―賞琴一杯清茗― 第十二回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の十一    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇五年五月号第五七三号掲載

今回も読書の条をいくつか挙げたいと思います。

「門を閉づれば、即ち是れ深山、書を讀めば隨處に淨土なり」

門を閉じて客の往来を断てば、たとえ市井にあってもそこは隠遁する深山と同じこと。書物を繙きその世界に入り込むなら、いたる所どこでも極楽淨土となる。

一冊の書物を繙くことは、それが世界へ至る入口となるものです。世界とは一つだけではなく、書物の数と同じくらいあるはずです。現実に在って、もう一つ別な現実への扉を開くことが、書物を繙くことです。

「閑暇の時、古人快意の文章を取りて、朗々として之を讀めば、則ち心神超逸し、鬚眉開張す」

清閑の時にあって、古人の著わした傑出した文章を手に取って、声をあげ朗々と読吟したならば、心は世俗を超越し高尚となり、顔もほがらかに伸び伸びとして、快活となる思いに至る。

「読書三到」という言葉があります。これも朱熹の言葉ですが、『童蒙須知』という書の中で、読書には「三到」を守るべきだと朱熹は説いております。「余[よ]謂[おも]へらく、讀書に三到有り、心到、眼到、口到の中、心到最も急なり。」「到」とは専一に、行き届くという意味です。すなわち「心到」、心を書物に集中し理解すること。「眼到」、目を書物にこらしてよく見ること。「口到」、書物を声を出して読むこと。中でも朱熹は「心到」を最も重要なものだとしました。

「書を讀むは藥を服するが如し、藥多力なれば自[おのづ]から行[めぐ]る」

書物を読むことは、あたかも薬を服するのと同じである。薬の力が多用ならば、体内を気力がめぐる。

漢方の考え方は、直接病を治すというより、病の予防や自らの治癒力を高めるところにあります。日頃、漢方薬を服用しているなら、体力も増進し病気に罹りにくくなります。それと同じように読書をするなら、知性を高め、知見を豊富たらしめ、気力さえも充実して、事が起きたなら適切に対処できるような智慧が生まれるのです。心身ともに健康であるために、読書は心にとって最も大切な薬となるものです。

「書室の中修行の法は、心閒に手懶[ものう]ければ、則ち法帖を觀る、其字を遂[お]ひて放置すべきを以てなり。手閒に心懶ければ、則ち迂事[うじ]を治む、其の作[な]す可く止む可きを以てなり。心手[しんしゅ]倶[とも]に閒なれば、則ち字を冩[うつ]し詩文を作る、其の以て兼濟[けんさい]すべきを以てなり。心手倶に懶ければ、則ち坐睡[ざすゐ]す、其の神を強役[きゃうえき]せざるを以てなり。心甚だ定まらざれば、宜しく詩及び襍短[ざつたん]の故事を看るべし。其の意を見るに易くして久しきに滞[とどこほ]らざるを以てなり。心閒に無事なれば、宜しく長篇の文字、或は經註[けいちう]、或は史傳[しでん]、或は古人の文集を看るべし。此れ又甚だ風雨の際、及び寒夜に宜しきなり。又曰く、手冗[ぜう]に心閒なれば則ち思ひ、心冗に手閒なれば則ち臥[ぐわ]し、心手倶に閒なれば則ち著作し字を書し、心手倶に冗なれば、則ち蚤[はや]く其事を畢[をへ]て以て吾が神を寧[やす]んぜんことを思ふ」

書斎においての修行法を述べる。心に思うことなく手に気だるさを感じたなら、法帖[ほうじょう]を見るに越したことはない。こんな時は字を書いても結局は反故[ほご]になり捨てるようなことになる。手持ち無沙汰になり、心が気だるければ、面倒な仕事を先づすべきである。こんな時は日常の煩雑な務めを片付けてしまうことが大事で、字を書する場合ではないからである。手も心も何の思うこともなく無心であったなら、この時こそ写字や詩文の創作すべきである。それを行うに上乗なる好機だからだ。反対に手も心も気だるければ、座って居眠りするに如[し]くはない。そんな時は強いて精神を使役することはない。心が集中せず妄動が起きるなら、よろしく詩や簡単な故事を読むべきである。そのような書物は長い時間をかけなくともその意を知ることが容易で、しかも長く心を安定させるからだ。反対に心が静かで無事であったなら、よろしく長編の文章や、あるいは五経の注釈書、あるいは史伝、あるいは古人の文集を読むべきである。特に風雨激しい日や冬の寒い夜などはこれらの書物を読むには最適である。手が忙しく心が静かなときは臥して横になること、心も手もともに静かなときは、著作に専心し字を書くこと、心手がともに忙しいときは、さっさと当面の仕事を片づけ、そして吾が精神を安寧にさせるのである。

文人にとって修行の場というのは書斎です。書斎においていかに修行をするか、というのがこの条の眼目です。その第一義とすべきは「自然」ということです。自然に逆らわず、自然に則って行動し、物事を考え、対処しようというのです。しかし、なんでも自然に任せ、放恣に流れるままというのではなく、心身を自然に合わせることによってすべての物事が滞りなく適切に運ぶということです。人為を働かせればいつでも自然に反することになりがちですが、自然とともに行うことが出来たなら、人為で成し得たものは意義ある大きな結果をもたらすでしょう。しかし自然に合わせると言ってもそれはたいへん難しいものです。寝たい時に寝て、食べたい時に食べ、すべてが「如意」(心が思うまま)になることが理想です。そのために修行をするわけですが、しかし文人たる者の修行とはやはり、書を読むこと、詩を詠むこと、字を書くこと、著作することでなければなりません。ここで興味深いのは、手や心に創作しようという意志が生まれて創作するのではなく、何も思うことなく無心になった時こそ創作の好機だというところです。人為的な意志よりも、自然と一体となった状態にあってこそ傑作が生まれる。だからこそ常に心を安寧にすることを心掛けるというのです。
『醉古堂劍掃』と同じころに成った書に『清閒供』というものがあります。ここにもこの条と同じものが載せられています。『清閒供』は文人の養生について詳細に書かれた書ですが、その中でたいへん面白い文章がありますので、要約ですが紹介したいと思います。それは「二六課」と題する一日の養生的生活の予定表です。

「午前七〜九時
早いうちに起き、衣服を整え、日当たりのよい窓に向かって坐り、呼吸を調整して天の気をうける。白湯を一杯飲む。茶はいけない。髪を百回以上梳[と]かす。風通しをよくして頭をすっきりさせる。顔を洗ったら朝食である。粥もよし、精進もよし。腹が満ちたらゆっくりと百歩あるき、手で腹をさすって食べたものを下におろす。
九〜十一時
読書の時間。『楞厳経[りょうごんきょう]』『荘子』、『易』の一卦などを読む。順序よく読んでいって、いろいろ妄想をたくましくしたり、議論をしてはならない。飽きてきたら眼を閉じ、唾液を数十回飲み込む。客が訪ねてきても寡黙を保ち気を養うこと。
十一〜十三時
線香一本分だけ静坐する。経行[きんひん](一定の場所を歩く)し、精神を安定させてから昼食にする。肉の入らないスープを食する。腹がへってから食べ、満腹する前に食べるのをやめる。茶で口をすすぎ、すすぎ終わったらそれを飲んでしまう。この時間帯はさかんに散歩をする。
十三〜十五時
歴史書を読む。昼寝はしてはならない。
十五〜十七時
古人の詩文を読み小酌する。法帖を臨書して楽しむ。
十七〜十九時
線香一本分静坐する。自由に行動する。夕食は早いほうがよろしい。子供の一日分の勉強をみてやる。晩酌はひどく酔わぬ程度にとどめる。湯で足を洗い、興奮を鎮め、足の湿気をとり除く。晩にはよく口をすすいで一日の飲食の毒をとり除いておく。
十九〜二十一時
灯火をつけて坐る。むづかしいことは考えず、書物などあまり読まない。二更をすぎて起きていてはならない。ゆっくり眠って元気を養う。寝る姿勢は側臥で上側の足を曲げておく。
十二〜一時
午前零時ごろは、嬰児が幼児にかわる時刻で、身体の元気はこのころ発揚する。時間をみはからって、布団にくるまって心を空にして坐る。線香一本分。命門(へその真裏、背中側)を固めていると、エネルギーは日々増加する。目が覚めてからこの法を行えば、老いてもなお長命を保てるだろう。
一〜五時
精気が発生する時間なので、熟睡してはならない。安静にして精をその居場所に落ち着かせておく。弓の形に側臥しておけば、精気は廻りまわって漏れることはない。また芽生のように折れ裂けることもない。こうして生気を迎える。
午前五〜七時
目が覚めたら着物を着て臥所[ベッド]に坐る。歯を噛み合わせること三百回、両肩を動かして筋骨を調整し、陰陽を調和させる。衣服の塵をはらって臥所を降り、やり過ぎは禁物である。」(『中華文人の生活』所収、大平圭一「日日と四季の健康法」より)

いかにしてこの身を全うして人生を終えるか、いかにしてこの生を意義あるものにたらしめるか、そのことが文人にとって大きな問題です。長くこの世の生を享受して、楽しむこと。そのためには「養生」は最も大切なことです。文人の生き方というのはとてもエピキュリアン(快楽主義)的なのです。









『長江萬里圖』 明代 呉士英



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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