詩があります。

 大宰大貳從四位上巨勢朝臣多益須[こせのあそたみやす] 年四十八
 五言 春日、詔に應ず
玉管吐陽氣 玉管陽氣を吐き
春色啓禁園 春色禁園に啓く
望山智趣廣 山を望みて智趣廣く
臨水仁懷敦 水に臨みて仁懷敦[あつ]し
松風催雅曲 松風雅曲を催[うなが]し
鶯哢添談論 鶯哢[あうろう]談論に添ふ
今日良醉徳 今日良く徳に醉ひぬ
誰言湛露恩 誰か言はむ湛露[たんろ]の恩
(玉の笛は陽気に朗らかになり、春の気は御苑に満ちている。山を望みみると智者の情趣で広々と、水を見下ろすと仁者の感懐ひときわ。松吹く風は高雅な曲をかなで、囀[さえず]るうぐいすは談論の興を添える。今日天子の高徳に酔うた深い感激を、なんで月並みな言葉で讃えよう。)

 大學博士田邊史百枝
 五言 春苑、詔に應ず
聖情敦汎愛 聖情汎愛[はんあい]に敦く
神功亦難陳 神功も亦陳べ難し
唐鳳翔臺下 唐鳳[たうほう]臺下に翔り
周魚躍水濱 周魚[しうぎょ]水濱に躍る
松風韻添詠 松風の韻詠に添へ
梅花薫帶身 梅花の薫[くん]身に帶ぶ
琴酒開芳苑 琴酒芳苑に開き
丹墨點英人 丹墨英人[たんぼくえいじん]點ず
適遇上林會 適[たまたま]に遇ふ上林の會
忝壽萬年春 忝[かたじけな]くも壽[ことほ]ぐ萬年の春
(天子の慈愛は広く人民に及び、神のような大きな業はいいつくしがたい。鳳凰は台下を飛び翔り、魚は聖徳を喜んで水辺で跳ね躍る。松の清らかな響きは歌を添え、梅の香ぐわしい匂いを身に帯びる。琴と酒の雅宴を花咲く御苑の庭に開き、英才の人たちの詩書また絵を天覧に供している。思いがけなくも天子の御宴にお仕えいたし、うやうやしく天子万歳の春を寿ぎ申しあげる。)(江口孝夫訳)

 松風を楽の音色として聴くのは陶弘景と同じ趣であり、松風の詩情を詠ずる常套句とも言えましょう。その音色は琴にたとえられます。琴には独自の奏法があり、それに付随する音色がきわめて松風の音に似ているのです(『煎茶道』二〇〇四年十月号第五六六号「賞琴一杯清茗5」参照)。『懷風藻』には琴を詠じた詩がたいへん多く、一冊の「琴詩集」と言ってもよいほどです。中華文明への畏敬、神仙の希求、文人の憧憬が全篇に満ちています。またここに挙げた詩によって、日本の上古の時代に文人の興趣をもって味わう雅会がすでに行われていたことが知られます。文人趣味の興隆は江戸幕末に至ってはじめて起きたのではなく、遠く上古にまでさかのぼってその伝統と淵源を見いだすことができます。
 『懷風藻』よりおくれること八年後に編纂された『万葉集』には「同じ月の十一日、活道[いくぢ]の岡に登り、一株の松の下[もと]に集ひて飲[うたげ]する歌」と題された市原王[いちはらのおおきみ](生没年未詳、天平時代頃)の次のような歌があります。

 一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清[す]めるは年深みかも

 清音を奏でる松風の音。俗世の塵埃を洗いつつその下で酒杯をあげる情景もまた文人の興趣が横溢したものと言えましょう。
和歌には松風を詠じた多くの歌がありますが、歌人たちは琴の音とともに響く松風の音に耳をすましております。

 松の音琴に調ぶる山嵐は滝の糸をやすげて弾くらむ
  紀貫之(八七二〜九四五)

 松風を奏でる山嵐は、滝を絃にして琴を弾いている。
 滝を琴絃に見立てた詩的想像力あふれた歌です。

  夏の夜、深養父が琴ひくをききて
 短夜の更け行くままに高砂の峰の松風吹くかとぞ聞く
  藤原兼輔[ふじわらのかねすけ](八七七〜九三三)

 短い夏の夜が更けてゆくにつれて、養父が弾く琴はますます松風のように響いていく。
 琴を聴いて松風を連想している歌。

  野宮に齋宮の庚申し侍りけるに松風入夜琴といふ題をよみ侍りける
 琴の音にみねの松風通ふらし何れのをより調べそめけむ
  齋宮女御[さいぐうにょうご](九二九〜九八五)

 琴の音と松風はお互いに響き合っているよう、この音色はどの琴の絃から聴こえてくるのだろう。
 歌の作者自身が弾く琴の音色が、松風とまざりあって誰がこの音色を奏でているのだろうと訝しんでいる歌です。「松風入夜琴」は唐の詩人李嶠(六四四〜七一三)の「風」にある句「松清入夜琴」から。

 琴の音はむべ松風にかよひけり千歳を経べき君にひかれて
  二条太皇太后宮大弐[にじょうたいこうたいごうぐうのだいに](生没年未詳、平安時代)

 琴の音は松風と響き合っています、千年を生きる陛下に弾かれて。
琴はもともと天皇自身が弾く楽器でした。後に、天皇が弾くべき楽器は笛となり、琵琶となり、笙と変わって行きました。

 むらさきの雲ぢにさそふことのねにうきよをはらふ嶺の松風
  寂蓮法師(没年一二〇二)

 紫の雲がたなびく浄土への道をさそう琴の音とともに、俗世を吹きはらうかのように峰の松風が響いている。
 琴も松風も俗世の塵埃にまみれた心を洗い清め、忘れさせる音だということを歌っております。

 また『梁塵秘抄[りょうじんひしょう]』(一一八〇)という、平安時代末期に遊女たちの流行歌を集めた歌謡集には次のような歌があります。

 月影ゆかしくは、南面に池を掘れ、さてぞ見る、琴のことの音聽きたくは、北の岡の上に松を植ゑよ

 月の光を見たいと思うなら、屋敷の真南に池を掘れ、そうすりゃ池面に映った月が見える。琴が奏でる音が聴きたければ、北の丘に松を植えればいい。
 文人の風雅な興趣を茶化しているような歌ですが、この当時すでに文人の美意識というものが一般的であったことが知られます。

 海にをかしき歌枕、磯邊の松原琴を彈き、調[しら]めつつ、沖の波は磯に來て鼓[つづみ]打てば、雎鳩濱千鳥舞ひ傾れて遊ぶなり

 海についておもしろい歌の材料は、磯辺の松原は琴の音を響かせ楽を奏でている。沖の波は磯にうち寄せ、鼓のように音を立てる。その音で鶚[みさご]も浜千鳥もすっかりくつろいで舞い遊ぶというしだい。
 風流を解する心を持ったものが、平安時代には現代よりはるかに多くいたことでしょう。

 騒音と喧噪があふれる中で、松風のようなかすな音を聴きつけることはむずかしくなりました。荘子が言う「汝は地籟を聞くも、未だ天籟を聞かざらんかな」という言葉は、この松風にもそのままあてはまる時代となってしまいました。まさに松風は天籟の音です。古人がしたように静かに、俗世によごれた心を洗うこの松風にじっと耳を傾けたいものです。







松溪論畫圖 仇英(吉林省博物館藏)



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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