―賞琴一杯清茗― 第十八回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の十七    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇五年十一月号第五七九号掲載

「好香は用ひて以て徳を薫じ、好紙は用ひて以て世に垂れ、好筆は用ひて以て花を生じ、好墨は用ひて以て采を煥[あきら]かにし、好水は用ひて以て心を洗ひ、好茶は用ひて以て煩を滌[あら]ひ、好酒は用ひて以て憂[うれへ]を消す」

好き香は、これを焚いて徳を薫じることに用い、好き紙があれば、詩文を書き列ね、世に伝えるためにこれを用い、好き筆があり、これを用いて文字を書せば、その文字は花のように馨しい。好き墨があったなら、これを磨りて美采を輝かし、好き水は、これを飲めば心身を清浄ならしめ、好い茶があったなら、これを煎れて煩悶を滌[すす]ぎ清め、好い酒があったなら、これを酌んで憂へを消散せしめる。

「徳を薫ず」とは薫陶という言葉があるように、衣服に香を薫きしめ、徳が染み込むように人徳を高めること。机上に良質な文房四寶が置かれていることは、文人にとって基本的な最も大切なことです。常に「良質」を求めることは生涯変わることはありません。「良質」とは器物にそれを求めるだけでなく、自身の「良質」さ、すなわち人徳を高めることでもあります。贅をこらすだけでは「良質」は得難い。中国五代南唐の澄心堂紙、剔犀[てきさい]とよばれる漆を何層にも塗り重ね、深く彫りおこした堆黒の筆、明代萬暦の方于魯[ほううろ]の墨、それらがあったとしても、これを使いこなせるだけの創造性豊かな人でなければ、所有の意味がありません。かえって名物にかこまれればかこまれるほど、自身が埋もれてしまうこともあるのです。玩物喪志[がんぶつそうし]という言葉がありますが、これは『書経』の「物を玩べば志[こころざし]を喪ふ」に拠ったものです。名物を所有することの優越感だけに満足していては自身の志や徳をおとしめるだけです。そんなものは省みず忘れおくべきです。さもなければ、後世へ伝える保管者となるべきです。物には徳や魂が宿っていると言います。「石には徳がある」と言っても欧米人には理解し難いことですが、日本人は必ず理解できるでしょう。名物が名物とされる理由は、作者の人格や人徳がそこに反映しているからです。名物を所有するなら、そこに具[そな]わる徳に自身が感化されなければなりません。名筆を持ったならそれにふさわしい字を書くこと、名紙があったならそれにふさわしい詩文を書くこと、名墨があったならそれを磨る勇気を持つこと。しかしそのものの価値を知らずにそれを行うのは愚かなことです。

「竹籬茅舎[ちくりばうしゃ]、石屋花軒[せきをくくわけん]、松柏郡吟[ぐんぎん]し、藤蘿[とうら]景[かげ]を翳じ、流水戸[こ]を遶[めぐ]り、飛泉簷[えん]に掛かり、煙霞棲まんと欲し、林壑[りんがく]将に瞑せんとす。中に野叟山翁四五を處[を]らしめ、余は閒身を以て、此中の主人となり、坐して紅燭[こうしょく]に沈み、遍[あまね]く青山を看[み]、我が情腸を清うし、他の冷眼に任[まか]す」

竹の籬[まがき]をめぐらした茅葺きの家、石を積んだ家屋の軒端に花々は開き、聳え立つ松柏の葉末を過ぎる風が蕭々[しょうしょう]として楽の音を奏で、藤や蘿[かづら]が生い茂って、日の影を翳[おお]い、流れる水は家のまわりを遶り、瀧の水は簾[すだれ]のように掛かり、煙霞はここに棲むかのように止[とど]まり、林や山々は静かに瞑想するかのよう。その風景の中に田舎人や農夫などがおり、私は閑人として此処の主人としてある。夜は坐して紅燭に火を点して沈思黙考し、昼は杖つき四方の青山を看てまわり、我が心にわき出る妄想妄念はことごとく消えて清浄となる。人が私のこの生活を冷眼視しようとも、気にすることも意に介すこともない。

自然とともに閑適の生活を送る文人の楽趣を述べた条をいくつか挙げます。

「累月獨處[るゐげつどくしょ]し、一室蕭條[せうでう]たり。雲霞を取りて伴侶と爲し、青松を引いて心知と爲し、或は稚子老翁、閒中に來り過[よぎ]り、濁酒一壺、蹲鴟[そんし]一盂[う]、相共に咲口[せうこう]を開き、談ずる所は浮世[ふせい]の閒話、絶えて市朝に及ばず。客去りて門を關[と]ぢ、了[つひ]に報謝なし。是[かく]の如くにして餘生を畢[を]ふれば足れり」

月をかさねて長い間独[ひと]り一室にもの寂しく安んじ居り、雲や霞の景色を伴侶とし、青松をもって心から信頼できる友と見なす。時々、童子を伴った老翁がこの閑寂なる住まいに訪ねて来れば、一壷の濁酒を差出し、一皿に盛った芋でもてなす。お互いに笑いさざめき、話すことと言えば浮き世の無駄話、決して営利や名利を求める市井の話にはおよばない。客が去れば門を閉じ、礼を述べ合うこともない。このように淡然として悠々自適に一生を終えれば、これ以上の幸福を求める必要はない。

「茅檐[ばうえん]の外、忽ち犬吠鷄鳴[けんはいけいめい]を聞けば、恍として雲中の世界の如し。竹窗の下[もと]、唯蝉吟鴉噪[せんぎんあさう]有れば、方[まさ]に靜裡[せいり]の乾坤なるを知る」

茅で葺[ふ]いたあづまやの外で、ふと犬の吠え声や鶏の鳴き声を聞けば、さながら雲たちこめる仙郷に住むような心地がする。竹窓のあたり、蝉が鳴き鴉[カラス]のさわぐ声を聞くと、はじめて静かなる別天地にいることがわかる。

「高山に上り、深林に入り、廻溪[くわいけい]を窮[きは]め、幽泉怪石は遠しとして到らざる無く、到れば則[すなは]ち草を拂[はら]ひて坐し、壺を傾けて醉ふ。醉へば則ち更[こもごも]相ひ沈籍して以て臥す。意も亦[また]甚[はなは]だ適すれば、夢も亦趣[おもむき]を同じうす」

高い山にのぼり、深い林にわけ入り、めぐり曲がれる谷間をきわめ尋ねる。幽邃[ゆうすい]な泉や奇怪な岩があれば、たとえ遠くても足跡を残さないところとてない。そのような場所へ到ったならば草を払って坐り、たずさえた酒壺をかたむけて酔い、酔えばすなわち手枕にてそのままそこに臥[ふ]して眠る。心もはなはだ快適で、夢もまた趣を同じくして楽しいものを見る。

「茅屋三間、木榻一沈、清香を燒[た]き、苦茗を啜り、數行の書を讀み、懶[ものう]くして倦めば便[すなは]ち松梧之下[もと]に高臥し、或は行吟を科し、日常苦茗を以て肉食に代へ、松石を以て珍奇に代へ、琴書を以て益友に代へ、著述を以て功業に代ふ。此[これ]亦樂事なり」

三部屋しかない茅葺きの家には、木の榻(寝椅子)と枕が一箇が備えてある。清香を焚いたり、苦茗(茶)を啜り、書を数行読んだり、心が倦み疲れたなら外に出て、松や梧桐の木の下で高尚な気持ちで臥し、あるいは散策して詩を吟じ、日々の食事は茶をもって肉食に代え精進し、松石をもの珍しい物に代えてこれを眺めやり、琴や書物を有益な友に代え、著述することによって功業を立てるに代える。このような営為は人生において最も楽しい事である。

「高丘に登り邃谷[すゐこく]を歩む毎[ごと]に、延留燕坐[えんりうえんざ]し、懸崖瀑[ばく]流れ、壽木[じゅもく]蘿[ら]を垂るるを見て、間邃岑寂[かんすゐしんせき]の處、終日返るを忘る」

高い丘に登ったり、深く幽[くら]い谷の中を歩むごとに、時おり、くつろぎ坐って久しく止まり、険しい崖から流れ落ちる瀧を眺め、古木に蔦かずらが纏[まと]い垂れる様を眺める。この奥深く静寂な場所にいると、日を終えるまで帰るのを忘れてしまう。






張觀 山林清趣圖 明代 



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



<<前回  次回>>

鎌倉琴社 目次