―賞琴一杯清茗― 第八回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の七    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇五年一月号第五六九号掲載

「窓は竹雨[ちくう]の聲[こゑ]に宜[よろし]く、亭[てい]は松風の聲に宜しく、几[き]は硯を洗ふ聲に宜しく、榻[とう]は書を翻[ひるがへ]す聲に宜しく、月は琴聲[きんせい]に宜しく、雪は茶聲[ちゃせい]に宜しく、春は箏聲[さうせい]に宜しく、秋は笛聲[てきせい]に宜しく、夜は砧聲[ちんせい]に宜し」

 竹に降りしきる雨音を聴くには窓辺に寄り添うのを宜[よ]しとし、松風を聴くには亭[あづまや]においてが最適である。硯を磨[す]るには机上で行うのがよく、書物を読むのは榻(『煎茶道』九月号三七頁参照)に椅[よ]って繙[ひもと]くを宜しとする。月夜には琴を弾ずるのを宜しとし、茶は清らかな雪で煮るのがよい。箏(おコト)の音色は春がふさわしく、笛の音は秋、砧[きぬた]を叩く音は夜に聞くのがよい。

 古えと現代の大きな違いは「音」にあるのではないでしょうか。静寂と騒音と。古えの時代は現代のように騒音など存在せず、常に静寂が支配していたと思われます。電気や機械の音を無くせば、ほとんど無音の世界となるのですから、現代と比べて環境の音というものが極端に少なかったと容易に想像できます。外から聞こえてくる音は自然音がほとんどであったはずです。その中にいて、ほんの少しの物音でもたてるなら、明かに聞こえ、大きくよく響いたことでしょう。騒音に慣らされた我々の耳よりも古人の耳の方がははるかに敏感だったに違いありません。
 竹林に降る雨音や松風の音は、それ以外の音が無い静寂の中で聴いてこそ美しく感じるものです。面白いことに風にそよぐ竹林や松風は、あたかも現代の白色雑音(ラヂオの周波数が合わない音)に似ています。じっと耳を澄ますなら幻想的な気分に誘われる音です。
 窓を閉め切った書斎においては、硯を磨[す]る音や書の頁をめくる音など、これ以上無い微かな音が大きな響きとなります。琴は「静寂の音楽」というべき、静寂をさらに美しくする音楽です。琴には絃を押さえる徽[き]という勘所とするものがありますが、それは青貝を丸く型抜いて象嵌したもので、青貝はよく月の光を反射すると言われます。それゆえに月下にこそ琴は弾ずるにふさわしい楽器です。静かな雪の夜、茶をいれるために雪を溶かした湯罐が煮える音も人を寂寞たる思いにさせる音です。
 砧を叩く音というのは、現代ではすでに聞くことのできない音となってしまいました。砧とは、麻や楮[こうぞ]、藤、葛[かずら]など、 樹皮からとった繊維を柔らかくし艶を出すためにとんとんと叩くことを言います。あまり強く叩いては繊維が傷んでしまうので、これをするのは専[もっぱ]ら女性の仕事でした。砧を叩く音は静かにやさしく夜のしじまに響き、秋の夜をいっそうもの悲しくさせたことでしょう。この音に中国や日本の詩人たちは詩心を刺激され、多くの名句が残っております。
 李白の「子夜呉歌四首 其三(秋歌)」の最初の句「長安一片の月 萬戸[ばんこ] 衣[ころも]を擣[う]つの聲」は夙[つと]に有名です。また俳聖松尾芭蕉には「声澄みて北斗にひびく砧哉」の発句があります。これは平安時代の歌謡集『和漢朗詠集』所載の劉元叔(唐代詩人)の「北斗の星の前に旅雁(りよがん)横たはり、南樓の月の下[もと]には寒衣[かんい]を擣[う]つ」に基づくと言われます。芭蕉の句に影響を与えた漢詩を挙げるなら枚挙にいとまがありません。
 『和漢朗詠集』には「擣衣[たうい]」という項を設けるほど多くの砧の詩が載っております。「誰[た]が家の思婦[しふ]か 秋帛(きぬ)を擣[う]つ 月苦[さや]かに風凄[すさ]まじくして砧杵[ちんしよ]悲しめり」(聞夜砧)白楽天。「錦[にしき]を織る機[はた]の中[うち]にすでに相思[さうし]の字を辨[わきま]へ 衣を擣つ砧の上に俄[にはか]に怨別[えんべつ]の聲を添[そ]ふ」(長安十五夜人賦)公乗億[こうじょうおく](唐代詩人)、「閨[ねや]寒くして夢驚く 或[あるひ]は孤婦[こふ]の砧の上[ほとり]に添ふ」(青女司霜賦)紀長谷雄。
 また、紀貫之[きのつらゆき]の歌に「からごろもうつこゑきけば月きよみ まだねぬ人をさらにしるかな」というのがあります。
 これら古人が愛でた音は、静寂があってこそ聞こえてくる音です。微かな音の響きによって、静寂はさらに深まります。

「山房に古琴一枚を置く、質は紫瓊緑綺[しけいりょくき]に非ず、響は焦尾號鐘に在らずと雖も之を石床に置き、快く數弄を爲せば、深山人無く、水流れて花開き、清絶冷絶たり」

 山の住居には琴が一台ある。その材質は紫瓊琴や緑綺琴にほど遠く、その響きも焦尾琴や號鐘琴に及びもつかないが、庭の石台に置いて気分良く数曲を弾じれば、この深山には人はいなく、川の水は流れ花は開き、真に清らかできわめて冷ややかな心地がする。

 紫瓊、緑綺、焦尾、號鐘はともに名琴の名。琴は深山幽谷、窮閻陋巷(貧しく俗な巷間)にあっても文人の側に常になければならない具です。断文(ヒビ割れ)美しい古琴ではなくとも、規矩に法って製せられた琴は太古の遺音を得ることができます。たとえ今新しく作られた琴であっても。
 この句は琴を弾ずることの意味を明らかにしています。琴は自然に向かって弾くことでその音楽性が表明されると言ってよいでしょう。月に向かって、川のせせらぎに向かって、玉樹に向かって琴は弾じられます。人の耳目を楽しませるための音楽ではなく、自然と唱和することで道と一体となって琴韻は響きます。自然が聴き手なのか自分が聴き手なのかわからなくなるような境地に至ってこそ琴を弾くことの本来の意味があります。人に聴かせて賞賛されることを要求せず、あくまで自己が娯しめばそれで良しとする音楽です。疎[そつ]なく正確に弾くことを目的とはしません。もちろん上手に弾くに越したことはありませんが、それよりも「琴中の趣」を知ることが大切です。
 日本の代表的琴人のひとり浦上玉堂はその一生を琴に捧げた人です。しかし当時の玉堂に対する琴の評判はあまり芳しくありませんでした。「僅かに二、三曲のみ受け未熟と見え、今玉堂の弾くのを聴くと、指法も拍子も少しも師に似ず」(新楽閑叟『閑叟雜話』)と玉堂は批判されております。しかし玉堂はそれに反論するように「私は常に、琴を学ぶ者は一曲を弾くに止めるべきであって、多くの曲を貪ってはならぬと戒めている。ただ一曲を愛する古人は多い。若しも高尚なる志があれば一曲で十分である。楽器の演奏に拘わらずにその心を得るべきである。陶淵明は、琴中の趣旨を識っていれば、何も絃上の声を労することはないといった。善い哉。」(『玉堂琴譜』答問八則)と言っております。玉堂はその漢詩集『玉堂琴士集後集』の中でこうも吟じております。

  玉堂鼓琴
 玉堂琴を鼓[こ]す時
 其の傍[かたはら]に人無きが若[ごと]し
 其の傍に何ぞ人無き
 嗒然[たうぜん]として我身を遺[わす]るればなり
 我身は琴に化し去る
 律呂[りつりょ]心神に入る
 上皇起[た]しむ可からず
 誰か此の天眞を會せん

(この玉堂、琴を弾く時、その傍らに人無きが如くである。何ゆえその傍らに人無きが如くか、すっかり我がことを忘れて琴を弾いているからである。我身は琴と化し、琴の調べは深奥に入る。もはや太古の聖天子が今の世にいないというなら、誰がこの私の天真の心を理解しよう)
玉堂はまさに琴をもって「道」を体現した人です。そしてまた日本を代表する文人であり、日本的美意識を貫いた人でもありました。





松尾芭蕉(1644〜1694)伊賀上野(三重県上野市)の人。幼名金作、名は宗房、号は桃青、芭蕉。江戸時代前期の俳諧師(連句)。日本中を旅し『野ざらし紀行』『鹿島紀行』『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』などの紀行文がある。蕉風俳句を確立し、数多くの名句を残した。

紀長谷雄(845-912)京都の人。字は紀寛。紀納言・紀家ともいう。菅原道真の門下。『日本詩紀』『本朝文粋』『本朝文集』『和漢朗詠集』などに多くの漢詩文を残す。

紀貫之(872〜945)平安時代中期の歌人。『古今和歌集』の筆頭撰者。その序文は最初の歌論として有名。著書に『土佐日記』、歌集に『貫之集』がある。三十六歌仙の一人。







呉宏(清代) 小山遠歌圖(部分)



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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