―賞琴一杯清茗― 第十四回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の十三    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇五年七月号第五七五号掲載

「雨を帯び時有りて竹を種[う]ゑ、門を關[とざ]して無事花を鋤き、筆を拈じて間[ま]ま舊句[きうく]を刪[けづ]り、泉を汲みて幾たびか新茶を試む」

通り雨が降りて過ぎ、草木が潤えば竹を植える。門戸を閉ざし、世俗との交渉を断って無事に暮らし、畠に鋤を入れ花々を育てる。感興のおもむくまま筆をとって時々、古い詩稿を取り出し、意に満たぬ詩句を削る。清泉を汲んで来ては何度も新茶を煎れて喫してみる。

清閑を愛す文人にとって、新茶の到来という一事はとても大きな出来事と言えましょう。わざわざ遠くまで清らかな泉を汲みに行ったり、精緻で古雅な茶器をそろえて、湯の温度をみたり、どの急須が合うか、どのような煎れ方が新茶の美味を引出すか工夫します。一日の大半を一杯の新茶のために従事することはなんと幸福なことでしょう。 さらに一杯の新茶を喫しながら、自らの詩稿の添削をする。文人にとって茶を喫するという行為は、詩作や創作に疲れた精神を休ませるひとときです。あるいはまた詩想を錬るために頭脳を聡明にします。文人は茶人であり詩人であるべきです。すべての物事が、詩に映り、詩の材として生かすのが文人です。文人のすべての行いは一篇の詩を残すためにあると言っても過言ではありません。高価な骨董に囲まれ、歴代著名な書画を集めならべ、机上の文房四宝をながめることだけが文人の目的ではありません。 唐宋の官僚たちは政治において名を残すよりも、詩人として後世に名を残すことを求めました。死後に至って文雅な人であったと人々に敬されることを名誉としたのです。公共的に事業を成して歴史に名をとどめるより、一個の感情を持った自分の名を歴史に残すという、その方が遥かに難しく成し得ることではないかもしれません。自己が確かにこの世界に在ったという証を一編の詩に託そうとするのが文人です。文人は死して詩を残すのです。

「詩を作るには能く眼前の光景、胸中の情趣を把[と]りて、一筆に冩し出す。便[すなは]ち是れ作者なり。必ずしも唐を説き宋を説かず」

詩を作る場合はよく眼前の光景を見て、胸中に生まれる情趣をとらえて、初めて筆をとり吟詠すべきである。光景と情趣が一致し、それを表現することができる者こそほんとうの詩人である。別に唐宋の典型となる詩を説くことはないのだ。

詩は、目の前にある光景に感応して、胸中深く眠っている情趣が湧きおこった時に生まれるものです。あくまで自己の感覚や感情に基づいた言葉を撰ぶべきであって、他所[よそ]から言葉を借りてくるものではありません。今見ている情景と自分の心は他に替えがたいものです。美辞麗句をならべたり、他人の詩を剽窃[ひょうせつ]し換骨奪胎をしてみたところで、文字の羅列が出来上がるだけで、何の意味もありません。たとえ素朴で稚拙であっても心の中で生まれた言葉は人に感動を与えるものです。しかし詩というのは形式です。俳句なら五七五の十七文字におさめ、漢詩なら平仄に則り五言、七言におさめます。それに当てはまらなければ詩ではなく必ず放恣に流れた散文となってしまうわけです。そのために古人が残した詩をおおいに学ぶべきですが、唐宋代の詩を論じてばかりいてはその優れた傑作群に圧倒されるだけで、観賞するのみの評論家になってしまいます。自らの心から生まれた詩心を大切にして、唐宋代の詩に伍すとは言わないまでも、せめて古人の風韻が感ぜられるような、古人に恥じないような詩を作りたいものです。

「庭前の幽花時に發[ひら]く。披覽[ひらん]既に倦めば、毎[つね]に茗を啜りて之に對[たい]し、香色人を掠[かす]め、吟思忽ち起れば、隨[したが]ひて一古詩を歌ひて以て深興に適す」

雅びて奥床しい花が庭に咲き誇り、読書に疲れた瞳を移しながめ、静かに茶を啜れば、花の美しさ、茶の香りが心を動かし、たちまち詩を吟ずる感興が湧きおこってくる。意に随がって一編の古詩を作り歌うなら、この幽興はますます深くなる。

稿を前にして筆をとり、常に詩作に専念するというのではなく、詩的な生活の中に身をおきながら、常に詩想が湧きおこるのを待っているのです。詩を作るためには詩を生きるということが肝要です。詩想が沸き起こる時はふとしたきっかけで起こります。そういう状態に常に身をおいていることが文人としての心構えでありましょう。

「淨几明窓、一軸の畫、一嚢[なう]の琴、一隻[せき]の鶴、一甌[おう]の茶、一爐[ろ]の香、一部の法帖、小園の幽逕[いうけい]、幾叢の花、幾群の鳥、幾區の亭、幾巻の石、幾池の水、幾片の閒雲」

明るい窓の下、塵を払った机をすえた書斎に、一軸の画を展べひろげて目を遊ばしめ、壁に懸かる嚢[ふくろ]に入った琴、窓の外の一羽の鶴をうちながめ、小盆に載せられた一杯の茶、一炉の香炉に香を焚き、一部の法帖をひらいて古人を想い慕う。小さな庭園に下り立ち幽邃なる小径を散策するなら、幾つもの花々が咲き誇り、幾群れの鳥が飛び渡り、幾辺の亭に憩い、幾つか据えられた石、幾つかの池の水、空を仰ぎ見れば、幾片かの雲が静かに流れて行く。

古雅なる淨器にかこまれ、風雅なる佳景の中に身をおいて心を養生すること。詩意あふれる道具や器物を身のまわりに置いて、生活の周辺までも詩意に適った世界にしてしまうこと。現代生活においてそれをするのは難しいことかもしれませんが、しかし古人が生きた時代も同じであったことでしょう。今よりもっと生活は不便で物に恵まれていなかったはずです。ただ机はいつも清浄に保ち、一軸の畫、一嚢の琴、一杯の茶を大切にしていました。決して多くを必要とはしません。物が溢れることと心が豊かになることとは正反対のものです。それら一つのものに深い想いを寄せ、遥か彼方、遥か遠い世界に逍遥したのです。蒐集家というのは埋められない心の隙間を物で満たそうとする人々でしょう。増えてよいのは書物ばかり。しかし背文字ばかりを並べていては同じことになってしまいますが。
現代人と古人の違いがあるとすれば、文雅な心、詩の心を持っているかいないかです。一杯の茶、一嚢の琴に詩心を感じたなら、忽ちにして古人と邂逅し、想いを交歓することができるでしょう。文雅の心というのは、時代を超えて普遍的にあり続けるものです。

「茶熟して香清し。客あり門に到るは喜ぶべし。鳥啼き花落ち、人無きも亦悠然たり」

茶がよく煎じられ、香り高く清らかなる時に、折よく我が家に訪のう客があったなら、喜びこの上ないものがある。鳥の声が寂しく聞こえ、花は散り、その静寂の中に一人いるならば、心はゆったりとして、それもまた自ずから楽しみがある。

世間から遁[のが]れ、孤高ばかりを保っているのではあまりに寂しいことです。時折訪れる来客とともに香り高き茶を喫し合う喜びは他に替え難いものです。しかし俗人の来訪ではかえって煩わしく、この客人は我が志と同じうする友であることは言うまでもありません。







『三希堂畫譜大觀』 清代光緒年



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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