―賞琴一杯清茗― 第二十一回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の二十    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇六年二月号第五八二号掲載

「香を焚き茗を啜るは、自から是れ呉中の習氣[しふき]、雨窓却って少[か]くべからず」

香を焚き茶を啜るのは、もともと呉の国の風習である。雨が降る窓辺には香と茶は欠くことができない。

呉とは現在の江蘇省。急須(茗壷)で有名な宜興窯があるところです。『醉古堂劍掃』の時代は淹茶あるいは煎茶の喫茶法が流行していた時期で、この茶もおそらく宜興で焼いた急須に茶葉を入れ、湯を注いだか煮たかしたものだと思われます。
宜興は煎茶を嗜む人なら誰もが知っている有名な窯場です。江戸時代から煎茶人の憧れの地でもありました。茶道具だけでなく、文房具、花盆、盆器、盆鉢、なども焼かれており、盆栽の世界では急須より以上に鉢が尊ばれております。宜興窯の諸器の優れているところは、表面に目に見えない無数の気孔が空いており、そこに雑味や養分を吸収して、茶の味を良くしたり、通気によって盆栽の成長を促したります。長年盆養に供された蘭鉢などは肥料など与えなくとも充分育つとさえ言われます。宜興焼は陶器と磁器の中間にあるもので、釉薬をつけず、自然の素朴な味わいと土の風合いが損なわれずに生きています。道具として使うほど、古くなるほど玉のような輝きも生まれて、良いものとなるのが宜興陶磁器の魅力でありましょう。
宜興は陶磁の産として名を馳せておりますが、唐代では銘茶としても有名でした。明代の茶書『茶疏』には「江南の茶は、唐代の人は陽羨を第一とし、宋代の人は建州を最も重んじた。」(青木正兒『中華茶書』)とあります。「陽羨」は宜興、「建州」は福建省建甌県の古名。唐の詩人玉川子盧仝(―琴を賞す一杯の清茗―4参照)は「走筆謝孟諫議寄新茶」の中で、宜興茶は皇帝こそ喫すべきだと、そのすばらしさを称えております。

天子須嘗陽羨茶  天子須く陽羨の茶を嘗むべし
百草不敢先開花  百草敢て先んじて花を開かず

現代でも宜興から「陽羨雪芽」「荊渓雲片」(いずれも緑茶)などの茶が、浙江省杭州の「龍井茶」や、同じ江蘇省無錫近郊の「碧螺春」に押され気味ですが、産出されております。
中国の喫茶法の変遷史をたどると、唐代は蒸して日干しにして固めた茶を削って湯で湧かし、塩をひとつまみ入れたようです。宋代は茶を粉末に碾いて茶碗に入れ、湯を注いで茶筅で撹拌しました。日本の抹茶道と同じ方式です。元代は釜煎り製茶法が始まり、散茶(葉茶)が普及するようになります。明代に至って、急須に葉茶を直接入れ、湯を注いで浸出させる方法が案出されました。日本の煎茶道と同じ喫茶法です。急須で茶を淹れる喫茶法が流行したため、ここに宜興の陶磁器が隆盛してきたのです。
宜興茗壷の創始は、明代成化・弘治年ころ、宜興の東南の外れにある金沙寺の僧侶が発明したとされます。それを学んで優れた茶壷「供春壷」を製造したのが供春です。呉頤山という官吏が金沙寺に滞在し読書をしていた時、従僕であった供春がその暇に作り方を見覚えたという伝説が残されております。
供春の後、宜興名工として時鵬、その子の時大彬、弟子の李仲芳、徐友泉などがあらわれ宜興の茗壷は天下に名だたるものとなりました。宜興の茗壷には多く作者の銘が入ります。これは他の窯場には見られないことです。中国の陶業は無名の職人たちが分業をもって製していたので名が残っているのはあまりありません。土の作成から成型の行程をすべて一人の陶工が行うために銘が入れられたようです。
宜興茗壷は当代文人の審美眼によって発展してきました。供春の師は、名はさだかではありませんが僧侶という知識人でしたし、時大彬は陳継儒(陳眉公)に深く親炙しておりました。しかし、供春や時大彬の茗壷は名品とされていましたが、文震亨編『長物志』に「供春最貴、第形不雅、亦无差小者。時大彬所作又太小。(供春は最も高価だが、形が雅ではなく、また小さいものがない。時大彬が作ったのははなはだ小さすぎる。)」とあり、明末清初に生きた文人の審美眼、嗜好にすでに合わないものとなっていたようです。
時代は清代に至り、乾隆代に文人美意識の極めて横溢した茗壷があらわれます。それは「曼生壷」と呼ばれるもので、書家として名を馳せた陳鴻壽という文人の監修のもとに作られました。
陳鴻壽(一七六八〜一八二二)、字を子恭,号を曼生、曼壽、曼公,老曼。別号には来公亭長、西湖漁者、胥渓漁陰、恭壽、種楡仙客、種楡道人、翼庵などがあります。琴もまた善くした文人でした。嘉慶六年に科挙に合格し,同二十一年に、票陽県と宜興県を治める役人として赴任しました。陳鴻壽もいくつか茗壷を作ったようですが、多く実際に作陶したのは、宜興工人の楊彭年、楊宝年、楊鳳年(女性)ら楊三兄弟でした。陳鴻壽が設計した茗壷は、多種多様な形態があり、「曼生十八式」として現在でも茗壷製作の手本とされております。その洒脱にして高逸なデザインは、文化の爛熟期にあった乾隆時代にあって異彩を放っております。厳格で重厚な他の官窯の焼物にくらべ、超脱した自由さがあります。「曼生壷」は陳鴻壽がその形を設計し、楊兄弟が製作し、それに詩文や画を陳鴻壽が彫り込むというもので、文人画の如く、詩書画印が茗壷において一体となっているものです。まさに文人精神が「曼生壺」には体現していると言ってよいでしょう。陳鴻壽の功績は工藝品である宜興茗壷を藝術にまで高めたところにあります。
煎茶席で「曼生壷」は取り合わせが難しいせいか、あまり見受けられません。やはり書斎の机上に無雑作に置くにふさわしい茗壷かもしれません。

その他、茶に関する条を挙げます。

「茶は色臭[しょくしう]倶[とも]に佳[か]なるを取る。行家[かうか]偏[ひとへ]に味の苦[にがき]を嫌ふ。香は冲淡[ちうたん]を須[ま]って雅と爲す、幽人最も烟[けむり]の濃なるを忌む」

茶は色香りともに良質なものがよい。茶に精通した者はひとえに苦い味を嫌う。香はあっさりと淡白なものを高雅な香りとなし、隠者は濃い煙のものを忌み嫌う。

「茶は日を見て味[あぢはひ]奪はれ、墨は日を見て色灰[しょくくわい]となる」

茶は日に曝[さら]されると味が失われ不味くなり、墨は日光に当てると灰色となって色褪せる。

「茶は白きを欲し、墨は黒きを欲す、茶は重きを欲し、墨は輕きを欲す。茶は新しきを欲し、墨は陳[ふる]きを欲す」

茶の色は淡白がよく、墨の色は黒いほどよい。茶の味わいは重味があるのがよく、墨の質は軽量が最上である。茶は採りたての新鮮なものがよく、墨は古く久しく蔵したものが最良である。

「茶を採るには精ならんことを欲し、茶を藏するには燥[かは]かんことを欲し、茶を烹[に]るには潔からんことを欲す」

茶を採るには良き葉を選んで摘み取らなければならない。茶を保存するにはよく乾燥した場所を選ばなければならない。そして茶を煮るときは、心を清浄にして落ち着いて喫すべきである。





八聯隷書 陳鴻壽書

散此緗編、遲還芳札
偶有嘉酒、爰撫素琴



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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