―賞琴一杯清茗― 第十三回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の十二    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇五年六月号第五七四号掲載

「長松怪石、墟落[きょらく]を去ること一二十里に下らず、鳥徑崖に縁[よ]り、水を草莽[さうまう]の間に渉ること數四、左右の兩三家相望み、鶏犬の聲相聞え、竹籬の草舎、其間に燕處[えんしょ]し、蘭菊をば之に藝[う]ゑ、水に臨みて時の桃梅を種[う]う。霜月春風、日に自ら餘思あり、兒童婢僕、皆布衣短褐[ふいたんかつ]、以て薪水[しんすい]を給し、村酒[そんしゅ]を醸して之を飲む。案に詩書、莊周、太玄、楚辭、黄庭、陰符、楞嚴、圓覺數十巻あるのみ、藜[れい]を杖つき屐[げき]を躡[ふ]みて、窮谷大川を往來し、流水を聽きて、激湍[げきたん]を看、澄潭[ちょうたん]に鑒[かんが]み、危橋[きけう]を歩み、茂樹[ぼうじゅ]に坐し、幽壑[いうがく]を探り、高峰に登る、亦樂しからずや」

人のいない廃村を過ぎること一二十里ばかり、岸に沿って小鳥が通うだけの径[みち]に高く聳えた古い松と怪石がある。そこの草むらの間を流れている小川を四回ほど渉ると、左右に農家が二三軒眺められる。鶏[にわとり]の鳴き声や犬の吠え声があたりに聞えて来て、竹のまがきや草の庵がその間に見える。庭には蘭や菊が植えてあって、川のほとりには桃や梅の樹が望まれる。この鄙びた土地は、霜降る寒月の夜や春風温かな陽春のころなど自ずから風情があり、子供や労働する人々は皆質素で木綿の服やひとえを着ている。日々薪を採り水を汲み、醸した地酒を飲んで楽しんでいる。几案の上には、『詩経』や『書経』、荘周が書いた『荘子』、揚雄の著わせる『太玄経』、屈原の書いた『楚辞』、黄帝の伝説を編纂した『黄庭経』、黄帝が撰した『陰符経』、仏の著になる『楞嚴経』、円覚の諸経などが数巻あるだけである。藜[あかざ]の杖をつき木鞜[きぐつ]を履いて深い谷や大川を行き来して、流れる水に耳を澄ましたり、流れの激しい川波を眺めたり、澄みきった淵に思いを沈め、危うい橋を渡り、鬱蒼と茂る木々のもとに腰をおろす。そして奥深い渓谷に入り込み、高い峰に登る。また楽しいことである。

文人が住う環境のことを述べています。
あたかも一幅の山水画を観るように、杖をひいて山中を逍遥する高士を彷佛とさせます。おそらく後ろに付きしたがうのは琴を抱えたひとりの琴童でしょう。このような場所で生活することが文人の理想とするものです。文人は自然を崇拝します。自然に溶け込むことはある種の宗教体験と言ってよく、胸中の山水と実際の山水が一つになった時、文人にとって法悦の時となるわけです。そして自然の中にある居室の机上には古典籍が数冊置かれています。特に『荘子』は文人にとって必読の書で、文人ならんと欲するなら、先ずこの『荘子』を精読しなければなりません。この書は自然に則った宇宙、世界観、人生観が寓言(寓話)の形で書かれてあり、歴代文人、広くは東アジアの芸術家たちの精神的支柱、思想の根幹となったものです。中国や日本の伝統芸道のすべてに深くこの『荘子』の思想は根ざしているといっても過言ではありません。書道も茶道も画道も武道さえも、芸が道に至るという考え方は『荘子』の思想から始まりました。煎茶の席で清談するのは「老荘思想を談ずべし」と言われますが、「老荘」とは『老子』『荘子』の二つを言います。これを談ずることは決して格式張った陳腐な会話にはなりえず、汲めども尽きぬ発想や考え方を発見する契機となります。茶を喫しながらともに朋友と老荘思想を語り合えるなら、それこそ山水画の中の人物となるでしょう。
「鶏犬の聲相聞え」るというのは、ごく普通にあるのどかな農村風景ですが、『老子』道徳経八十章に「その食を甘しとし、その服を美とし、その居に安んじ、その俗を楽しましむ。隣国相望み、鶏犬の声相聞こえて、民老死に至るまで、相往来せず。」という言葉によるものです。これは「小国寡民」という理想的な国家像を述べ、隣国から鶏犬の声が聞こえて来ても往来することはなく、この地に安んじて死ぬまで平和に暮らす民のことを言っております。ごく普通の日常生活の風景こそ、平和そのもの在りようと言ってよいでしょう。陶淵明の「桃花源詩」の中にも「鶏犬相聞える」とあり、まさに桃源郷の情景をあらわしております。

「門内に徑[みち]あり、徑は曲らんことを欲す。徑轉[てん]じて屏あり、屏は小ならんことを欲す。屏より進みて階あり、階は平ならんことを欲す。階畔[かいはん]に花あり、花は鮮ならんことを欲す。花外に墻あり、墻は低からんことを欲す。墻内に松あり、松は古ならんことを欲す。松底に石あり、石は怪ならんことを欲す。石面に亭あり、亭は朴ならんことを欲す。亭後に竹あり、竹は疎ならんことを欲す。竹盡[つ]きて室あり、室は幽ならんことを欲す。室傍に路あり、路は分れんことを欲す。路合うて橋あり、橋は危[あやふ]からんことを欲す。橋邊に樹あり、樹は高からんことを欲す。樹陰に草あり、草は青ならんことを欲す。草上に渠[きょ]あり、渠は細からんことを欲す。渠引きて泉あり、泉は瀑ならんことを欲す。泉去りて山あり、山は深からんことを欲す。山下に屋あり、屋は方ならんことを欲す。屋角に圃[ほ]あり、圃は寛ならんことを欲す。圃中に鶴あり、鶴は舞はんことを欲す。鶴客ありと報ず。客は俗ならざらんことを欲す。客室に至れば酒あり、酒は却けざらんことを欲す。酒行[めぐ]れば醉ふあり、醉ひては歸らざらんことを欲す」

門の中に小径[こみち]がある。径は曲がりくねっている方がよろしい。径を曲がったあたりに塀[へい]がある。塀は小さい方がよろしい。塀にそって歩むと階段[きざはし]がある。階段は平らなものがよろしい。階段のそばに花がある。花は色鮮やかなものがよろしい。花の向こうに墻[かきね]がある。墻は低い方がよろしい。墻のうちに松がある。松は古い方がよろしい。松の下には石がある。石は奇岩怪石がよろしい。石の正面に亭[ちん]がある。亭は質素で鄙びた方がよろしい。亭の後ろがわに竹がある。竹は密にならずまばらな方がよろしい。竹が尽きて無くなるところに室[へや]がある。室は幽寂なる方がよろしい。室の傍らには路がある。路はわかれている方がよろしい。路が合うところに橋がある。橋は頑丈につくるよりも華奢[きゃしゃ]な方がよろしい。橋のあたりに樹々がある。樹はそびえ立っている方がよろしい。樹陰[こかげ]に草が生えている。草は青々としている方がよろしい。草のあたりに渠[みぞ]が流れている。渠は細い方がよろしい。渠はのびてその先に泉がある。泉は滝のように流れる方がよろしい。泉を離れると山がある。山は奥深い方がよろしい。山の下[もと]に家がある。家は方形である方がよろしい。家の角に畑がある。畑は広い方がよろしい。畑の中に鶴がいる。鶴は舞いを踊る方がよろしい。鶴が客の来たことを報[しら]せる。客は俗でない方がよろしい。客が書斎に訪れれば酒を出す。客は酒を遠慮しない方がよろしい。酔いが五体にめぐる。心地よく酔ったなら帰らない方がよろしい。

文人が住う居宅について述べています。
これもまた一幅の南画を観るような条です。この条は「景」という章にあるものですが、前文に、このような文人生活の情景を詩で詠んでは言いつくせず、画に描いても描きおおせず、しかし高人韻士は片言雙語をもってして言い表すことができると言っております。すなわち『醉古堂劍掃』のような文学形式がふさわしいと言っているわけですが、まことのその通りだと思います。






荘周生没年不明。前三七〇〜三〇〇頃。宋の蒙県(河南省)の人。字は子休。姓は荘、名は周。荘子[そうじ]は尊称。若いころに漆園を管理する小役人となったが、仕官の志を捨てて隠棲。著述と思索に専念した。『荘子』(現存三十三篇中の内篇七篇が荘周自身の著といわれる)を著した。『荘子』はまた『南華真経』ともいわれる。老子の無為自然を発展させ万物斉同(万物同一)と因循主義(反進歩主義)の哲学を唱え、自然の道に則って自由に生きることを説き、個人的解脱をめざした。儒家や墨家の主張をたくみな比喩で譏[そし]り批判した。荘子の文章表現は広大で荒唐無稽、現実世界に捉われることなく、自由に思いのままの世界が構築された。老子とならぶ道家思想の中心人物。

揚雄(前五三〜紀元十八)蜀郡成都(四川省成都)の人西漢の儒学者。姓は揚、字は子雲。『論語』を真似て『揚子法言』を著し、各地の方言を収集して『揚子方言』を著した。また『易経』にならって占学の書『太玄経』十巻を著した。易経が「陰陽」二元論であるのに対し、『太玄経』は「天地人」の三元論に基づく。ほかに『琴清英』がある。「舌を巻く(巻舌)」という言葉は『漢書』「揚雄伝」による。

屈原(前三四〇〜二九九)楚の王族。名は平。字は原、号は霊均。三閭大夫。戦国時代の末、懐王及び頃襄王に仕えて三閭大夫になったが、讒言を受けて放逐され、洞庭湖のあたりを数年流浪した。楚の亡国を嘆き、ついに石を抱いて汨羅[べきら]江に身を投じて死んだ。屈原は君を愛する忠信の心と国を思う憂愁の情とをもって『離騒』を著わした。屈原の死を嘆いた楚国の人々は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし、さらに粽[ちまき]を投げて、屈原の死体を魚が食べないようにした。それが屈原の命日五月五日として年中行事になり、舟のへさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事などが生まれた。

(前四六三〜三八三、または前五六〇〜四八〇)ネパールのカピラヴァスツの人。ゴーダマ・シッダルーダ。釈迦牟尼(zakkya-muni)、釈尊と呼ばれる。仏[ほとけ]、仏陀[ぶっだ]は「目覚めた人」という意味。十六歳で結婚し一子をもうけたが、二十九歳で一切を捨て出家した。三十五歳のとき印度ブダガヤの菩提樹のもとで瞑想に入り、悟りを開いた。その後教団を形成し民衆を教化した。八十歳のときクシナガラ郊外で没す。仏教の開祖。仏の教えを説いた経典として『法句経』『阿含経』『般若経』『維摩経』『涅槃経』『華厳経』『法華三部経』『浄土三部経』などがある。『楞嚴経』とは、修禅・五根(眼・耳・鼻・舌・身)・円通(悟りに至る智慧の実践)などについて禅法の要義を説いた経。





『山楼綉佛』 明代 卞文瑜



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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