―賞琴一杯清茗― 第二十回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の十九    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇六年一月号第五八一号掲載

「人人睡[ひとびとすゐ]を愛すれども、その味わひを知る者甚だ鮮[すく]なし。睡[ねむ]れば則[すなは]ち雙眼[さうがん]一つに合ひて、百事共に忘れ、肢體[したい]皆適し、塵勞[じんらう]盡[ことごと]く消ゆ。即[すなは]ち黄梁[くわうりゃう]南柯[なんか]は特[ただ]餘事のみ。靜修の詩に云ふ、書外交[かう]を論ずれば睡る最も賢なりと。旨い哉言や」

睡眠を好み愛する者は多いが、その味わいを知る者ははなはだ少ない。眠ればふたつの瞼[まぶた]はひとつに重なり、百事の煩雑を忘れ、肢体はすべて具合よく心地よく、世の中の苦労はことごとく消えはてる。この平凡なる睡眠にくらべれば、黄梁の夢、南柯の夢などよけいなことである。靜修という人の詩に「読書以外に交[まじわ]りを論ずるなら、睡眠を第一とする。」とある。なかなか妙を得た言葉だ。

睡眠とは自然の摂理であり、どんな生き物でも必ず眠ります。眠ることで心身ともに伸びやかに気力も充満してきて、生きて行く活力が生まれます。眠りを惜しんで働き続ければ、かえって効率も悪く、心身に害をおよぼしてしまい長生きはできないでしょう。睡眠を充分にとることが長寿の秘訣[ひけつ]です。古人は睡眠をとても大切なものと考えておりました。宋代の文人蘇軾は『東坡養生集』の中でこう述べています。
「私はふだん就寝する際に三昧の境地に入るようにしている。眠る直前に身体に歪んだ個処が無いようにベッドに横たわる。一個処でも歪んでいたら仕切り直しをして歪みを解消する。解消したら、ちょっとだるかったり痛かったりするところを探して按摩しておく。その後で目を閉じ、呼吸が規則的になるのを待って心をきちんと整える。これからは身体が痒[かゆ]くなっても動いてはならない。ひたすら入定に務めそれにうちかつ。しばらくすると身体全体は完全に調和し気が通ってきて眠くなってくるが、ところが眠っても意識が朦朧[もうろう]とすることはない。」
「私は毎日五時頃に起き、髪を数百回とかし、顔を洗い衣服を身に着けたら、清潔な几榻の上で夜と同じように仮寝する。この二〜三時間の仮寝はすばらしく快適で、夜中の睡眠も比べものにならない。朝になって吏員達が集合し、呼びに来たらさっさと起き上がり、衣冠を整えて馬に乗って登庁する。これが私の日常だ。」(大平圭一「日日と四季の健康法」より)
蘇軾は道士や僧侶から多くの養生法を学び自分に採り入れました。決して病気になったから養生法を学んだというのではなく、ふだんの日常の中で養生法を実践したのです。蘇軾は、日常生活を快楽的に生き、生を徹底させようということをした文人でした。
「黄梁の夢」とは、「一炊[いっすい]の夢」「邯鄲の枕」とも言い、唐代の李泌[りひ]が著わした『枕中記』という話です。
廬生[ろせい]という名の者が、邯鄲の地(河北省邯鄲市)で、呂翁[りょおう]という老人から不思議な枕を借りて茶店でひと眠りした。すると、自分がたくさんのお金と高い地位を得て栄華を極め、年老いて一生を終える夢を見た。夢から覚めると、自分が寝る前に茶店の人が煮ていた黄梁[コーリャン]の飯が炊きあがらないほど短い時間だったという話です。五十年の人生も、飯を炊く一瞬の出来事にすぎないと寓しています。
「南柯の夢」は、唐の李公佐が著わした『南柯記』という物語です。
唐の徳宗の時、淳于棼という者がいた。棼が酔っぱらって家の南にある槐[えんじゅ]の古木の下で眠っていたところ、槐安[かいあん]国からのふたりの紫衣の使者の迎えをうけた。そしてその国の公主の女を娶り、南柯郡太守として二十年にわたって富貴栄華を極め、幸せに暮らした。しかし、実はそれは夢のできごと、槐安国とは淳于棼が寝ていた槐の根元に巣を作った蟻の国で、南柯とは南向きの木の枝だったという話。
これほど大げさな夢を見て眠らなくとも、ふだんの心地よく快適な眠りは心身を爽快にさせ、気力を満ち渡らせ、目覚めて活動する栄養源となるものです。
靜修(1249〜1293) は名を劉因、字は夢吉、号は靜修。元代の保定容城(河北省)の人。朱熹の学統を継いで、理は気の先に存在することを論じ「性理學」の泰斗[たいと]と言われます。フビライに召されて官に就きますが、後にこれを辞して故郷に隠棲しました。著書に『四書精要』『静修先生文集』があります。靜修は、読書を終えて人と交わることをするより、眠るほうが賢こいと言うのです。隠棲した書斎において読書に明け暮れ、疲れたら眠るという生活を靜修はしていたのでしょう。 清閑する文人にとって美睡[うまい]をむさぼることは最も耽美なひとときです。夏の昼下がり、芭蕉林の下、榻[とう]の上で琴を弾き奏で、酒に酔って眠ってしまうほど幸福な時はありません。また冬でしたら、暖かな書斎で読書しながらのうたた寝。目覚めた時、まだ日は高く、茶童が差し出す馥郁とした一杯の茗を喫するほど美味しいものはないでしょう。
盛唐の詩人孟浩然の有名な詩、

 春曉
春眠曉を覺えず
處處啼鳥を聞く
夜來風雨の聲
花落つること知りぬ多少ぞ
(春の眠りは心地よく、夜の明けたのもわからぬまま寝過ごしてしまった。ふと気がつくと、あちらこちらで鳥のさえずりが聞こえる。そういえば、昨夜は雨風の音が激しかった。春の嵐に、庭の花々はさぞたくさん散ったことだろう。)

孟浩然もまた幸福な眠りをした文人のひとりです。

ところで、美睡をむさぼり続けた文人が日本におります。江戸中期の俳人で、自堕落先生北華(1700〜?)という人です。江戸の生まれ。幼名は伊三郎、成人して山崎三左衛門浚明、字を桓。軒を不量軒、庵を無思庵、斎を捨楽斎[しゃらくさい]、坊を確蓮坊[かくれんぼう]といい、自らを天地間の無用者と観じて桓臍人[かんせいじん]と号しました。これらの号だけでも自堕落先生の人となりがわかると思います。東京日暮里の養福寺堂前に篆書で「自堕落先生之墓」と大書した墓碑が遺されております。これは自堕落先生が生前に建立したもので、その時に先生は棺におさまり葬儀を執り行わせ、読経のさなか自ら棺を破って躍りあがり、飲めや歌えの騒ぎに興じました。まさに畸人中の畸人というべきで、生きながらの葬式は江戸の人々の評判となりました。著書に『風俗文集 昔の反古』『續奧之細道 蝶の遊』『勞四狂』(『老子道徳経』のもじり)があり、自伝ともいうべき『風俗文集』の中で先生はこう述べております。
「後隠れてより、其の平生只寝る事を業とす。月にも寝、花にも鼾[いびき]し、時鳥[ほととぎす]にも枕取り、雪の日は夜着を被る。朝は已に至らざれば起きず。起きて茶飯終われば、復横になり、寝[ね]草臥[くたび]れて首重く、骨痛めば起きてたばこのみ、復[また]反則[いねかへる]。」
「黄昏[たそがれ]には必ず盃を取り、酔至れば則ち伏す。宵惑ひして昼寝し、朝寝はいふに及ばず、喰っては寝、飲んでは寝る」(中野三敏著『新近世畸人伝』より)
こう書くと只の怠け者、堕落者としか思えませんが、先生の生き様は凄まじいほどの反俗、超俗にあったのです。先生の行動や言動は「大魚が小魚を喰ふ」封建社会の世の中への痛烈な批判でした。決まりきったことしか出来ない社会へ自堕落をもって反逆したのです。
佯[いつわ]りの葬儀以後、没年はさだかではありませんが、真なる死のその日まで、自堕落先生は市井に隠れ昏々と眠っていたことと思います。
勤勉を第一とし、ともすれば昼寝さえ罪悪視されかねない国柄にあって、自堕落先生のような人物は特異な存在であっても、現代の拝金資本主義社会への批判者として今も光芒を放っていると思います。そうは言っても先生はきっと冥土で居眠りをきめこんでいるでしょうが。







自堕落先生自画像。長い髭を貯え、それに香をたきしめ、髪を唐輪に結い、歯はお歯黒に染めていた。(中野三敏著『近世新畸人伝』より)



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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