―賞琴一杯清茗― 第十七回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の十六    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇五年十月号第五七八号掲載

「蒼海[さうかい]の日、赤城[せきじょう]の霞、蛾眉の雪、巫峽[ふけう]の雲、洞庭の月、彭蠡[はうれい]の烟、瀟湘[せうしゃう]の雨、廣陵[くわうりょう]の濤[なみ]、廬山の瀑布は、宇宙の奇觀を合せ、吾が齋壁を繪す。少陵の詩、摩詰[まきつ]の畫、左傳の文、馬遷の史、薛濤[せつとう]の牋、右軍の帖、南華の經、相如[しゃうじょ]の賦、屈子の離騒は、古今の絶藝を収めて、我が山窓に置く」

青い海原に昇る朝日、赤城の霞、蛾眉山に降る雪、巫峽にただよう雲、洞庭湖に浮かぶ月、彭蠡の烟霞、瀟湘に降る雨、廣陵の波、廬山の滝、それらが描かれた絵は、宇宙のありさまを呈し、吾が書斎の壁にかかっている。杜甫の詩、王維の画、春秋左氏伝の文、司馬遷の史記、薛濤の紙牋、王羲之の帖、荘子の書、司馬相如の賦、屈原の離騒、それら古今の優れた藝術は、吾が山荘の書棚に置いてある。

書斎は小宇宙です。壁に「宇宙の奇觀」をならべれば忽ちそこは壷中天です。詩人は行かずして旅をすると言いますが、世界を掌[たなごころ]におさめ、居ながらにして宇宙を飛翔する文人の書斎とは、そこで既に完結した世界と言えましょう。そして内面の宇宙を司[つかさど]るのが、これら藝術、文学作品なのです。
赤城とは浙江省、天台宗の本山天台山にある赤城山です。山肌が赤く、形が城のように見えるため名付けられました。十八の洞窟があり、仏教と道教の神々が祭られています。漢代から続く古い文化を有し、景勝地でもあるために文人たちの憧れの地として多くの墨客たちが訪れました。蛾眉山は四川省峨眉県四川盆地の西南にそびえる名山。気候は温暖、湿潤で天候が変りやすくいつも霧、雨に覆われていますが、真冬には雪に包まれます。峨眉山とも言いますが、遠方から見ると柔らかに湾曲した山の輪郭が美女の細く美しい眉(蛾の触覚のような)を思わせるので蛾眉と名付けられました。李白の「峨眉山月歌」で有名な山です。

峨眉山月 半輪の秋
影は平羌江水に入って流る
夜 清溪を發して三峽に向ふ
君を思へども見えず 渝州を下る
(峨眉山の上に半円の秋月が輝いて、その月影が平羌江の水面に映り、きらきらと流れている。私は夜中に清渓を舟出して三峡の難所へと向かっている。さっき見たあの美しい月をもっと見ていたいと思ったが、月は山の陰にかくれてしまった。舟はひたすら渝州[ゆしゅう]へ下っている。)

巫峡は長江三峡(西陵峡、巫峡、瞿塘峡[くとうきょう])の一つで二番目に大きな渓谷。大寧河の河口から巴東県官渡口までを言います。巫峡を表す言葉に「巫山雲雨」という言葉がありますが、晴れた日よりも雨や曇りや霧の日のほうが美しく、山水画そのものの世界です。
洞庭湖は長江中流域の大湖。古来より多くの文人に「洞庭は天下の水」と賛美されてきました。日本の文人にとっても洞庭湖は西湖とならんで憧憬の地であり、松尾芭蕉は「抑[そもそも]、ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥じず」と『奥の細道』の中で述べています。芭蕉はまだ見ぬ洞庭湖を松島の風景に見ていたのでしょう。京都大覚寺の大沢池は、嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれています。日本最古の人工池です。
彭蠡は江西省の[番+邑]陽[ポーヤン]湖。「彭蠡の浜には魚をもって犬に食わしむ 」(物が多すぎるとその価値も下る)という諺があります。
瀟湘は、瀟水,湘水という二つの河川が交わって洞庭湖の南に注ぐあたりの地です。「瀟湘水雲」という宋代に作曲された琴曲がありますが、これは中国音楽史上最も名曲とされるものです。また瀟湘の風景は「瀟湘八景」として多く詩や画に描かれてきました。その八景を並べてみます。

平沙落雁[へいさらくがん]  雁の群が干潟に舞い降りてくる風景
遠浦帰帆[おんぽきはん]  遠く帆掛け船が夕暮れに戻ってくる風景
山市晴嵐[さんしせいらん]  山霞に煙ってかすむ山里の風景
江天暮雪[こうてんぼせつ]  雪が河の上に舞い降る日暮れの風景
洞庭秋月[どうていしゅうげつ]  洞庭の湖上にさえ渡る秋の月
瀟湘夜雨[しょうしょうやう]  夜の瀟湘にもの寂しく降る雨の風景
煙寺晩鐘[えんじばんしょう]  夕霧に煙る山寺より遠く響いてくる鐘の音
漁村夕照[ぎょそんせきしょう]  夕陽に照らされたうら寂しい漁村の風景

日本にもこの「瀟湘八景」を模した「近江八景」(滋賀県琵琶湖)「金沢八景」(神奈川横浜市)「東都八景」(東京)「水戸八景」(茨城県水戸市)などがあります。「金沢八景」は日本琴學中興の祖東皐心越禅師の命名になるものです。
廣陵は揚州。廣陵の濤とは長江の波。李白に「黄鶴樓にて孟浩然の廣陵に之くを送る」という送別詩があります。

故人 西のかた黄鶴樓を辭し
煙花 三月 揚州に下る
孤帆の遠影 碧空に盡き
唯見る 長江の天際に流るるを
(旧友が西方にある黄鶴楼を離れ、霞と花の三月、揚洲に下って行く。長江に浮かぶ帆影が一つ、遠ざかり青空の彼方に消えた。あとにはただ長江が漫々として天の際まで流れているだけだ。)

廬山は江西省九江市ある名山。北には揚子江が流れ、南は朸陽湖[りょくようこ]に臨み、大平原の真中にまるで島のように浮かんで見える絶壁の群峰が聳え立っています。これもまた李白の詩ですが「廬山の瀑布を望む 」という名詩があります。

日は香爐を照らして 紫烟生ず
遥かに看る 瀑布の長川を挂くるを
飛流 直下 三千尺
疑ふらくは是 銀河の九天より落るつかと
(日の光は香炉峰を照らして、紫の煙が立ち上っている。遥か遠く、長い川を掛けたような瀧が見える。飛び下る流れはまっすぐに三千尺。これは銀河が空高くから落ちてきているのではないかと思ってしまう。)

少陵は、李白とならぶ唐の大詩人、杜甫。杜少陵。少陵は号。
摩詰は王摩詰、王維の字。王維もまた唐の大詩人であり、李白、杜甫、王維を以て盛唐の三大家と呼ばれます。王維はまた、画や琴を善くし、琴曲「陽關三疊」は王維の作曲になると言われております。画ついては、南画、文人画の祖として仰がれ、伝統的な絵画を離れて彩色を用いず、線の輪郭もなく墨の濃淡だけで、ものの外形にとらわれない自由な絵画表現を創始しました。宋の詩人蘇軾は「詩中に画あり,画中に詩あり」と王維を評しました。晩年、長安の南東藍田の別荘に隠遁し清閑に生きた代表的文人の一人です。
『春秋左氏伝』は、歴史経書『春秋』に魯国の左邱明が注をつけたものです。豊富な資料に基づき詳細に『春秋』を補った書です。
司馬遷は前漢時代の歴史家。司馬遷が著わした『史記』は単に歴史の記述書ではなく高度な文学と言えます。
薛濤は唐代の女流詩人。字は洪度[こうたく]。良家の生まれでしたが没落して妓楼に入り、白居易、劉禹錫、杜牧らと交遊し、ともに詩作をし、妓女詩人として名声を得ました。紙を漉くことが好きで、紅色の原稿用紙、薛濤箋を作った女性です。
王羲之は東晋の書家。字は逸少。その官名から王右軍とも呼ばれます。永和九年(353)三月三日会稽山陰(浙江省紹興県)の蘭亭に一流名士を集め曲水流觴の宴を催しました。一觴一詠、それぞれ四言詩五言詩を作り、そのときの詩賦をまとめて『蘭亭集』とし、王羲之の前序がつけられました。それが有名な「蘭亭序」です。楷書の「楽毅論」「黄庭経」、草書の尺牘を集めた「十七帖」などがありますが、王羲之の真蹟と称すべきものは残念なことに現存しません。
『荘子』の著者荘周は、唐の玄宗皇帝に「南華真人」の号を贈られ、その書が『南華真経』とも言われるようになりました。
司馬相如は前漢時代の文学者。字は長卿。「子虚の賦」「大人の賦」「長門の賦」などを作り、辞賦の第一人者としての地位にありました。また富豪卓王孫の娘の文君との恋愛劇としても有名です。相如は文君の弾く琴の音に心を奪われて、相如は即興で『鳳求凰』という曲を琴で奏で求愛し、恋する卓文君の愛を得て二人で駆け落ちしたという話。琴曲『鳳求凰』は現存曲です。
楚の詩を集めた『楚辞』の中に、屈原の凄まじいほどの愛国の情が込められた「離騒」は収めてあります。北方の古代文学が『詩経』ならば『楚辞』は南方を代表する古代中国の文学作品です。












牧谿 南宋 漁村夕照圖 (根津美術館蔵)



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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