―賞琴一杯清茗― 第十回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の九    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇五年三月号第五七一号掲載

「怪石[くわいせき]を實友と爲し、名琴を和友と爲し、好書を益友と爲し、奇畫を觀友と爲し、法帖を範友と爲し、良硯を礪友[れいいう]と爲し、寳鏡を明友と爲し、淨几を方友と爲し、古磁を虚友と爲し、舊爐[きうろ]を薫友と爲し、紙張を素友と爲し、拂麈[ほっしゅ]を靜友と爲す」

怪石を真実の友とし、名琴をもって和合する友となし、好[よ]き書物をもって有益なる友となし、創造的な画をもって観賞の友となし、法帖をもって規範となる友となし、良き硯をもって切磋琢磨する友となし、宝鏡(銅鏡)をもって心を明らかにする友となし、清き机をもって品行方正なる友となし、古い陶磁器をもって無欲の友となし、古い香炉をもって薫陶せる友となし、紙の帳[とばり]をもって質素なる友となし、拂麈(払子)をもって静かなる友となす。

これらは「文人清閑」のために無くてはならないものばかりです。それぞれが文房において清玩し深く長く付き合うべく、生涯の友となるべきものです。
石というのは長い間風雨に晒されてもその形を変えることなく、普遍的に在り続けます。それは真に変わらぬ友情のようなもの。石は生涯の友とするに最もふさわしいものでしょう。
奇石怪石趣味は文人の嗜好から生まれたものです。特に太湖石、霊璧石は最も文人が好んだ石で、数ある奇石怪石の中で代表と言うべきものです。太湖石というのは、中国江蘇省と浙江省の境にある太湖に浮かぶ島洞庭西山から採れる石です。何万年もの間、湖(アルカリ性の水質)の波浪の浸食を受けて、波打つような穴だらけの奇怪な様相となった灰白色の硬質な石灰岩です。歴代の文人で太湖石を最も好んだのは、白居易や米芾[べいふつ]です。白居易は太湖石を分類して「痩・皴・漏・透」なるものを佳しとしました。米芾は名石に出会うと、最大の敬意を表してそれを拝んだと言います。米芾が拝したという太湖石が今も蘇州寒山寺にあります。
太湖石の名石は湖底や湖岸から採れ、北宋末の文人皇帝、徽宗の時にそれはほとんど採り尽くされたと言います。中国の古典園林(庭園)には必ずこの太湖石が中心に据えられ、園林を形成するために重要なものでした。太湖石に配せられた竹や蘭、牡丹などは文人的美意識に適うもので、これは多く画題となっています。同じ石庭といっても京都龍安寺[りょうあんじ]の石庭とははるかに異質で観賞の仕方も違います。龍安寺の石庭は室内や縁側に座って、庭に足を踏み入れることは決してなく一幅の画を眺めるように外側から観賞するものですが、中国の園林のそれは、亭に座って眺めるということもしますが、庭の中に足を踏み入れ、彷徨うようにして鑑賞します。太湖石をいくつもの組み合わせて洞窟を象徴的に形作り、あるいは蓬莱山、崑崙山に見立て、登山の気分を味わったり迷路のような石の間を逍遥したりします。蓬莱山とは、瀛州[えいしゅう]、方丈とともに三神山と呼ばれ、東方海上にある仙人が住む島です。崑崙山は西方の山、宇宙山とも言われ、ここにも仙人が住んでおります。蓬莱山は日本のことだと思われた時代があり、富士山の別名でもありました。
文人の道教的な世界観に基づき、園林は作られます。洞窟とは洞天とも言い、道士が仙人になるための修行の場所、あるいは桃源郷や別天地へ通じる入口と考えられました。洞天の閉じた空間、小宇宙の中に大宇宙の無限の広がりを観るといった「壷中天」の考え方がここにもあるわけです。穴のあいた太湖石にはそのような象徴的な意味が含まれております。
もう一つ、文人の居室に飾る石として霊璧石があります。この石も形は太湖石に似ておりますが、光沢ある漆黒色をして、叩くなら清音が響く緻密で硬質な岩石です。中国宿州霊璧県(安徽省鳳凰地区)の磬山[けいざん]で採れる石です。太湖石のように大きなものは採れず、小ぶりで机上に置いて愛玩するにふさわしい石です。宋の趙希鵠は『洞天清祿集』の中でこう述べています。「その石は山谷にはなくて、深い土の中を掘るとあらわれてくる。色は漆のようで、なかには玉のような細かな白い地紋があるが、山なりの起伏はなく、岩岫[がんしゅう](岩穴)もない。よいものは菡[艸+●+臼][はちす]のようである。あるいは臥牛のようななりをし、蟠螭(わだかまるみづち)のようななりをしている。叩くと音は金玉のように高く澄んでいる。よく切れる刀で削っても、びくともしない。この石は香を吸収する性能があるので、書斎の中に置いてあると、香の煙が一日中たゆとうて散らない。その峰の起伏のあるのを取らない。」
硬質な石が香を吸収するというのは考えにくいことですが、硬いといっても霊璧石は水晶のような結晶ではなく岩石ですので、目に見えない気孔が表面に無数にあるのかもしれません。
机上にある、宇宙や世界を象徴的に凝縮した霊璧石を愛玩するなら、たちまちにして地上の現実世界を遊離して向こう側の別天地に行くことでしょう。市井にありながら煩わしい俗世間を逃れる隠遁術として、これも一つの方法です。

琴[きん]の音というのは「和」なる音です。よく音調が整えられた琴は、調和ある旋律を奏でます。君子は琴を奏でることによって中和の気を涵養します。琴曲には「中正和平」なる曲が多く、その趣を最も尊び、琴譜(琴の楽譜)の最初にはそのような曲が必ず載っています。
昔、帝舜が琴を奏で「南風歌」を歌うと、民は安らぎ天下は治まったと言います。琴韻の響きによって世の中は平和になったのです。面白いことに、日本の琴の歴史を振り返ると平和な時代に盛んに弾じられ、戦乱の世には絶えていたという事実があります。奈良から平安時代にかけて琴は響き、鎌倉室町の武士社会では全く聴こえませんでした。天下泰平の江戸時代はその初めから響き、それが昭和の大戦前まで続きます。琴學書に「琴有所忌」(琴が忌むところ)として古人はこう言っております。「武士の家も琴を鼓[こ]す(弾ずる)に相応しくない。武士はすなわち戦を旨とする。聖人は兵を以て凶器と見做す。それ故に武士は琴を鼓すのは宜しくない。武将の家には琴の音が聞こえない。戦の準備をし、金具の音が喧しい」と。
琴の音は、まわりの音にすぐかき消されてしまうほど小さな音です。静かでないと琴の音は聴こえません。人を沈思させ内省に赴かせ、決して心を鼓舞させたり、闘争心をかき立てたりする音ではありません。だから乱れた世や戦に明け暮れた時代に受け入れられなかったのでしょう。しかしこうも言えます。琴が響かなかったから戦乱の世になってしまったと。琴によって静寂が生まれます。静けさは平和でなければありえないものです。
現代も琴韻がよく響き、人々が心安らかに暮らせる世の中であることを切に願うばかりです。





徽宗(1082〜1135)北宋の八代皇帝。名を趙佶。在位は1100〜1125年。神宗帝の十一男。哲宗(趙煦)の異母弟にあたる。元豊八年(1085)に遂寧郡王に封ぜられ、紹聖三年(1096)に端王に封ぜられた。道教を尊崇し、自らを教主道君皇帝と称した。宮殿や庭園を作り、多くの道観を建てたりして、国費をついやした。また芸術活動に専心し、画院を盛大にして院体画の隆盛を招き、中国文化史上最も優れた時代、宣和時代を現出した。自らも詩文・書画・音楽(琴)に優れ、多くの傑作を生み出した。日本にある「桃鳩図」は国宝に指定されている。とくに書法は一家を創始し、痩金体と称され、「千字文巻」などの書跡が後世に伝わっている。しかし、「風流天子」と言われるように政治に関しては疎く、金との紛争を生じた。宣和七年(1125)、金軍が開封(首都)に迫り、皇太子(欽宗)に譲位するも、翌年、開封は陥落。靖康二年(1127)、徽宗は欽宗や后妃・皇族らとともに金軍の捕虜となり(靖康の変)、五国城に抑留されて、その地で没した。

米芾(1051〜1107)湖北省襄陽の人。字は元章、号は襄陽漫士、海嶽外史、鹿門居士。母が英宗(在位1063〜1067)の宣仁皇后高氏(1032〜1093)に仕えた縁で、秘書省校書郎を初任として、南方の地方官を歴任し、崇寧二年(1103)には太常博士に上った。翌年、書画学博士となり、礼部員外郎に挙げられた。知淮陽軍を最後の官として没した。書画に優れ、とくに山水・樹石を得意とした。「米法山水」(米点)を創始し、後世の文人画に大きな影響を与えた。また金石古器を蒐集し、とくに奇石を好んだ。米芾の「拝石図」は多く画題となっている。性格が奇矯で奇行が多く「米顛」と称された。蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに宋の四大家のひとりに数えられる。蘇軾とは、流謫先の黄州に彼を訪ねて以来(1084)、生涯の友人であった。子の米友仁(1074〜1151)に対して「大米」と呼ばれる。著書に『書史』『畫史』『寶章待訪録』がある。

帝舜 生没年不詳。伝説時代、河北省冀州[きしゅう]の人。姓は姚、名は重華。字は都君。有虞氏。目の中にふたつの瞳を持ったといわれる。歴山で耕作し、雷沢で漁し、河浜で瓦器を焼き、寿丘で什器を作り、負夏で商売を行って利益を納めた。四獄(四人の賢者)に見出されて推挙され、堯帝のふたりの娘(娥皇・女英)をめとった。天文を正し、祭祀を整え、諸侯を監察し、刑罰の規定を定め、天下の人々はみな舜に服し、ついに天子となった。天下を九州に分けて統治する。南方に巡狩して蒼梧に崩じた。五帝(黄帝、帝高陽、帝高辛、帝堯)のひとり。舜帝の死後、ふたりの妻は湘水に身を投げたという。





[奠+邑]板橋「石竹圖」



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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