―賞琴一杯清茗― 第十九回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の十八    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇五年十二月号第五八〇号掲載

「田園に眞樂あり、瀟灑[しゃうしゃ]ならずんば、終に忙人と爲[な]る。誦讀[しょうどく]に眞趣あり、玩味せずんば終に鄙夫[ひふ]と爲る。山水に眞賞あり、領會せずんば終に漫遊と爲る。吟詠に眞得あり、解脱せずんば終に套語と爲る」

田園生活には真なる楽しみがある。心はさっぱりと俗離れをしていないと、ただ忙しく雜事に勤しむだけになってしまう。読書には真なる興趣がある。深く読み込み意義をわきまえないと、ただの教養のない小人となる。山水に真なる観賞がある。それを会得しないと、ただの物見遊山の行楽客となってしまう。詩を吟ずるには真に得るべきものがある。俗情を捨て高尚なる心がなければ、陳腐でありきたりな詩しか詠めない。

田園生活の楽しみとは、生活は不便であっても心身ともに季節の移り変わりを感じられることです。都会生活にあっては便利で楽な生活を営むことができますが、草木の無い環境にいれば寒暑だけの季節を感じるのみでしょう。時おり次に来る季節が何であったか忘れることさえあります。自然とともに暮らせば、山の色付き、雲の流れ、雨音、虫や鳥の声などのかすかな気配に鮮明に季節を感ぜずにはいられません。しかし水を汲んだり、薪を割ったり、畑を耕したり、田園生活は忙しさに一日が明け暮れます。都会生活でも、時間刻みに時が過ぎ、俗事に忙殺されつつ生活して行かなければなりません。田園生活にあって自然を楽しむゆとり無く、農事や生産に専心従事するなら、どちらも同じ「忙人」となるわけですが、社会や世間とともに生きるよりも自然とともに生きるほうが人をより深く幸福にするに違いありません。「眞樂」とは自然を楽しむ心です。
多くの知識を蓄えたり、多くの書籍を読破したところでそれだけで教養を得るには到らないでしょう。ただ物事を知っているというにしか過ぎません。詩をそらんずることは出来ても、その意味や味わいがわからなければ何もなりません。知識の多寡[たか]でその人の善し悪しを判断できないのと同じことです。知識は生かさなければ無駄になり、かえって邪魔にもなります。たとえ数冊の書であっても、深くそれを読み込み、深く味わい、自身の中に一言一句を取り入れることができれば、言葉は身体の隅々にまで宿り生きるでしょう。教養とは立居振る舞い、挙動にあらわれるものです。
「山水の眞賞」とは胸中に山水があって、実際の山水を眺めることです。自己が山水を眺めているのか、山水が自己を眺めているのかわからない境地、是非を超えて無心に山水に対することが山水の真なる観賞の仕方です。
詩というのは、自身の言いたい事、訴えたいことをあからさまに饒舌に表現するものでありません。俗情や感情に流されて詩を吟ずるのではなく、高尚な心を持して、そこまで浮かび上がって到達した言葉をしぼり出すようにして詩に吟ずべきです。

「挾懷朴素[けふくわいぼくそ]にして、權榮[けんえい]を樂しまず、棲遲僻陋[せいちへきろう]にして利名を忽略[こつりゃく]し、葆守恬淡[ほしゅてんたん]にして、時の安寧[あんねい]を希[のぞ]み、晏然閒居[あんぜんかんきょ]して、時に瑶琴[えうきん]を撫[ぶ]す」


思想、心情は飾り気なく質素であり、権勢や威光をもてあそぶことはせず、辺鄙[へんぴ]でいぶせきところに世を避けわび住まいをして、私益や名声などに頓着せず、自らの真なる心情を守って無欲無心にいて、世の中が平和で安らかなことを望み、静かに落ち着いて暮らし、時々、玉のように澄んだ音色の琴を撫で奏でる。

世の中のすべての争いのもとは、権勢や威光を求める心にあると思います。人を支配したいとか、人より優れていたいとか、人より幸福でいたいという気持ちです。人の社会の原動力や活力の源となるものが競争することだと言いますが、それではいつまでたっても平和な世の中にはならないでしょう。競争に勝って人を傷つけ不幸にし、自分だけ幸福であればよいというのはあまりに卑小な行き方です。社会の中で人同志が競争し戦ったところで、お互いに否定し合うだけで何の意味、利益があるというのでしょう。戦いに勝った強い者が優遇され、負けた弱い者が虐げられるのは動物の世界に等しい。遊戯[ゲーム]のように人生に勝ち負けがあるなどというのも、浅薄にすぎる見方です。人の上に立ったり人より優れることを求め、それで人から羨望の眼差しを受けることによって幸福になると信じている。羨望されるというのは、嫉妬と憎悪が入り交じった危ういものです。ただ自らの心情が幸福になるのです。権勢や威光を求めること、それを求めないこと、いずれも幸福でありたいというのが目的ですが、はたしてどちらが真の幸福に到るかと考えるなら答えは自ずから明らかです。
かつて文人たちは「経世済民」をもって理想の社会を想い描いておりました。この言葉は経済の語源となるものです。世の中の平和と安定を保ち、人々の苦しみを救うという意味です。彼等は支配階級にありましたから、政治を執り行うことによって社会的貢献を果たそうとしたわけですが、しかし現実と理想の隔たりは大きく、政治の世界は常に権勢の争いが渦巻いておりました。陶淵明、白楽天や蘇東坡はさっさとそんな世界から逃れ、田園へ帰り隠棲をしました。だからといって彼等は決して社会を見捨てたわけではありません。彼等の存在によって人々の苦しみは救われ、平和と安定を希求するようになったのです。そして彼等に共通するのは、どこへ行っても琴書をたずさえていたということです。争いに疲れ憔悴したとき、傍らの琴を引き寄せ弾ずれば忽ち古代の平和な時代が蘇ってきます。その音色はかぎりなく心が癒され、慰められるものです。琴は争いを好みません。茶道の「和敬」のように琴道も「中和」の徳を尊びます。演奏の上手下手というのも琴の音楽にとって重要ではなく関係ないものです。演奏の巧拙を競うほど、琴の音楽的本質から懸けはなれるものはありません。心が静かに澄みかえった時、はじめて琴の音楽は生まれます。他人より上手に弾けたからといって悦に入るなら、それは琴道に悖[もと]る行為です。だからこそ争いを好まない多くの文人に愛され、それ故に自娯の音楽と言われるのです。自ら弾じ自ら楽しむ。権勢と威光からはほど遠いところでひとりの王となり、彼等はその音楽に耳を傾けていたのです。






『三希堂畫譜大觀』より



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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