―賞琴一杯清茗― 第二十三回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の二十二    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇六年四月号第五八四号掲載

「垂柳小橋、紙[片+窗+心]竹屋、香を焚きて燕坐し、手に道書一巻を握る。客來れば則ち尋常の茶具、本色の清言、日暮れて乃ち歸り、馬蹄の何物たるを知らず」

小さき橋のほとり、しだれ柳のそばに竹で葺いた屋根に紙を張った窓のある住まいがある。ここに香を焚き、手には『道徳経』一巻を把る高士がいる。訪問客が来れば、別に酒食を供するでもなく、ふだんの茶でもてなすだけである。ただ本来自然の面目をもって老荘思想を語り合う。やがて日が暮れて客が辞し去るのを送り、馬の蹄を聞きながらその客が何者であったか意にとめない。

 琴学書に「淡として古に合す」という言葉があります。これは琴を弾じる際の最も大切な心構えを言ったものですが、文人の生き方にも通じるものがあります。弾琴は、衆人の耳に合うような派手で心躍るような音は奏でません。俗受けするような旋律もなく、世俗に流行するような曲もなく、古い時代から響き続ける音に耳を傾けます。「俗奏をしてはならない。古人の高き風格を[王+占][きず]つけてしまふが故に」これも琴学書からの言葉です。俗奏というのは音が前面にあらわれ刺激的で感情をゆるがすような音楽を言いますが、琴は音が発する向こう側にある聴こえない音を聴こうとするのものです。弾奏が淡であれば淡であるほど、内省的となってますますその音が聴こえてくるのです。琴韻は余韻となって響きます。古人はそれを天籟、松籟と言いました。また東皐心越琴道の最後の琴学者永田聽泉はこのように言っております。「總ての調子が低く、之れを一様の者が聴くと一向に面白味がなく、何やら倦み易い様な心地がする。抑も夫れ其処が琴の静かにして性を養なひ、心の落付を得させる緊要なる妙所である」と。「性を養な」うことは道に則った心を養うことです。静かに淡として奏でられた琴の音色は、古えに合し、道に合します。琴を奏でて古えの聖人たちを敬い慕い、日々恬淡として道に則って生きる。文人が琴を好んだ理由も、この深い精神性の音楽にありました。
 内面から発する音にいつも耳を澄ましているなら、自ずと淡とした生活をせざるを得ません。ですからこの条のように、たとえ馬の蹄の音と共に来る俗客、現代ではさしずめ自動車の音でしょうが、そんな来訪者があっても、社会的地位の高下の分けへだて無く、心動かされることも無く、ふだん通りの茶を出してもてなす。そして話すことと言えば、世の中を超然として俯瞰するような清談なる老荘思想。利のための話は一切しない。日が暮れるまで時間の経つことも忘れて話にうち興じ、客が去り、もとの静けさに戻った時も、また客が来たことを忘れている。淡として日々生活すること、それは道と古えに合するために最も適った生き方です。

「巖流の際に蔭映[いんえい]し、琴書の側[かたはら]に偃息[えんそく]し、心を松竹に寄せ、樂[たのしみ]を魚鳥に取れば、則ち淡白の願、是[ここ]に于て畢る」

巌が峙[そばだ]ち水が流れるところの物影に憩い休み、琴と書のある側で寝ころび休み、松竹の景色に心を寄せてこれを眺め楽しみ、楽しい気持ちを鳥の鳴き声や泳ぎはねる魚に託せば、無欲にしてさっぱりとした願いは、ここにおいて満たされる。

 外においては、緑したたる山水の間を逍遥して、川の流れの側の巌に体を休め、室においては、書物を並べた中、琴を枕にして古えの聖人たちを夢見、窓から庭の松竹をながめつつ四季の移り変わりを観じ、鳥や魚に心躍らされる。世間の煩わしさ騒がしさから遁れ淡白に恬淡として生きようとしたらこれは最低限必要なものかもしれません。
 淡白であれば心穏やかに日々を過ごすごとができ、心穏やかなれば深く生を見つめることが出来ます。しかしただ安穏として平凡な日々を過ごし、同じことを繰り返してばかりいては淡白なることにも飽きてしまい苦痛になりかねません。淡白に生きるとは決して生を薄めたものではなく、集中力を高め凝縮された日常を生きることだと思います。淡白な生活を送ることによってかえって心が深まり、精神的密度が増し充実した日々を過ごすことができます。陶淵明や杜甫の詩境が、官界から離れ田園や草堂においてさらに深まり発展したことがわかります。文人は淡白をもって創造性の原動力とするものです。淡白そのものを楽しみ、創作活動の源泉とするのが文人の在り様です。だからと言って、淡白な生活をもって修行に励む禅僧のように厳格に禁欲主義を通し、世間から隔絶し遠く離れ、真実なるものを追求し悟道に至ろうとするのはあまりにも非人間的に過ぎます。文人は現世的でどこか悟らないところがあります。しかしその悟らないところがあるからこそ藝術的世界を経験できるのです。藝術というのは五感を通して味わう快楽です。目では絵を楽しみ、耳では音楽を楽しみ、心では詩を楽しみ、鼻では香を楽しむ。しかもそれは決して濃厚な味わいというのでなく、老子『道徳経』の中の「淡乎其無味」(淡として其れ味無し)なるものでなければなりません。茶は味覚の中で、水の次に淡白な味わいでしょう。淡白の中にこそ無限の味わいを感じ取ることができます。その感覚を通して道に至ることができるのだと思います。
 そのために文人にとって琴と書は必須のものとなります。日々忙しく刺激的な濃厚な日常にあっては読書する気は起きるものではありません。心を穏やかに和ませるためには文人にとって弾琴は欠かせません。「琴」は「禁」に通じ、心の涵養のために弾じられる楽器です。その音色も自然の風の音、松風や鳥の鳴き声に和すもので、淡白この上なく詩的感興を呼び起こさずにはいられません。規律厳しい僧侶の寺院生活のあっても、琴は歌舞音曲とは見なさず修行を妨げない音楽として禁じられませんでした。読書に明け暮れ、疲れたら琴をとって弾じ、琴に飽きたらまた読書に勤しむ。単調にして淡白なる営為であっても、この二つは一生続けても飽きて止むことがないでしょう。






元琴 鳳勢式 銘 舌底鳴泉



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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